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第二部 14


 ──覚悟、ってなんだよ。

 ──要するに、俺とばあちゃんが、昭代をいじめぬいたって、本当かってことかよ!


 白い布がかけられたテーブルの上で、秋世は係の人たちと一緒に、香典返しの用意を手伝っていた。青潟の風習では葬儀の帰り際、弔い客に直接、ハンカチの包みのようなものを手渡すのが決まりだった。そんなの知らなかったけれども、両親が参列者の挨拶で忙しそうだったこともあって、言われるままに手提げ袋にものを詰めた。

 仮通夜、通夜、そして告別式。

 ──あっさりしてるよな。

 あれだけ当日は泣きじゃくったくせにだ。自分は冷たい男なのかもしれない。

 仮通夜も父の親戚筋がずらっと並び、妙に和やかな夜明かしとなった。

 通夜も、少し大掛かりだったとはいえ、学校の行事の延長上と思えなくもなかった。途中なんだか動きたくなり、係員の人に、

「すいません、俺もなんかやらせてもらえませんか?」

 と頼み、ちょこちょこと手伝わせてもらった。お弁当関連の手配とか、その他場所の組替えとか、肉体労働が中心だった。少しでも身体を動かすことができればそれでよかった。

 そして今日は、告別式だった。


 目の前を、グレーに茶が少し入った制服が通り過ぎた。

 黒い背広姿の男と一緒に。

「ほら、立村、挨拶しろ」

 思いっきりむくれた顔している三年D組評議委員の立村に、思わず秋世は笑いかけた。

「りっちゃん、いいよ、その辺で」

 袱紗を手馴れた風に四方へ開き、立村は黒いお盆の上に「御仏前」と書かれた封筒を置いた。一礼した。無言で秋世をじっと見つめた。そんなに真剣に見つめなくてもいいのに。隣で唇をぎゅっと絞ったままの菱本先生には、きちんと挨拶を返しておいた。

「どうもありがとうございます」

「今は何も考えるなよ。みんな、待ってるからな」

 ──待ってるのかよ。

 悪態つきたくなるけれども、なぜかここでは平気な顔してしまう自分がいた。

「しばらく学校のこと頼むな、りっちゃん」

 葬式受付にふさわしくない笑顔を向けたかった。立村に対してはなぜか、気持ちがやさしくなるのだが、その理由が自分でもよくわからなかった。

 また、じっと秋世を見つめ返すと、立村は菱本先生に促されて会場を出て行った。


 東堂が彰子と連れ立って葬儀会場から出てきた。彰子の目が真っ赤だったのは、やはりばあちゃんを知っているからだろうか。そうだろう、初デートでいきなりばあちゃんに、「秋世くんの恋人品定め」をされてしまい、花丸をもらってしまったのだから。あれ以来ばあちゃんは彰子がお気に入りだった。ほんと先の話だけれども、真剣に話していたのを聞いたことがある。「秋世、いざとなったら会計士の資格を取って、彰子ちゃんをお嫁にもらいなさい」だと。その時は笑ってごまかしたのを思い出した。

「また、あとで電話すっから」

「OK」

 東堂の性格上しめっぽくならないのは重々承知。隣で眉をひそめている母には悪いが、いくら葬儀会場であっても、秋世のペースは変わらない。

「彰子さん、今日は、ほんと、ありがと」

「秋世くん、私、何してあげられるかな」

 言葉に思わず、はっと息を止めた。彰子は涙を白いハンカチでぬぐいながら、少し額に汗をかいたままでつぶやいた。

「何か、して上げられることあったら、言ってね」

「うん、ありがと」

 それしか答えられなかった。もちろんしてもらいたいことはたくさんあるけれども、今の彰子に求められるものではなかった。今、一緒にここを出て行って、二人っきりではじめてのキスをしてみたいとか、修学旅行の時に聞かなかった彰子の父親の事情についてはっきりさせたいとか、それとももっと、別のことかもしれなかった。

 でも、そんなこと、できるわけがない。

 秋世は彰子の手に手提げのとってをきちんと握らせた。

「すぐに連絡するからさ、またよろしく。おじさんおばさんにも、どうもって伝えてちょうだいな」

 今度は左隣にいる妙子さんと昭代がけげんな顔をして秋世を見た。

 あまり長話ができるわけもなく、空気を読んだ東堂が「さ、ねーさん、先に行こうぜ、立村たちと待ち合わせてるしな」と背中を押していく。自分もそこに混じりたくて、でもそうできなくて、秋世はあえて、次の参列客に向かって頭を下げた。


