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第一部 11

 


──この旅行が終わるまでは、絶対に聞かない。彰子さんの両親のことも、高校のことも、夏木とのことも。




 

 船の桟橋を渡っていると、ぐらついた足元が頼りなくなる。青潟につく寸前まで少し風が強まったけれども、酔うほどではなかった。

「なんかなあ、これから台風が来るらしいぞ。はええよなあ」

 時期外れもいいところだ。菱本先生の独り言に秋世はうなづいた。

「なんか空、くもってりゃしませんか」

「南雲、どうした」

「人生いろいろで」

 茶化しながら秋世は空を眺めた。ちろっと眺めてその後知らん振りしたまま、菱本先生はD組連中にむかいがっと怒鳴った。

「それでは、これからバスにクラスごと分かれて乗るからな。はぐれるなよ、まだ気を抜くんじゃないぞ!」

 最後までこの先生は元気な人だ。いろんな修羅場が生徒たちには起こっているのに実は何にも知らないままでいるんだからたいしたものだと秋世は思う。大人が仕切っているように見えて、実は子どもたちがうまくコントロールしているのが青大附中の現状ではないだろうか。うっかり口に出すと、それを逆手に取られて反対にコントロールされてしまうので内緒にした。

 

 クラスの整列準備が整い、背丈どおりに後ろから三番目に並んだ。天敵羽飛もこちらをじろじろ見ていたけれども、大人気ないんでそのあたりはうまくすかしておいた。東堂がそばにいたので肩をつつきながら、

「結局、勝ったのか?」

 尋ねた。先生たちにはもちろん内緒だ。ああいうトランプ遊びの場合、たいてい賭けをしていることがほとんどだった。お金を賭けることはめったにせず、主に食べ物のおごりあいに尽きるけれども修学旅行中にかぎっては、小遣いの範囲内でスリルを味わっていたらしい。秋世は残念ながらそこに割り込むことができなかったけれども、東堂はかなり稼いでいたらしい。あとでたかってやらねば。

「すっからかん、たかろうったって無駄だぜ」

「それは残念」

 右の肩を軽く触られたようなけはいがした。男女一列ずつ並んでいる間を、立村がひとりひとり肩にさわりながら点呼を取っていた。それが立村流のやり方だとクラスの誰もが知っているはずだ。

「男子全員揃ってます」

 一番後ろの奴までたどり着いた後、立村はすばやく先頭に戻り菱本先生に報告した。

「そうか、じゃあ先にだ。A組から乗り込んでいくから、俺たちはまだ動くなよ」

 最後尾D組の定めだ。しばらく東堂相手にくっちゃべりながら秋世は待つことにした。かなり鋭い視線でにらまれているような気がするが、そんなの関係なかった。あともう少しで修学旅行も終わる。解散だ。秋世はさっさと病院か彰子の家か、それとも両方か、向かうつもりでいた。立村に口走ったでまかせが本当になってしまったといえばそうだけど、やりたくないというわけではないのだからそれもいいだろう。もともと秋世は流される形で動くのも嫌いではなかった。こだわりがない。絶対何かをせねばならないとか、何かをどうしてもしたいとか、そういう気持ちがあまり感じられない性格だった。唯一例外は彰子にまつわるあれやこれやのことくらいだが、それだって無理に夏木から彰子を奪い取りたいという気持ちではないのだから、達観しているところもある。

 少なくとも東堂のようにかつての彼女に未練たっぷり、そういうことはない。

 それはそれ、これはこれ、すべての思い出に感謝するだけの秋世とは違う。

「おせえな」

 A組から順々に、待ち構えているバスに乗り込んでいく連中を眺めながら東堂がつぶやいた。

「足踏み状態っていうんですか」

「そうさな」

 C組のやたらうるさい集団が金切り声上げながら移動していって後、だいぶ経つのに菱本先生も、先頭の立村もまったく移動しようとしやしない。一番奥の方のA組バスらしき一台が移動し始めたのになぜか、D組は移動することすらしやしない。

「ほんと、なんでだろうなあ」

 他の連中はまだ修学旅行を終わらせたくないらしくて、ちっとも気にしたしぐさもなく、前後ろの連中とだべっていた。女子たちも昨夜盛り上がった話題なのかテレビドラマの話を口にしていた。きっとこの人たちも、昨夜秘密のひと時を味わった連中が同級生の中に混じっているなんてことを想像していないのだろう。しかもクラスでは「昼行灯」扱いされている立村が自分から女子の部屋へ二人っきりの時を求めにいった……もし本人に伝えたら激怒されるだろうが、秋世としてはそう解釈した……なんて、信じる奴いないだろう。表面上に浮かんでいる現実と、その裏でうごめいている出来事とは百八十度違う。秋世も気づかなかったわけではないけれども、この昼間の明るさとは違うどろどろした世界が広がっているのを眼にするのは、やはり息苦しかった。

