第二部 16
──昭代はね、秋世くんが死んだ時、身代わりにする子だったのよ!
──秋世くんの身代わりだから、『昭代』なのよ!
妙子さんとの待ち合わせ場所は、彼女の通っている大学の校門前だった。
「ごめんね、待たせた?」
「俺も今来たところですよ」
和やかにいとこ同士の挨拶を交わした。まだ忌中明けではない。、もちろん外へ喪服のまま出かけるわけにはいかない。妙子さんは明るいグレーの、ぴったりラインスーツ姿で現れた。秋世も親に学校の用事がある旨言い訳して出てきたわけなので、青大附中の制服を着ていくしかなかった。気温急上昇、かなり暑い。
相変わらずぺたっと張り付いたような髪の毛をかき上げるしぐさをし、妙子さんは秋世に微笑みかけた。
「この前はごめんね。私も言い過ぎたわ。秋世くん、名誉回復のチャンスをくれてありがと」
「いやいや、あの時は俺もきてたし」
笑ってごまかした。電話連絡を入れたのが忌引休暇中の午後で、両親および瑞希おばさん夫婦が家を離れたと思われる日だった。いくらなんでも、忌引中に外で遊びたいというのは非常識だろうし、妙子さんのきつい態度からしてもそう簡単に話を聞いてくれるとは思えなかった。
なのに、意外だった。
──どういう風の吹き回し、って言うんだろうな。
軽やかに、さわやかに、相変わらず周囲の女子大生と同じ化粧、服装で。
──なんで「秋世くんごめんね、私も、謝りたいと思っていたの」って切り出すんだろうな?
電話口に出た妙子さんは冷静でいつも通りのいとこの仮面を被っていた。
傍に昭代がいたかどうかは定かではない。仮通夜前の食って掛かり方とは違っていた。もともと妙子さんはさっぱりした口調で話す人だけども、今の態度は親切過ぎる。丁寧過ぎる。
──女子大生は俺にまだ理解不可能なタイプの存在だなあ。本条先輩に今度レクチャーしてもらおっかな。
いつものお坊ちゃま仮面を被り直した。
家ではとっくの昔に剥ぎ取ったものだった。
学校は一応男女共学だが、七割が女子だという。国文科専攻の妙子さんは将来、高校の先生を目指すのだそうだ。葬儀中は教育実習が重なっていたこともあって気が立っていたのかもしれないと聞いている。秋世なりに肯定的な判断を下してみた。
「教育実習って、大変っすか?」
「まあね、でも英語とか数学とかにくらべたらまだましよ」
「いや俺、学校の先生になりたいってこと自体、すげえことだと思いますよ」
本音で秋世は答えた。
妙子さんは両脇からたれる髪の毛を両手で肩に流した。
「秋世くんは将来何になりたいの?」
「まだ先のことだしわかりませんよ。小学校で俺の能力全部使い切ってるから成績ぼろくそ悪いし」
認めたくないが、本音である。
「昭代はね、もう決めているみたいよ」
さらりと言葉をつなげた。
「へえなんにですか」
「保健の先生になるんだって。養護教師」
そんなの知るわけもなかった。育ての姉のみぞ知るというところか。
空を見上げ、秋世は妙子さんの方を覗き見た。背は大体同じくらいだった。葬儀の時に着たような黒いスーツで並べば、秋世ももう少し老けて見えるだろう。普段の格好だったら、街でしょっちゅう高校生に間違えられることも多い。青大附中の制服を脱ぎたかった。
ネクタイをはずそうとして手をかけた。妙子さんに叱られた。
「悪いけどここ、大学なの。部屋に入るまで、きちんとした格好でいてちょうだい」
「どこに行くっすか?」
妙子さんは答えず時計を覗き込んだ。秋世も真似して左手を持ち上げた。ちょうど十五時少し前だった。すれ違う大学生たちが、妙子さんに時たま声をかけていく。大学の講義はそれぞれ好きなように選ぶことができるので、妙子さんもそれなりに時間割を調節しているのだそうだ。
「今日ね、うちの親にはね」
少し硬い顔をして、妙子さんは呟いた。