 結局、昭代は瑞希おばさんの付き添いのもと、三日間通う形での遺族参列となった。

 事情がどうであれ、昭代が祖母の孫であることは事実なのだから、本来ならばきちんと秋世の隣に立って頭を下げるべきだと思うのだが、気持ちの上でそれができないのだからしかたなかった。

 妙子さんもあの後は、秋世につっかかってこなかった。

 秋世がそんなこと知らない、という風に振舞ったからかもしれなかった。

 何かの誤解に決まっているし、きっと妙子さんもいろいろと疲れていたのだろう。教育実習のストレスかもしれない。そう無理やり考えて、秋世なりに「なかったこと」として対処した。妙子さんも、その態度に戸惑いつつも、それ以上のことを口にしたりはしなかった。もちろんうがった見方をすれば、「とりあえず葬儀が終わってから片付ける」予定なのかもしれないし、それなりの言い訳は供えているのかもしれない。でも知ったことではなかった。

 ──俺には記憶全然ねえもん。そんなことしてたら、俺絶対、忘れるわけないし。

 妙子さんが壁になる形で昭代も並んでいた。やはり、秋世の傍にいることが耐えられないらしい。わざとやっているのではなさそうだが、秋世からしたらどう考えても嘘を言われているとしか思えない。ふたりっきりの時が見つかれば、一度きちんと話をして、誤解を解こうと思うのだが、そのチャンスをことごとくつぶされている。そんなありもしないことを言われても、秋世だって困るのだ。

 ──俺が、なんで昭代にやらしいことする必要あるんだ? それになんで俺、昭代をいじめる必要あったんだ? 第一、そんな証拠なんてないのになんでだよ。

 いくらでも言い張る自信が自分にはある。

 絶対に、人を傷つけたくない。そう今も現在も過去も、そう思い込む自分がいる。

 それが、南雲秋世という男なのだ。

 自分の妹を傷つけるような奴がいたら、とことんぶん殴ってやるだろう。

 ──悪意がなくても、五歳でも、無理やりいたずらされたり半殺しの目に遭わせたり、そういうことをされて我慢する義務が、昭代にあると思う? 秋世くん。

 絶対、ない。

 昭代をずたずたにする権利なんて、五歳の自分にも、今の自分にも、この世の誰にもないはずだ。どう考えても妙子さんは何か、間違ったことを吹き込まれているはずだ。この誤解をきちんと解かないと、前には進めない。

 ──とにかく、終わってからだな。

 横目で昭代を覗き込み、秋世はそっと笑って見せた。露骨に顔を背けられてもめげる気はしなかった。


 通夜前に火葬した祖母の骨箱を持ち、父が車から降りてきた。葬儀関連が一段落した後、家族三人で帰ってきた。いつもだったら自家用車なのだが、さすがに三日間ほとんど寝ていない状態で運転するのは危険だと母が言い張り、タクシーで戻ることになった。

 祖母の写真を抱えているのは秋世だった。

 葬式にまつわるさまざまなことを片付けているうちは、それほどしんどくもなかったし、むしろ面白い部分が多々あった。純粋な興味でもって観察することもできた。でも、今家の中に戻っていくと、今度は素の形で祖母の「死」が固まっていく。今までがとろとろしたスープを飲んでいるような穏やかさに包まれていたのに、家に戻るなり、一気に凍り固まる。父も母も、事務的な話と明日以降の仕事についての話し合いしかしていなかった。祖母の思い出は通夜と仮通夜の時に十分語り尽くしたから、というのが本当のところらしかった。

「おばあちゃん、いい写真あったわね」

「ほんとだ。こんなに若く撮られてたら文句言わないだろうなあ」

「ほら、秋世の入学式の時よ。あの時のおばあちゃん、すっかりおめかしして、わざわざ美容院にまで行って」

 ひざの上に載せたままの祖母写真を上からのぞき見た。確かにそれだった。秋世が青大附中に入学した時、周りが「無理に来なくたっていいのに」と止めたにもかかわらず、祖母はめいっぱいのおしゃれをしてやってきたのだった。今思えば、入学式に家族全員で参列したのは、たぶん秋世の家だけだったと思う。天敵・羽飛貴史については堂々と「俺のうちは誰も親なんてついてこねえよ! けっ、中学にもなって親べったりなんて恥ずかしいよなあ」と勘違いしたことをわめいていたが、秋世からしたら「ついてこようと思わない親」の方がずっと淋しいと思う。少々教室までくっついてこられたのは恥ずかしいところもあったけれども、それはそれ、これはこれだ。