 当の本人、立村はやはりお相手の清坂と先頭に並んでいた。背が一番低いからではない。評議委員が何事においても先導するという青大附中の義務からなるものだ。秋世や羽飛よりはかなり背が低いと思うが、先頭の水口よりは高いはずだ。

 ──どんな話してるのか。

 もちろん悪いことが起こったわけではないにしても、立村と清坂との間には当然秘密が生まれたのだろう。ここで菱本先生およびクラスメートの前で秋世の知っていることをすべて暴露したらどんなことになるだろう。ふと考え打ち消した。しゃれにならない話になってしまうだろう。退学、停学、そのあたりは逃れられない。規律委員たる秋世は、青大附中の校則を一通り暗記しているから間違いない。

 ──まあ人それぞれいろいろあるだろうけどさ。本条先輩だったらなんと言うかねえ。

 後日、必ず報告することになるであろう、本条先輩との会話を想像しつつ、秋世は思わず頬を緩めた。教師や秋世が立村を責め立てなくても、ちゃんと担当者は待機しているというわけだ。

 東堂が前の方でくくっとのどを鳴らしている。ちょいと気になった。

「おいおい、どうしたよ」

「なんでも」

 どうも気持ち悪い。こいつは自分と同じく腹の中にはなんにもなく、たまっていたら下痢を起こすというタイプの男だった。ためつづけて宿便状態になった段階で、昨日の夜のように白状してしまうというパターンだ。不必要な隠し事なんて似合わない奴なのに。違和感がある。でもあまり気にしてもしょうがない。秋世は曇り空に向かってあくびをした後、ガムを一枚引っ張り出して口に放り込んだ。他クラスの女子が見当たらないから、意味不明のきゃあきゃあ声が聞こえることもない。「あら、あきよくん、ガム好きだねえ」と言いながらにっこりと顔を覗き込む子がいるわけでもない。

 先頭の方で清坂に話し掛けている菱本先生が、ふいに秋世に眼を止めた。露骨に視線があった。まずい、まだガム食っているとか言って怒鳴られそうだ。慌てて口から吐き出した。銀紙でまだ味の残っているガムを丸め、ポケットに押し込んだ。何か言いたそうな顔をしているが、果たしてどんなものだか想像つかぬ。でも次の言葉はありふれていた。

「南雲、水口、ちょっと来い」

 先生のお言葉なら行きたくなくともいかねばならない。秋世は静々と前へ出た。秋世が女子の脇を通る格好ですり抜けると、髪の毛が少したわんだように感じた。前に出るほどでもなかった水口が秋世を覗き込むようにして何かを言おうとしたが、聞こえなかった。

 第二の指示を菱本先生は、先頭できょっとっとしていた立村と清坂に出した。。

「悪いがお前ら、先頭行け、立村、清坂、お前ら二番手で少し、いちゃいちゃしてろ」

 口がぽかんと開いていくかわいそうな立村。こいつがもともと菱本先生を嫌悪しているのは誰もが知っている事実でもある。一瞬空気が凍りつく……ほどでもない。たとえ氷点下に体温が下がったとしても、誰もぶちぎれることを許しはしないだろうから。清坂が心配そうに立村を見つめたが、言葉を飲み込んで秋世に視線を送った。雰囲気を変える役目を求めている目だった。しかたない。秋世はさっそく、立村に両手を合わせて前に立ちはだかった。清坂の前に水口がとっとと陣取った。

「りっちゃん、すまぬ、この借りはいつか!」

 幸い、立村は菱本先生に殴りかからずにすんだ。これが規律委員の影なる仕事でもある。


 とはいえ、なぜまん前に引っ張り出されたのかその理由がわからない。

 ──いや、わからないわけでもないが。

 よりによって、水口とふたりで先頭とは。菱本先生も秋世と水口との関係修復をさりげなくはかってくれたのではないかと推測した。それほど先生の前で修羅場を演じた記憶もないし、表向きはどちらも紳士的対応に徹したはずだ。秋世も本心はともかくも、水口を影で締めようとは思わない。

 秋世は黙って、前の方で水口が清坂に向かい話し掛けるのを聞いていた。自慢下に、にきび面をぼりぼり掻きながら、自信たっぷりに。こいつがなぜ、ここまでふんぞり返り始めたのかを秋世はだいたい読んでいた。おそらく、彰子の事件がきっかけだろう。昨夜菱本先生が話してくれたところによると、水口病院への輸送はしなかったみたいだし、病院の次期後継者もそれほど力を発揮しなかったらしい。彰子の父のためにもそうだけど、自分のためにもこの点はよかったと思う。

