第二部 13
──俺がなんで昭代にそんな、最低最悪なこと、しなくりゃなんないんだよ!
──もし、そんなこと他の野郎がしようとしたら、たぶん俺、半殺しにしてやるさ。
父が話していたところによると、祖母の葬儀は互助会の積み立てを使って行うそうだ。やたらと手早く、病院から葬儀会場に遺体が運ばれてきたのも、思ったよりも両親やおばたちがのんびりしている風に見えたのも、そのあたりが理由らしい。つまり、葬儀関係のこまごまとしたことは、ほとんどが会館の担当者が片付けてくれて、両親は主にその打ち合わせにあわせて話をしていけばいいだけだという。もちろん、死亡届、通夜および葬儀際の細かい決まりごと、その他通夜ぶるまいなどの準備は必要だが、直接立って話を進める必要はないらしい。
仕事を途中で放置することはできない、という父の言い分もあって、部屋には二台、黒電話が設置された。途中、担当者の男性と静かに話を進めている間、母は秋世を別の部屋へ連れていき、バックを手渡した。
「これ、着替えなさい」
「制服で、いいんじゃないのか」
「こんな派手な制服で喪に服する人が、どこにあるの。しゅうくん、まずあんた風呂に入ってきちんとしなさい。それから黒のスーツ、これ着なさい」
あけてみると、生地のしっかりした黒の上下スーツがビニール袋に入ったまま収まっていた。何時買ったんだろう。こういうタイプの服を買ったことは一度もなかった。
「それと、靴、スニーカーじゃ動けないから、これを履きなさい」
また同じく、黒光りした男性用の革靴が出てきた。これも新品だった。
「こんなの、何時そろえたの」
自分でもこわばっていると感じる。そんな口調で秋世は質問した。
「こういうのは常識じゃないの。つべこべ言わないで、早く言う通りにしなさい」
もやもやするものの、隣では祖母がぐっすり寝ているし、母に口答えしたくはない。秋世は言われた通り風呂場へ向かった。なんだか、準備、手際、よ過ぎる。
──絶対、なんか変だ。
遺族控え室にはそれぞれ風呂が備え付けられていた。和風旅館をおとなしめにしたような感じだろう。のんびり浸かるような気分でもなくて、秋世はすばやく汗だけ流し言われたように着替えた。一気に体温が上がったせいか、突然眠くなる。昨夜寝ているようで実は睡眠時間がほとんどなかったようなものだし、当然といえば当然だ。
──けど寝るなんて、できるかよ。
ばあちゃんと最後に語った言葉を思い出し、秋世はもう一度目をぬぐった。
なにがおかしいのか、それが具体的に言葉に出せない。
のどまで出かかっているのに、何かひっかかってしまう。
それがどうしてなのか、自分でもわからない。
部屋に戻ると、昭代と一緒に、いとこの妙子さんがテーブルの端にちょこんと座り込んでいた。母が今度は祖母の枕もとで、つながれた黒電話を握り締め電話を掛けていた。父の姿はなかった。立ち止まり秋世は、妙子に一礼した。無言で会釈を返した妙子は、隣の昭代に小さな声で何かを話し掛けた。こっくり、こっくりと頷く昭代は、また秋世に冷たい視線を投げた後、うつむいた。
──俺が何かしたかよ。
髪の毛を乾かさないまま来たので、肩のところがやたらとびしょびしょぬれてしまっている。母に呼び止められ、黙ってタオルを渡された。これで髪の毛なんとかしなさい、ということなんだろう。面倒くさくて、軽く髪の毛をこすっただけにしておいた。
「じゃあ何か、私たちすることないの」
「今のところはよさそうよ。こちらの会館の方々がすべて取り仕切ってくれているみたいだから」
さっき、母をなじった時とは別のような言葉遣いに、秋世は少し退いた。
「そう、それならいいんだけど、この子たちは今夜、お付き合いさせなくてもいいわよね」