「いい写真だな」

「でも、カラーというのがね、ちょっとね。本当はもっと古い写真でいいかなとも思ったのだけど、おばあちゃん、写真みんな、自分の部屋に隠してしまうものだから。選ぶのに困ったわ」

 玄関のドアに「忌中」と墨で書かれた半紙を張り、三日分の新聞と郵便物を母は抱えた。どさりとソファーの上に投げ落とし、荷物を運んだ。

「でもまずは、お茶を飲みましょう。おばあちゃんといっしょに、ね、秋世」

 写真をどこに置こうか迷った。今はまだ、ひざの上に置いておこうと決めた。本当は母の手伝いをしなくてはならないのだろうが、そんな気にもなれずソファーのど真ん中に座り込んだ。なんだかわからないけれども、急に眠気が差してきた。

「お前も、よくがんばったな」

 父の声が聞こえたのは覚えている。ほんの少しだけまぶたを閉じただけなのに、どうして目がさめたらいつのまにか自分の部屋で寝ていたりするのだろう。しかも、パジャマに着替えた状態で。

  

 真夜中、午前三時。まだ夜明けの気配はない。

 ゆっくり青潟方面に進んできた台風は、祖母の葬儀中ずっと吹き荒れていた。

 ずっとセレモニーホールに泊り込んでいた秋世にはどうでもいいことだったけれども、家に戻るなりその風がぱたっと泊まり、家が揺れることもないのが不気味だった。

 ──ばあちゃんは?

 隣の部屋をいつもそっと覗き、かすかないびきを耳にして、また自分の部屋に戻るのが日課だった。真夜中トイレに起きた時とかも、いつもそうするのがくせだった。

 全く聞こえないのは、祖母が入院してからずっとだったし、今、だからといって怖くなるのが解せなかった。部屋の明かりをつけると、秋世は窓の外を眺めた。

 修学旅行出発の朝以来、久々の我が家。

 一週間丸々経ったのに、部屋の中は何も変わっていない。

 ──何にも変わってねえよな。

 窓辺には、祖母が作ってくれたピンク色のてるてるぼうずの残骸が一人分、ひっかかっていた。出発前にやっぱり、ぶら下げておいたのだった。手に取った。

 ──本当に、そのまんまなのにな。

 秋世は手にとってみた。なぜか、涙が出なかった。

 下の階ではまだ父と母が何かがさこそやっているようだった。いくら喪に服するとはいえ、仕事をすべて休むわけにはいかないということで、セレモニーホール内でも黒電話の受話器を放さなかった両親。それが当然なのだとわかっていても、どうしても近づけない何かがあった。

 ──ばあちゃんがいなくても、うちの親たちは平気なんだな。

 しんと、胸に刺さるような、下の階のざわめき。

 秋世は部屋から出た。祖母の部屋に入っていった。


 すぐに退院できるのだと疑うことなく、部屋をそのままにしていった祖母の気持ちが伝わってきた。自殺する人のように身辺整理をする必要が全くない、という空気だろうか。修学旅行前、借りていった酔い止めの薬を返そうと思った。

 ベッドもきちんと敷き詰められていた。枕もとには祖母の使っていた三段重ねの小物入れがちょこなんと乗っかっていた。

「ばあちゃん、帰ってきたよ」

 枕もとのライトをつけて、つぶやいた。

「借りたの、返すから」

 箱を開いた。女子たちの使うシャンプーっぽい匂いがつんとした。

 そっと、引き出しの中に、薄荷の薬を入れた。しまおうとして一度手を止めた。

 どうしてそんなことしたのか、自分でもわからなかった。

 中に一緒に入っていた、白い和紙に包まれたものに手が触れた。確か入学式の時、一緒に映った写真のはずだった。秋世のことを思っている祖母が、決して手放すことのなかった写真だし、入っていておかしくはない。でも、この箱が触られた形式が、全くないのはおかしかった。だって、

 ──だってあの写真、俺の入学式の時の写真って、言ってただろ?

 ──その写真が、これだろ?