「学校でどうしても提出しなくてはならないレポートがあるからということで出てきたのよ。秋世くんは?」
「俺も、規律委員会の打ち合わせがあるからどうしてもって」
嘘だ。「学校に用あるから」とだけ言い捨てて、追う母の声を無視して飛び出してきたのだ。
「規律委員なんて似合わないよね、君にはね」
「でしょうでしょう」
目一杯明るく笑うことに秋世は徹した。
家の中で、笑顔を作ることはできなかった。
そのまま学校の校舎に靴のまま進んだ。なんだか土足で踏み込んでいるような気分になる。三階まで上がっていくのがなかなか大変だったが、男の意地で息つかず昇りきった。緑色の掲示板が突き当たり一杯に張り巡らされていて、「今日の補講」「本日の休講」などのメモ書きが画鋲で留められていた。
一枚に目を留め、
「大丈夫ね、たぶん来ないわね」
独り言をもらした。
「誰か来るんですか」
「いいえ、独り言」
もう一度妙子は腕時計を覗き込んだ。右腕に絡んでいる細いチェーンはブレスレッドにそっくりだが、ちゃんと丸い時計がぶら下がっている。金色がやたらと目立っていた。時計だけは喪に服していない。
「今から私の担当教授の部屋に行きます。そこで話しましょう」
「担当教授ってなんですか」
「喫茶店や図書館では、人の目が気になるし、秋世くんも落ち着かないでしょう」
「俺は別になんでもOKですけど」
少し背中がむずむずしてきた。担当教授の部屋とか言うと、やはり第三者が入るということだろう。そちらの方がいろいろまずくないんだろうか。
「教授には話をしてあるから大丈夫よ」
「話って、何をですか」
「人目を避けて話をしたいでしょう」
それはまあ、そうだ。
しかし担当教授の立場はどうなるんだろう。
即、口に出した。
「けど、そこ人の部屋だし」
「大丈夫。教授もみんな私のこと知っているから。口は堅い人だしね」
そういう問題ではないような気がするのだが。
大学の世界はよくわからない。おそらく国文科の教授なのだろうと推測した。まだ自分が中学生である以上、七歳年上のお姉さんにしっかりくっついていくしかなかった。
緑色の掲示板が途切れたところに、薄汚れたエレベーターが設置されていた。
妙子さんがボタンを押すと、まどろっこしく階を示す番号がひとつずつ上に上がっていった。開いたドアも、乗ったとたんきしむ床も、かなりこれって世紀末じゃねえか、と思わせるような代物だった。中は空だった。
「上の階は教授専用の個人研究室棟。学生がうるさいと研究できないから」
「そういうもんっすか」
クラスメートで、語学だけ大学の講義を受講している立村のことを思い出した。
「けど、そこに行ってどうするんですか」
「だから話をするんじゃないの」
それはそうだけど、と言いかけて秋世は黙った。五階に到着したらしい。黙って戸が開いた。下の階で感じた喧騒とは裏腹に、ほとんど人の息遣いが感じられない空気と、なぜかじゅうたんが敷き詰められている床に、しばし息を呑んだ。
「別世界ですね」
「違う雰囲気よね」
細い廊下を妙子さんは大またでつっきって行き、一番奥の部屋の前で立ち止まり、ノックを二回した。男性の声がした。
「どうぞ」
「私です」
苗字を名乗らなかった。妙子さんは音を立てぬようにドアノブをひねると、戸口でまず一礼をした。後、秋世にも同じことをするよう促した。よくわからないが、とにかく頭を下げた。ドアの隙間から見えるのは、大量の本で埋め尽くされた本棚と、幅広い机と、タバコの吸殻が山盛りに。
黒いめがねをかけた男性が、煙をくゆらせながらその机に尻を押し付け立っている姿。
冷房のかたまった冷気で、のどから身体が凍りついたような気がした。
秋世を部屋に入れた後で、妙子さんはもう一度礼をした。
「先日はいろいろとありがとうございました」