「昭代は残ってもらわないと」
露骨に昭代が顔を引きつらせた。ベースボール型の顔がまったいらに見えた。そんなにいやならなんでおばさんとこの子どもに生まれなかったんだ、と腹で毒づく。
「昭代一人だったら不安でしょう、私やはり残るわ。妙子、あんたはどうする?」
「母さんいるなら、私帰るわ」
長い髪の毛をかきあげるようなしぐさで、妙子は答えた。
女子大生、いかにもといった髪形に化粧だった。慌てて口紅をティッシュでぬぐっているけれども、まだすっぴんではない。たぶん大学帰り、まっすぐここまで来たのだろう。今年大学生ということもあって、忙しいらしい。
「昭代、あんたひとりで大丈夫?」
首を振り、すがりたさそうな視線を向ける昭代。何をおびえているんだか、とさらに毒づきたくなるが我慢した。ここは祖母が眠っている場所だ。余計なこと、言いたくない。
「お姉ちゃん帰るなら、私も」
「だめだよ。あんたはここにいなくちゃ」
びしりと厳しい言葉でもって、妙子は叱り付けた。
「あんたは、孫なんだから。しょうがないんだから」
なにが「しょうがない」なんだろう。秋世は髪の毛を思わず手の甲で何度もこすっていた。言いたいことがあるのに、なぜ言葉として飛び出してこないのか、不思議だった。
「あんたはね、南雲家の子なんだから」
「だって私」
「わかってる、わかってるよ。けどね」
──なにが、「わかってる」だよ。
どうもこの、妙子さんは以前から一線引いた立場で南雲家の人間に接するくせがあるらしい。子どもの頃からそれなりの「いとこ」づきあいがないわけではなかったけれども、昭代のこともあって今ひとつ、しっくり来ないものを感じていた。いつも糊付けのシャツを着て会わないとまずい、そういう雰囲気を小学校の頃から持っていた。
秋世の目からみたら特段、ものすごく美人というわけでも、色っぽいというわけでもない。はっきり言ってしまえば、ほんとその辺の大学生と同じ、見分けがつかないタイプ。無個性というのも変だが、いまどき流行の髪形にあくのない顔立ちは、いわゆる「女子大生」そのものだった。たぶん知らないですれ違ったことも、多々あるだろう。
「昭代、もう少しだけがまんしなさいね」
「いや」
「なに言ってるの、もうちょっとだけがまんすればね」
いきなり瑞希おばさんが割り込んだ。
「妙子!」
何よ、とばかりにまた妙子さんが上目遣いでみやる。
「変なこと、言うんじゃないの!」
「ごめん、悪かった」
男子っぽい口調でわびた後、妙子さんは小さな声で、
「お姉ちゃんとお風呂入ろうよ、ここじゃなくて、向こうの銭湯でさ」
びたっとしたスーツに腰のくびれがくっきりしている。いわゆるこれが、色っぽいお姉さんのイメージか。
「やっぱり私も、泊まっていこうかなあ」
「そうしてくれると助かるわ」
母ではなく、瑞希おばさんがたっぷり感情込めて答えているのが聞こえた。母の反応はわからなかった。ずっと窓辺の黒電話に向かって、
「実は本日、母が息を引き取りまして……」
と繰り返し、電話の向こうに説明しているからだった。
昭代と妙子さんたちが銭湯から帰ってくる頃には、弔問客がなだれうってやってくるわ、供花の注文を頼まれるわで、かなり忙しい状況と相成った。母が、空いているうちに風呂に入るよう指示したのは正しかった。たぶんこの調子だとこれからはひまないだろう。
青潟の風習で、仮通夜後、明日の昼過ぎに火葬を行うのが慣わしだという。
「おばあちゃんの顔見られるのは、今夜だけなんだから、秋世も泊まっていくでしょう」
もちろんだ。頷いた。
「でもねえ、やっぱり昭代たちは無理よね」
「なんでだよ」