 

 さっき、母は確かに口にしていたはずだ。

 ──ほら、秋世の入学式の時よ。

 

 祖母用に焼き増ししていたのか、それとも別の写真を手元に残していたのか、その辺はわからない。はっきりしているのは、今、仏壇の前に飾られている黒枠の写真と、この写真が同じだということだけだ。

 なんで、このまま、何もなく、置かれている?

 秋世は白い紙をゆっくり開いた。折り目も、繰り返しいじった後もないままだった。

 中から出てきた一枚の写真をじっと見つめた。

 ごくごくありふれた、南雲一家の家族写真だった。秋世が思っていたような入学式の写真ではなかった。祖母と父、母、秋世、そしておそらく昭代が二歳くらいの時の写真のはず、だった。断言できないのは、その写真のうち、真中だけが黒い油性ペンで塗りつぶされていたからだった。その位置にいたのは、おそらく母の腕に抱かれて赤いワンピースを着たまま足を広げている、二歳くらいの昭代だ。昭代のベース型の顔は、塗りつぶされて本当にどろどろの野球場で見かけるような、一塁ベースの色に染まっていた。

 

 最初、単なる冗談かと思った。よく本条先輩が持ってくるきわどいエロ本の中に、こういう塗りつぶし方で局部を隠しているものがあった。いわゆる「裏もの」と呼ばれる本だった。先輩が言うには「後でこっそり爪ではがして楽しむのが通」なのだという。そこまでやったことはないけれども、そういう風に素人っぽく隠す本が堂々と書店に並ぶわけもない。

 爪で黒く塗られた部分をこすってみた。うまくはげなかった。

 ──これ、なんっすか?

 息が止まりそうで、手が震え出す。でも気持ちは落ち着いていた。

「これって、いったいなんだよ」

 包みなおし、箱に仕舞い、もう一段下の引き出しを開いた。キャビネ版の写真が形それぞれ違う風にカットされていた。裏向きだった一枚を開いて、秋世は取り落とした。一枚、また一枚とめくり、床に落としているのに、自分でも気がつかなかった。気が付いたら床とベッドの上には、すべての写真が散乱していた。台形あり、平行四辺形あり、ひし形あり。どの写真にも共通しているのは、被写体がすべて、父と秋世と祖母のショットというところだけだった。母も、昭代もすべて、切り抜かれていた。中には露骨な形でもって、人型にくりぬいている写真も混じっていた。どれもこれもすべてが、父と秋世、そして祖母のものだけだった。

 橙色のベッドライトが、かすかに点滅した。

 写真の艶が、不気味に白く光る。

 手元に落ちた一枚を、そっと拾い上げた。

 ──なんだよこれ、ばあちゃん、これ。

 こっそり見たことへの罪悪感なんてなかった。

 ただ残っているのは、どうしようもない嫌悪感、それだけだった。

 自分にか、それとも祖母になのか、それとも別のものなのか、わからなかった。

 枕に手を触れ、祖母のぬくもりを感じようとしたのに、伝わってくるの布が持つぬくもりだけだった。じめじめしているのは、その切り抜かれた写真たちだけ。たくさんの秋世が、幼顔大人顔それぞれ見せながら、じっと覗き込んでいた。いかにも、すべてを知っているかのように、ずかずか入ってくるかのように。


 ──なんで、俺がこんなことになってるんだよ!


 自分の気持ちがつかめない。二番目の引き出しにしまった和紙の写真を持ち出し、秋世は部屋をそのままにしたまま階段を下りた。一歩、二歩、三歩。ゆっくり降りていくうちに、足を踏み外しそうになりよろけ、派手に滑った。尻餅ついて痛い、とは思った。でもそれだけだった。何も考えてなかった。居間に向かい、一生懸命電卓と格闘している両親の座るテーブルへ向かった。

「しゅうくん、目が覚めた?」

 ふたりが顔を合わせ、秋世に尋ねた。

「どうした、秋世。腹すいたのか」

「これ、なんだよ」

 テーブルに、油性ペンでの塗りつぶし跡付写真を叩きつけた。

「これ、どういうことだよ」

「お前どこからそれ持ち出してきた」

「ばあちゃんの部屋に決まってるだろ!」

 両親の前では、なんの仮面もかぶらなくてよかったし、かぶる気もなかった。

 母が慌てて写真をひったくり、即、ひっくり返した。

「おばあちゃんに失礼でしょ! 謝りなさい」

「じゃあ何でだよ、なんで、ばあちゃん、昭代の顔に色塗ってるんだよ!」

「そんなのわからないわよ、もうおばあちゃんいないんだから」

 ピントの外れた母の言葉に、さらに秋世はいらだった。

「ばあちゃん、なんで昭代をあんなに嫌ってるんだよ。この前も言ったよ、あんな子のこと忘れろって言ったよ。ばあちゃん、なんでそんなこと言うようになったんだよ。昭代、俺の妹だろ? ばあちゃんの孫だろ? なのになんで、あいつにだけそんなこと言うんだよ」