「とにかくおかけなさい」
規律委員長として壇上に上がった気持ちで秋世もまた礼をした。大人にはよけいなことを言わないほうが、今のところ身のためだ。そう判断したところもある。
白髪交じりの男性は、手で数回、もくもくした煙を払うようなしぐさをした。左手に隠し持っていたコンパクトのような入れ物をぱかっと開き、その中にタバコを押し入れた。
「コーヒーは好きなだけ飲んでいい。私は隣の部屋にいるからな」
「ありがとうございます」
コーヒーがどこにあるのか、妙子さんは承知済みらしかった。机の脇に置かれていたポットと、紙コップ、インスタントコーヒーを取り出し、手早く二人分のコーヒーをこしらえた。
「秋世くんは、コーヒー大丈夫?」
「はい、ブラックでもOKです」
「お砂糖入れようか」
「いいです」
そばで、息と笑う声が聞こえた。腰掛けて待っている秋世を見下ろす男性……おそらく妙子の言う「担当教授」とはこの人だろう……と目が合った。
「君は、青大附中なのかい」
「はい」
「何年生だい」
「三年です」
明るく、はきはき答えたつもりだった。教授は続けた。
「君、童貞かい?」
「へ?」
おどけるしか返事しようがないではない。
妙子さんが発言を耳にしていたかどうかは読み取れなかった。コーヒーを持ってきて表情を一切変えずに、秋世の前に置いただけだった。ふたりの大人にはさまれて、秋世は身動き取れなかった。見上げたまま、さわやかスマイルで、
「それって、答えないと、まずいことですか」
天然無垢な中学生の顔して答えてみた。女性の前でだ。妙子さんの担任教授に恥をかかせるわけにはいかないだろう。そんなエロネタ、仲間うちだったらいくらでも「あっそうっすか、まあそういう感じっすね」とやり返せる。でも、この人はなんなのだ? 薄紫のシャツ姿で、上のボタンをふたつはずし、ちょび髭を生やしているこの人に。第一、この人は本当に教授なのか? まあ年齢からしたら髪の毛の色からしてたぶん、そうとうのお年と思われなくもないのだが。
──たぶん、五十歳は越えてるだろうな。
「妙子くんがこれから話すことを考えると、それは確認しておいたほうがいいね」
つんと済ましたまま、紙カップのコーヒーをすすっている妙子さん。
──「くん」って、いったいなんだよ。
コーヒーの匂いとタバコの煙が混じりあい、こめかみのあたりがきいんと痛んだ。
──童貞でないほうがいいのかもな。
大人である条件の一つを満たしたほうが、二人の大人と立ち向かうにはプラスに働くだろう。すばやく判断した。
「そうっすか」
言葉を飲み込みながら、秋世はめいっぱいのやんちゃな笑顔を持って答えた。
「残念ながら本命とはまだだけど、とりあえずは、済ませてますよ」
隣の部屋にいる、と最初は言いながら、結局教授は秋世の隣に座りこんだ。
テーブル角の直角を囲む格好となった。秋世の隣に妙子さんがいる。外でばれないように、と注意深く振舞うくせになぜ、教授という第三者を挟み込むのか、そのあたりが解けなかった。
──しかも、妙子さんを「くん」付けで呼ぶしな。
秋世は白い紙コップをつかもうとして挫折した。カップから伝わってくる熱に指が耐えられなかった。ようやく一口飲んだはいいが、過剰に甘ったるくて閉口した。ブラック、と注文しておいたというのに、妙子さんは余計な気を回してくれたらしい。
教授は白いマグカップにもう一杯注いで、のどぼとけを膨らませて飲んだ。
「妙子くん、いいかい」
確認の意。
「お願いします」
「南雲くん、だったね」
秋世の顔を覗き込む教授から、タバコの匂いがぴんぴんと流れてきた。
「はい」
「今から、妙子くん側の事情を僕が代わりに話すけれども、それは決して君を責めるためではないんだ。そのことだけは、よく理解していてほしいんだ。それと、僕がなぜ、君の家庭事情について口をはさまなくてはならないかというとだね」