電話と弔電を受け取り、整理を行いながら秋世は尋ねた。やるべきことがだんだん増えてくると、そばに祖母の遺体が並んでいるという現実を忘れていられた。
「落ち着かないわよね、一部屋一緒だと。それに、お父さんの兄弟も泊まりに来るって話だし、部屋を空けておいた方がいいかもしれないし」
母はさらに事務的に物事を片付けようとしている様子だった。なんとなく違和感があるけれども、秋世に割り振られた手伝いごとがそれなりにあり、お茶を汲んでは出したりなんなりしているうちに、聞くのを忘れてしまう。
「けどさ、妙子さんたちは別だけどさ、昭代は別だろ?」
「そりゃそうだけど」
母の歯切れは悪かった。
「とにかく、今夜は私たち家族で、おばあちゃんを見送りましょう。仮通夜はここでやるからね」
葬式一式の準備はいろいろすることがある。父も母も、たんたんと物事をこなしていた。時折黒電話を握り締めて、「不幸がございまして、申し訳ございません。書類は明日お届けしますから」みたいなことを話している父。忙しくなればなるほど感じないでいられる。線香の煙が枕もとでたゆたう中眠っている祖母をあえて見ないようにしながら、秋世はお茶菓子の準備に没頭した。
水仕事をやらされるはめになり、洗い場で茶碗を洗っている時だった。妙子さんが黙って狭い洗い場の中に入ってきた。
「私も手伝えって言われたんだけど、どう、手伝った方がいい?」
「いいです、このくらいできますよ」
さらっと答えることにした。妙子さんの、さすがにマニキュアを取ったとはいえ長い爪を折らずに茶碗を洗えるとは思えなかった。喪服なのになんでこうも、なまめかしいのだろう。
思った通り妙子さんは蛇口近くにも手を出さずに、
「悪いんだけど、やはり今日私たちは帰らせてもらうわ。明日のお通夜にはちゃんと手伝いに来るから」
別に秋世に言う必要もなかろうに。言うべきは両親であり、瑞希おばさんに対してだろう。
「あ、わかりました」
軽く答えた。このあたりは他の女子たちに対するのと同じ、脳天気なのりが一番だった。
「それと、昭代もね」
「いや、昭代は家族だから残らないとまずいと思いますよ」
泡だてたスポンジでごしごしと茶渋を落とす。力が入っているのが自分でもわかった。
「だって俺の妹だし、妹だってことは、やっぱりばあちゃんの孫だし、それは違うと思うなあ」
妙子さんは洗い終わった茶碗をふきんで拭き始めた。
「秋世くん、君は何にも知らないのね」
お盆の上に伏せて置いた。
「いくら家族と言ったって、昭代にとっておばさんたちは他人みたいなものよ。そんなところで、しかもおばあさんの死体と一緒で」
「遺体と言ってくださいよ」
露骨な言い方をする人ではないはずだった。秋世の記憶では、きちんと常識をわきまえて話をしてくれる人のはずだった。少し自分でもいらだっているのだろうか、つい刺のある答えを返してしまった。
妙子さんと目が合った。かすかに微笑んでいた。こちらも微笑み返した。意地だった。
「どうしても残らなくちゃならないんだったら、私も泊まるけれど、でもそっちのお父さんとこのご兄弟も集まるんでしょう? 部屋に泊まりきれないんじゃないの?」
「そんなのわからないですよ。まだ連絡入ってないし」
洗い終わった茶碗をそのままどんどん、妙子さんに渡していく。ありがとうとも、ごめんとも言う気になれなかった。
「とにかく、昭代は私たちと行動一緒にさせるから、その辺だけよろしくね」
「うちの親がなんと言うかわからないですけどね」
秋世なりに皮肉をこめて言ったつもりだった。返事がない。妙子さんが隣で手早くふきんをたたみ、ぬれた周囲を拭き取っていた。