 相槌を打っている清坂と立村。なんだか会話がぎこちない。こうやってそばで聞いてみて気づいたのだが、評議委員コンビのこの二人、話していることが微妙にずれている時がある。完全にばらばらの時はともかく、今は水口をはさんで互いの会話をつなぎあっているような気がする。意識しあっているのか違うのか、秋世にはわからない。それほどつっこまなくてもいいことでもある。聞かない振りをして脳みその中で洋楽ポップスを口ずさんだ。はるか二メートル先の先頭で菱本先生が、ジャパニーズイングリッシュの歌を歌っているのにつられた振りをした。余計なことなんて、自分で遮断してしまえば耳せんなしでも大丈夫。それが秋世のやり方だった、はずだった。

 水口がいかにも物知り顔でしゃべっているあてにならないあれやこれやを聞かずにすんだはずだった。

「おい、なんだよそれ、同じ高校って青大附高じゃないのか?」

 前の立村がいきなり水口に話し掛けるまでは、知らん振りしつづけられるはずだった。

 ──なんでお前そんな不確定なこと、第三者にしゃべるっていうんだ!

 ──もし間違ってたらお前どうするつもりなんだ! 黙れよ!

 言葉が出ない。ここでは怒鳴れない。なぜならば、まだここは人前だから。

 人前でがなりたてることは、南雲秋世にとって一番醜く、許されざることだから。

 どこぞの誰かのように感情むきだしでわめくことが、嫌悪そのものだから。


「すい君、青大附高に行かないの?」

 明らかに秋世を意識しているのか、水口は自信たっぷりの口調で答えた。鼻をすすっている。

「行かない、かもしれない」

 ──何が「行かないかも」だ。お前落ちたらどうするんだ。

 立村たちが驚いているのは、おそらく彰子も青大附中を卒業後別の学校へ進学することに違いない。あたりまえである。秋世だって初耳だったのだ。もしかしたら菱本先生にも知らせていないのかもしれない。なによりも一番可能性高いのは、水口が勘違いしまくっていることだ。水口ひとりが大好きなねーさんと学校進学したくて妄想をかましている可能性だってあるわけだ。

 質問を切り返す立村の声は黙っていても耳に入ってくる。じんじんと口元がゆがんでくるのがわかる。前をしっかと見て後、背を伸ばし歩いた。

「しれないって、じゃあ行くとしたらどこに進学するんだ?」

 清坂も即、立村の次に質問を投げかける。やはりどこかこの二人、噛みあっていない。なんでだろう。

「水口くん、将来お医者さんになるんだよね?」

「もちろん!」

 ──自信もって答えるなよ。医者って倫理が大切な仕事だろうが。そう簡単にぺらぺらと嘘八百並べられるのかお前! プライバシーってものを考えろよ!

「じゃあ青大附属じゃいけないの?じゃあどうして彰子ちゃんが同じ学校に行くの?」

 清坂の質問に関しては少し間抜けさを感じた。青潟大学には医学部がないのを失念しているらしい。

 それにしても、そんなに水口の奴、彰子のことを考えていたのだろうか? 秋世には正直信じられなかった。女子みたいに毎日寝てもさめても好きな子のことを考えていられるもんだろうか、仮にも男子とあろうものが。秋世もかなり彰子にはまいっている方だと自覚しているが、それでもどたぱたが片付いた後はすっきりと別チャンネルに頭を切り替えていた。もちろんちょこっと浮かぶことはある。リップクリームを購入したのもその流れだ。でも、修学旅行の貴重な時をずっと費やすほど、恋愛沙汰とは大切なものなのだろうか。彰子のことなら、青潟についてからダッシュで向かえばいいことだ。何も水口みたいに、しつこく彰子彰子ねーさんねーさんと、自分の持ち札を見せびらかすこともないだろうに。

 ──男だったらな、こっそりかっこつけるかなんかしろよな。

 わけのわからぬ苛立ちは、決してやきもちなんかじゃない。

 決して、誰がなんといっても、彰子のことを忘れていたなんていう、罪悪感なんかじゃない。そう思いたい。恋愛だけじゃなくて家族だって大切だろうに、それのどこがいけないんだろうか。胃が今になってきりきりと痛む。

 ──だから、なんでこんなところで好き放題言うんだよ!