コーヒーで唇を湿らしながら、教授は続けた。
「僕と彼女は、許婚なんだよ」
「許婚、ってすなわち、あの、婚約者、フィアンセってことですか」
──そんなの聞いていないぞ。
秋世は隣の妙子さんの視線を追った。どうも知られたくなかったらしく、すっかり項垂れている。歳が離れすぎてるのではないかとか、本来ならば今感じた疑問をそのまま、単なる冗談なんじゃないかとか、いろいろとつっこみたい。状況がこんな重たいものでなければからかってやってもよかったのだろうが、そんな余裕あるわけがない。
「へえ、それはおめでとうございます」
「まだ先よ。今年は忌中だから来年以降よ」
ちらと火がのどもとにちらちら燃えたような気がしたけれど、ごくんとつばを飲み込み消した。妙子さんはまた両手でコーヒーを飲んだ後、髪の毛を後ろによけた。
「それでだ。南雲くん、いや、秋世くんと言った方がいいかな」
「はあ」
「僕が今から話す内容は、君にとっては信じがたいことだろう。誰が悪かったわけでもないんだ。誰もが大切なものを守ろうとしたという、ただそれだけのことなんだよ。わかるか」
初対面の男に……いくら五十歳過ぎの、いとこのフィアンセなんぞに説教されたくもない。妙子さんの態度を見る限り、秋世を前にして語るこのイベントは、計画済みのものであったとも思えるし、その中にはまた秋世の知らない秘密らしきものが隠されているのも確かだろう。
「おじさんおばさんも知ってるんですか」
「知っているよ。だから頼まれたんだ」
──頼まれた?
秋世の知らないところで、すべて計画されていたいろいろなよしな。
両親も、おじもおばも、決して口にしない秘密を、この白髪教授を通してばらしてもらえる。これを利用しない手はない。判断は早い。秋世のくせだった。
──ま、俺も、Bまでは行ったしな。
さっき口走った嘘の味をつばで感じ、秋世は大きく頷いた。
「俺、覚悟はあります。全部教えてください」
妙子さんが秋世のカップをちらりと見やり、
「コーヒーが冷めてるわね」
一言だけ残し、また入れ直してくれた。
──この暑いさなかになぜ、こんな熱いコーヒー入れたがるんだろうな。
関係ないことをふと思った。
教授の苗字はまだ教えてもらえなかった。フィアンセなんだから、そのあたりもっとオープンでもいいのにと思うのだが、あえてその辺は口にしなかった。話を聴くことに専念したので、コーヒーは一切飲まずにいた。
「君の妹くん、昭代ちゃんと言ったね」
「はい」
どうせフィアンセなんだからすべて家庭事情はすべて聞いているのだろう。
「先日、僕の関係をたどって精神科医に診察してもらったのだけどね」
「せいしんか?」
耳慣れない言葉が飛び込み、鼓膜が破けそうだった。妙子さんの方をまた覗き込むが、彼女はうつむいたまま紙コップを握り締めたままだった。
「あいつなんかおかしいんですか」
「おかしいんじゃないわよ」
妙子さんの言葉をさえぎるように机を軽く叩いた教授。無表情だった。
「昭代ちゃんは幼い頃からいろいろと精神的に不安定になることが多いので、妙子くんのご両親も非常に心配していた。ただその理由が、あまりにも幼いゆえにわからなかった。ただある程度年齢が行った段階で、少しでも気持ちが楽になるようにと、それで今回特別な病院を紹介させていただいたわけなんだ。つまり、過去の記憶を少しずつ巻きもどして思い出させるというそれだけのことなんだけどね」
──過去、かよ。やっぱり俺が髪切り切りに燃えたのがばれるわけかよ。
あえて罵った。もちろん口には出さない。別のことを尋ねた。
「昭代の不安定になるところってどんなとこですか。俺を見て逃げたくなるとことかですか」