「知っているからこそ、返したいんじゃないのかなあと思うけどね」
「どういうことですか、よくわからないんだけど、なんか、言いたいことあるんですか」
本能のほとばしるままぶつけたら、なんだかとんでもないことをぶちまけそうな気がして、慌てて秋世は規律委員長モードに切り替えた。女たらしでもなくて、彰子めろめろモードでもない、また親友たちの前でさらけだす脳天気雰囲気でもない。気持ちを真四角シャットアウトする形で接する、これが自分なりの保護膜だ。
「少しだけ、廊下出る? 秋世くんもお茶以外のもの、飲みたいでしょう」
言われた通り、秋世は妙子さんの後に続いた。廊下のロビーには三台ほど自動販売機が備え付けられていた。黒スーツ姿でまた一礼する人がいたが、誰だかわからなかった。秋世が頭を下げている間に、妙子さんは自動販売機の前で、
「コーラでいい?」
声をかけてきた。秋世は頷いた。背中のロングヘアーのことをいわゆる「ワンレングス」と言うんだと、ぼんやり思い出した。妙子さんの無個性さが一般的にはもてるタイプの女性像であることも、ついでに記憶から引っ張り出した。
「秋世くんは、五歳くらいまでの時のこと、覚えている?」
いきなり尋ねられて言葉に詰まった。
「まあ、一応、病院に閉じ込められて注射やらなんやらされてたなあってことくらいかなあ」
「確か小児結核だったわよね」
「そんな名前の病気だったっけ」
わざと軽く口に出してみた。今の時代ならば生後何ヶ月か経ってからにワクチンで予防できるはずだった病気だった。生まれて数年経ってから感染確率の低い病気になぜかかったのか、その辺は当事者である秋世にはわからなかった。伝染する可能性があるということで小児科の隔離病棟に半年ほど入っていた。確かその間に、
「だから昭代が生まれた時のこと、覚えていないのよね」
「俺は記憶力悪いんです、すいません」
またおちゃらかして答えた。
「じゃあ聞くけど、なんで昭代がなんで家に預けられたか、その辺も聞いてる?」
「いや、なんとなく」
単純に、昭代が秋世の病気を移されないようにという当然すぎる配慮からじゃないのか?
あっさり答えると妙子はまた、唇をゆがませて笑った。
「そうね、そう聞かされてるのね」
「だって、やっぱり俺が保菌者だし、昭代生まれたばかりだし、やばいでしょうやっぱし」
「もちろんそうだけど、じゃあもう一つ質問なんだけどね」
言葉が淡々としている。もっと明るく、たとえば彰子のように笑顔でもって聞いてくれたら、秋世ももっと愛想よく答えられただろうに。仮面が必要な相手と話をするのは、今の精神状態かなりきつい。コーラを半分飲みこんだ後、炭酸でのどが詰まりそうになった。しばらくむせた後、秋世はもう一度静かにあいづちを打った。
「どうぞどうぞ」
「昭代が二歳くらいの時のこと、覚えてる?」
もちろん覚えている。秋世は頷いた。
「その時、可愛がってあげたと思ってる?」
「あたりまえでしょう。俺、ガキの頃からレディーファースト、ばあちゃんに仕込まれてたし」
当然である。秋世のレディーファーストは年季が入っている。女性が重たい荷物を持っていたら自分の方から持ってあげること、自転車がきたら止まって自分の方から通してあげること、女性がきれいな服を着ていたら、たとえ似合う格好でなくても「きれいですね、似合ってますよ」と誉めること。小さい頃から秋世は祖母に仕込まれてきた。
「ふうん、おばあちゃんそんなこと言ってたのねえ」
片手に缶コーヒーを持ったまま、妙子さんはひざを覗き込むようにしてつぶやいた。スカート少し短すぎるんじゃないかと余計な心配をついしてしまう。丸見えだった。