 わかっている。責める相手を間違えていることくらい、わかっている。

 でも、どんなことがあっても祖母を責めることだけはしてはならなかった。

 もうこの世にいない。ぬくもりさえ持たない祖母を責めるのは許されないことだった。

 なぜかわからないけれども、祖母を怒鳴るよりも、母をののしる方がずっと楽だった。

「秋世、いいかげんにしなさい。お父さんたちは忙しいんだ」

「ごまかすなよ!」

 声を出したとたん、忘れていたはずの涙がいきなり噴き出した。溢れ出す感情が、マグマのように流れていた。休火山だった自分が一気に噴火してしまった。頬をぬぐいながら秋世は思いつくままわめいた、叫んだ。

「ばあちゃん、言ってたよ、昭代のこと嫌いだって。昭代になんてみやげ買うなってさ。なんでだよ、ばあちゃん、昭代をいじめるようなこと、してるわけないのに、なんでそんなこと言われなくちゃいけないんだよ。なんで昭代、俺の顔みるとすごい勢いで逃げ出すんだよ。俺、何にも悪いことしてないのにさ、なんでだよ!」

「秋世、今、何言った」

 父の言葉が、しんと響いた。いきなりうろたえている自分。必死に歯を食いしばった。のどがつまり、言葉が途切れる。首を振って、勢いをつけた。

「俺とばあちゃんが、昭代いじめて追っ払ったなんて、周りでは思ってるんだってさ。ふざけるなよ、そんなこと、するわけねえだろ! 俺がそんなことするわけないのに、なんでそう決め付けるんだよ! 俺のどこがそんな風に見えるんだよ」

「もうやめなさい、秋世」

 母が急ぎ足でコップに水を汲み秋世に手渡そうとする。はじいた。水がテーブルの上に広げられたノートへびしゃりとかかった。かまやしなかった。

「ばあちゃんがこんなことするってことは、母さんが何か酷いことしたんだろ。そうだろ、そうだよな、でないとわからないってさ、俺、いったい何か悪いことしたのかよ!」

 だんたん舌がもつれ、誰を責めたいのかすらわからなくなってきた。目の前の奥。神棚の前には白い布がかかっていた。黒枠には、祖母がにこやかに微笑んでいる写真がでかでかと飾られていた。その向こうに叫べばいいのに、今秋世がぶつけたい相手は、母以外にいなかった。

「いいかげんにしろ!」

 反応する間もなかった。父に二度目の張り手を食らわされた。小学校高学年に入って以来、一度も殴られたことなんてなかったのに、なぜ、この三日間で二回も殴られねばならないのだろうか。力が抜けた。ただ自分がどうしていいか、どこに握りこぶしを下ろせばいいのかわからなくて、ひたすら机の上の帳簿類を投げつけるだけだった。母に片手を押さえられて、思わず振り払おうとしてやめた時、自分にはまだ理性が残っていると感じた。父でもなく、母でもない。誰かを責めたいのに責められない。その理由がどこにあるのか、秋世にはわからなかった。ただ父の怒鳴り声に逆らいたいだけだった。


「そのことは、いつ聞いたんだ」

 暴れたくても暴れられず、呆然とソファーに腰をおろした秋世に、父は静かに尋ねた。

 秋世の顔と瓜二つ、父親似百パーセント。母が黙って突っ立ったまま、ふたりを見つめていた。

「仮通夜の前」

 誰、とは言わなかった。

「そうか」

 父は母を見上げると、一度意思を確認するかのように、ゆっくりと頷いた。

 そのままじっと、秋世を見下ろして、静かに続けた。

「覚悟は、あるか」


 ──覚悟、ってなんだよ。

 ──要するに、俺とばあちゃんが、昭代をいじめぬいたって、本当かってことかよ!


 感情の飛び交う自分の内側がつかめなかった。とりあえず秋世は、父に頷くしかない。父と母の語る、「本当」らしきことだけを、まずはすべて聞きたかった。


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