否定されると思ったのに、思ったよりもあっさり認められてしまった。
「そうだね、それもあるね。君のことをどうしてそんなに怖がるのか、その理由も探らなくてはならないという話でね」
「で、俺が昭代に何かしたってわけですか」
隣の妙子さんはうつむいた。思いっきり顔を引きつらせるようにした。妙子さんだけを見ていたら、いくらでも答えが出てくるだろうに。そんなもの見たくないとわかっているから、秋世は教授に話をせがむ。
「これについては、あくまでも昭代ちゃんの記憶に残っていたことだから、それが正しいかどうかはわからないよ。君はどこまで聞いているの」
「俺が五歳の時に、はさみもって昭代を追いかけまわしたことです」
両親から言い含められた、おそらく上っ面だけの理由を口にした。特に表情を変えず、教授は頷いた。
「五歳くらいの男の子はやんちゃだ。ごくごく普通のことなんだ。ただ、昭代ちゃんにとってはそれがたまらなく恐ろしいことだったらしく、君の子どもっぽいやんちゃぶりが記憶に刷り込まれてしまった。そうだな、たとえば子どもの頃、犬にかまれた人がそれ以来、猫くらいの犬でも怖くて逃げ出してしまうようになったり、おなかを壊した記憶が無意識のうちに残っていて、ケーキが今でも食べられない人とか、いろいろいるんだよ。それの一つだったんだ」
「けど、それだけであんなに俺を避けるってことはないと思います」
妙子さんがさらにスカートを引っ張るようなしぐさをした。
「俺が何か、救いようのないことをやらかしたからですか。たとえば、いわゆるお医者さんごっこしたとか」
きりっと妙子さんの目尻が釣りあがった。でも声は出さずうつむいたままだ。
「もし、昭代の記憶にそんなのが残ってるんだったら、はっきり言ってください」
言葉でははっきりと言い切ってしまえる。自分では全く記憶に残っていないことだらけだから。でも、妙子さんも、教授も、両親も、昭代本人も、「お前がやったことはこれなんだ」と言う顔で秋世を見つめる。それが正しいことなのだと言わんばかりにだ。秋世には全く記憶に残っていないことだから、謝ることすらできない。もし同じことを他人が昭代にしようとしたら、思いっきり殴りつけるだろうに。殴るに値することを、自分がしたとはどんなことがあっても認めたくない。そのくせ、教授にはその反対を要求している。ふたりの自分が秋世の中にはいる。「イエス」と答えてほしいのか、それとも「ノー」を出してほしいのか。そのどちらかなのかわからない。わかっているのは猛烈に走りたくなるような衝動だけだ。
「秋世くん、君は、さっき、女を知っていると言ったね」
突然話が飛び、答えられなかった。
「だったら約束してほしい」
「何を」
「君が昭代ちゃんに何をしておびえさせたのか、それを思い出す必要はない。ただ、これから先、大切な女性と出会った時には決して、無理強いはするんじゃないということをだ」
「俺が、昭代に、そんなことしたっていうんですか!」
紙コップのコーヒーが少しはねてこぼれた。
「君の記憶にそれは残っていない。ただ昭代ちゃんはその記憶がもとで、五年以上苦しんでいる。それだけの差だよ。本当のところは誰にもわからない」
「ちょっと待ってください、教授、昭代が嘘言ったっていうんですか!」
今まで黙っていた妙子さんがいきなり抗議した。身構える秋世をよそに、教授は指先でテーブルを叩き、首を振った。
「妙子くん、真実というのはね、多面性なんだ」
「けど、それっていくらなんでもあんまりです!」
ぐいと秋世の肩をつかみ、妙子さんは立ち上がった。両肩をがっと押さえるようにして、無理やり座らせたままのような格好でもって、
「秋世くん、もう一度聞くけど、本当に、全く、昭代に何をしたか、覚えてないの?」