ばあちゃん、と口に出すたびくじけそうになる気持ちを押さえるため、あえてスケベな気持ちをよみがえらせて押し殺した。
「そうか、聞いてたわよ。おばさんから。秋世くん青大附中でモテモテなんだってね。よく秋世くんのファンがしょっちゅう追いかけてきてラブレター渡してるとか、バレンタインデーはチョコレートが一杯でおじさんとおばさんとおばあちゃんの三人で山分けしてるとか」
「そんな過去もありましたねえ」
彰子一筋の今は、そんなこともないのに。
「まあ秋世くんくらいのルックスだったら、女子にきゃあきゃあ言われてもしかたないだろうけど、それなら当然彼女たちにもレディーファーストしているわけね」
「そりゃあ当然っすよ」
何か周囲から固めていこうとする妙子さんのしゃべり方に、ほとほとうんざりしてきた。早く部屋に戻った方がよさそうだ。秋世は飲み干した後缶を握りつぶした。空き缶専用ごみ箱に放り込んだ。
「じゃあ俺、戻ります。手伝うことあると思うし」
「逃げるの?」
的をはずした問いかけに思わずよろけた。秋世が「何にですか?」と言いかけたのと、妙子さんが質問をしなおしたのと同時だった。
「じゃあなんで、昭代をいじめつくすようなこと、したわけ?」
──俺が、昭代をいじめつくすって?
妙子さんをどういう視線で刺すべきかわからず、息を呑んだまま硬直させた。
「おばあちゃんが生きている間は封印されてたことだと思うけど、もういいかげん、秋世くんも気づいた方がいいんじゃないかって思うのよね。知りたい?」
油じみた口調。ねばっこい。首を振りたかった。でもできなかった。
「だって俺、昭代をいついじめましたか?」
「五歳の時」
間髪入れずに妙子さんの言葉が返る。
「俺、あいつをいじめた記憶、全然ないんだけど」
「都合の悪いことは忘れるのが得意なのよ、南雲家の人たちはね」
「昭代がそんな風に思ってるんですか?」
妙子さんは答えなかった。時計を覗き見た後、ワンレンの長い髪を掻き揚げた。
「もしそうだったらどうするの?」
「誤解を解きたいっすよ、そりゃあ」
だって、全く記憶にない。もちろん昭代をあちらこちらにひっぱりだして、男子たちの好む遊びに無理やり混ぜたことはあったかもしれないし、もしかしたらその関係で少し無理したところがあったのかもしれない。でも、秋世は決していじめるつもりなんて一切なかった。むしろ、自分の可愛い妹……ちっとも自分に似てないベース型の顔……を見せびらかしたい気持ちが強かったのだ。秋世なりに、愛情表現をしたつもりだったのに。
──そうか、それで俺の顔見ておびえてるんだな。
「俺、昭代にその辺きちんと話した方がいいですね。やっぱり今夜、昭代、ここに泊まっていった方がいいなあ。こういう形できちんと話したほうが、いいと思うし」
ため息を大きくついたまま、妙子さんは自分のジュースを飲み干した。じっと自分の手を見つめていたが、一気にふにゃりと握りつぶした。
「秋世くん、本当に、自分が何したかを覚えてないってわけ?」
「覚えてますけど、俺、悪意なかったし。今からでもそのあたり誤解解けたらなって」
「秋世くん」
妙子さんは秋世の名を呼びなおした。ゆっくりと、せりあがるように秋世の顔を見上げた。瞳には厳しい光が宿っていた。責められているような気がして、腰から逃げたくなった。
「誤解が解けても、悪意がなくてやったことでも、一生傷になるようなことってあるはずよ。死んでももう二度と、見たくない相手とひとつ屋根の下で寝られると思う?」
「俺のこと、そう言ってるっすか?」
やましいことなんて、何もない。秋世は自信を持って言い返した。