「覚えてません。すいません。それ、うちの親にも言われました」
「じゃあ、覚えているのは昭代だけってことよね!」
「たぶん、そうじゃないかと」
「じゃ、昭代は一生、実のお兄ちゃんに悪戯された記憶を持って、悲鳴あげたり男子見るたび逃げ出したり二時間ドラマの濡れ場観るたびものを投げつけなくちゃいけないの?」
「だから俺、やってないとしか」
言いかけた秋世を、炎をたたえて妙子さんは見据えた。
葬儀場での態度とほとんど同じだった。
「そうよね、まだ赤ちゃんだったんだもんね、昭代も秋世くんも。小さい頃の傷をあげつらうほど私も馬鹿じゃないわ。でもね、聞いてよ。秋世くん。どうして全く覚えてないの? 昭代と同じくらい、どうしてあの時のおぞましい記憶を覚えてないの? 苦しむのは昭代だけなの?」
「妙子くん、やめなさい」
とがった声で制止する教授を無視して、妙子さんはわめき散らした。もう誰も押さえることができそうにない。秋世はただ、妙子さんの言葉で火のついた頭を、そのまま燃やすだけだった。
「昭代の名前の由来、知ってる? あきよ、という名前、秋世くんわかる?」
首を振った。
「秋世くんの名前を訓読みするとそうなるよね。『あきよ』って」
「俺の彼女もそう呼んでくれますよ」
おちゃらかせてごまかそうとするが果たせない。隣で立ち上がった教授がもう一度、
「妙子」
厳しく叱った。全く効果がない。教授がつかつか近づいていき妙子さんの頬を打ったのと、彼女の叫びが秋世の耳に届いたのと一緒だった。
「昭代はね、秋世くんが死んだ時、身代わりにする子だったのよ! 女だったから嫌われたのよ! 秋世くんの身代わりだから、『昭代』なのよ!」
一瞬息を呑んだ後、妙子さんは崩れ落ちるように椅子に座りこみ、テーブルの上に顔を押し付け泣きじゃくった。打った手をぼんやりと下ろし、秋世と妙子さんを交互に眺め、教授はポケットからタバコのケースを取り出した。ついでにライターも用意し、一本くわえて火を点けた。だんだん自分の身体に伝わってきた、重たいもの。秋世は嗚咽する妙子さんを見つめたまま、意を決して教授の前に立ちはだかった。
ここで聞かねば、男じゃない。
「俺の身代わりで、昭代が生まれたって、どういうことか、わかるようだったら教えてください」
教授は首を振った。
「今の言葉は間違いだ。妙子くんは昭代ちゃんのことになるとはっちゃきになるからな」
一本、吸い終えた後、教授は妙子さんの肩に手をかけた。
「もういい、君は先に帰りなさい」
不意にむしゃぶりつくように、妙子さんは教授の胸に抱きついた。
傍で秋世が観察しているのに気付かぬように。
ただ小さな声で、
「だって、昭代が、昭代一人、かわいそうじゃない」
それだけ繰り返していた。特に抱き返すこともせず、ただ胸を貸すだけの教授に、秋世は一礼した。部屋から出ていった。
壊れかけたエレベーターから降り、なんとなく直感でもって出口までたどり着いた。
おそらくだが、と秋世は思う。
──今日話すこと、おじさんおばさん、妙子さん、昭代、みな打ち合わせ済みだったんだな。あと、うちの親も。
そうでなかったら、こんな茶番劇、誰が打つか。
忌中休暇最後の日に、秋世なりに考えた妙子さんとの打ち合わせも、すべては親たち、もしくは大人たちの手によってうまくまとめられてしまったというわけだった。
一つだけ、手違いがあったとするならば。
──昭代はね、秋世くんが死んだ時、身代わりにする子だったのよ!
──秋世くんの身代わりだから、『昭代』なのよ!
第一、身代わりってなんだ?
秋世は外の暑苦しい空気をもう一度吸い込んだ。コーヒーよりも、今はサイダーを一本丸ごと飲みたかった。まだ誰も戻ってきていな部屋の中で、ばあちゃんの写真と向かい合いながら身体の中をすべて泡にしてしまいたかった。