「もしかしたら俺も、ガキの頃は酷いことしたのかもしれません。だけど、今の俺はそんなとんでもない奴じゃないし、そんな人間になんてなりたくないですよ。ま、俺のことを学校では女たらしだとか、いろいろ言う奴もいますけど、でも基本はレディーファーストを守ってるし。うちの両親に聞いてもらえばわかりますよ。俺、ただいま、家族公認でお気に入りの彼女いるし」
語弊はあるが、半分は正しい。
「だから、もし俺がガキの頃に昭代を傷つけてしまったとしたら、これは本気で謝りたいって思います。うちに戻ってこない原因が俺だったら、やっぱりそれ、無意識でもまずいし。だけど俺は、やっぱり血のつながった妹のこと、大切にしたいなって思うんですよ。二人っきりの兄妹だし、やっぱり同じ両親から生まれたんだし。もし、昭代が俺のことでこだわってるんだったら、これからゆっくりと別の形で家族、兄妹として、つながり作っていきたいんです。うちの両親がこれからどういう風にするかわからないし、おじさんおばさん、妙子さんにもほんと申し訳ないって思うけど、俺は自分なりに、昭代のことを大切な妹として守りたいって思うんですよね。なんかすげえ、きざな言い方だけど」
懸命に仮面をかぶりなおして、さわやかな笑顔で答えようとする自分がいる。
規律委員長として、少しふざけながらもびしっと決めようとする自分がいる。
妙子さんの前で、昭代の兄として、きちんとけじめをつけたい、そう願う自分がいる。
「だから、今夜は、俺としては」
言葉を切って、また続けた。
「一緒の部屋で、ばあちゃんの前で、全部きちっと話をしたいんです」
決まったな、心でつぶやいたその瞬間、妙子さんの言葉で断ち切られた。
「悪意がなくても、五歳でも、無理やりいたずらされたり半殺しの目に遭わせたり、そういうことをされて我慢する義務が、昭代にあると思う? 秋世くん」
立ち上がり、妙子さんは秋世を見下ろした。今度は根っから軽蔑したまなざしだった。
「そんな、証拠があるっていうんですか! それ言っていいことと、悪いことがありますよ」
立ち上がって言い返した。全く記憶のないことを、どうして受け入れろというのだろう。五歳の記憶を瞬時に巻戻してみても、妙子さんの言葉に含まれた悪意一杯の行動など全く残っていなかった。多少腕白坊主の嫌いはあったかもしれないが、そんな、いたずらしたり、半殺しの目に遭わせたりなんて、したことない。百パーセントの否定でもってぶつかっていく。
「思い出してないんだったらしょうがないわ。せいぜい、レディーファーストやってちょうだい。あともう一つ言っとくけど、そのことうちの母さんたちも、南雲家のおばあちゃんも、おじさんおばさんも、みんな知っていることなのよ。知らなかったのは、秋世くん、君一人なのよ。おばあちゃんの命令でみな口を封じられてきたけどね」
妙子さんは握りつぶした空き缶を、たらすようにごみ箱へ落とした。
「まあいいわ、お葬式が終わったら、それなりにうちの母さんから話も出るでしょうしね」
丸い月のような顔から、放射される怒りのエネルギーに、秋世は無言でにらみつける以外何もできなかった。きびすを返して妙子が部屋に戻ると同時に、秋世もゆっくりと遺族室へと向かった。とにかく今は、仮通夜準備と事務作業の手伝いに没頭するつもりだった。ありもしないこと、記憶にもないことを責められたって、こちらはどうしようもない。
──俺がなんで昭代にそんな、最低最悪なこと、しなくりゃなんないんだよ!
──もし、そんなこと他の野郎がしようとしたら、たぶん俺、半殺しにしてやるさ。
たぶん、妙子さんの勘違いだろう。そうとしか考えられない。
もしくは昭代の思い込みか。
でも家族だ、兄妹だ。必ず誤解は解けるはずだ。
秋世は深呼吸した後、襟を正し、襖に手をかけた。