「水口、いいかげんにしろ!」

 先頭の立村が最初にはっと振りかえった。悪いがこいつには用がない。とぼけた顔して秋世を面白そうに見上げる水口の顔にどばどばっとせりふを吐きかけた。

「まだなんも決まってねえことをだ、嘘八百ずらずらと並べやがって! そういうのは決まってからにしろって言っただろうが!」

 そう、まだ何も決まっていないのだ。

 彰子がどこの学校へ行くかなんて、今ここで水口一人が知ったかぶりしてしゃべっているだけであって、本当のことはまだ、誰も知らないのだ。それを止める規律委員長でどこが悪い。立て板に水状態でまくし立ててしまいそうだった。なんでだか自分でもわからない。どこかでこのままだと、青大附中のアイドルの仮面がはがれてしまうことに気づいているけれども、そんなのどうでもいい。荒立つ波をそのままたたきつけて、すべて押し流してしまいたかった。彰子への恋心? そんな甘ったるい感情ではない。自分の大嫌いなうじうじした泥水の気持ちが、のど元まであふれかえっていた。

 背中を軽く押される気配に、一瞬、息が止まる。横目で見ると立村がいつのまにか秋世の隣に立っていた。背中を押すようにしている手が、妙に生暖かかった。

「とにかく早くバスに乗ろう。ほらなぐちゃん、とにかく歩こうよ」

 ──今朝は顔面蒼白で泣きそうな顔をしていたくせに。

 立村の性格が仲裁専門だということくらい知らないわけではない。それでもこの時だけは、水口に怒涛のごとくわめかせてほしかった。振り払いたい。後ろの方で男子連中がいきなり「ひゅーひゅー」と冷やかし声をかけていた。何を言い合っているのか、あいつらだって気づいていない。隣の列の女子たちが秋世を見つめてなにやらひそひそ話をしている。

 ──俺だって怒鳴りたい時はあるって!

 どうして一瞬のうちに自分は、周りの空気を読んであわせてしまいたくなるのだろう。

 立村が背中のリュックの紐をつかむようにして、無理やり前に押し出そうとしているのがわかる。たぶん水口から引き離そうとしているのだろう。秋世なりにもその友情表現には答えなくてはいけない。言葉を返すにも、立村を傷つけないような言い方が思いつかず、秋世はめいっぱい虚勢を張ったまま歩きだした。

 幸い、立村は秋世の親友だった。

 それ以上余計なことを言わず、ただ黙って背中の紐をつかむだけだった。二人で菱本先生の近くによっていこうとすると、ぐいと引っ張られる。立村がブレーキをかけているのだ。さっきあれだけ腹が立っていたのに、なぜかおかしくて口の中だけで笑った。

 バスの停車位置までたどり着いた。菱本先生が途中立ち止まると、秋世の方だけ見てにやりと笑った。ちょうどぶちぎれていた真っ最中の顔を引き締め終わった後だった。

「先生早いっすねえ」

 隣の立村が無愛想なのはさておく。このあたりは菱本先生も同じらしい。まったく立村を無視したまま続けた。

「すいはどこだ?」

「さあ」

「じゃあ、来るまでのお楽しみだな」

 何が来るまでのお楽しみなんだろう。秋世と水口をふたりだけ先頭に置いた理由がわかるようでわからなかった。この先生は以前から、秋世の性格をなんとなく見抜いて適材適所とばかりに配置するところがあった。あまりにも「らしくない」と言われた規律委員のきっかけも菱本先生だった。クラスでいろいろな事件が起こるたび、菱本先生は立村よりもまず秋世に声をかけていた。もっとも立村は別ルートから聞き出してさっさと動いていたので先生が隠す意味もないわけだがその辺は内緒だ。昨夜東堂の告白も、菱本先生がうまくセッティングしたんではないかとひそかに秋世はにらんでいる。今も、何かたくらんでいるのだろうか。水口もセットということはたぶん彰子がらみだろうと読んでいるが、いかに。

「やだなあ先生、さっさと言ってくださいっすよ。俺と、先生の仲でしょ」

 露骨に顔をしかめる立村は無視する。

「やはり、愛は平等でないとな」

 意味不明のお言葉を賜る。何が平等だ。やはり彰子のことと重ねていると観た。

 立村が物言いたそうに秋世を見やった。このあたり、すねに傷があるゆえに、露骨に尋ねられない様子だ。ようやく水口を先頭とする男子連中が追いつき、二歩ほど遅れて女子が到着した。すでに整列という状態ではなかった。

「ヒントは、駐車場だ。見てみろよ」

 水口が隣に並ぶ寸前に、菱本先生は秋世にだけささやいた。男同士のちょっと気味悪いウインクだった。また立村が唇を噛んだまま、そっぽを向いていた。

 言われた通りに視線を向けた。すでに隣に並んでいたバスは三台とも出発していて、あとはD組が乗り込むのを待つだけだった。向かいの白いレーンを越えて、黒のライトバンっぽい車が留まっていた。目だつといえばそれだけだった。

 ──黒のライトバン?

 頭がくるくると回らない。何かあるようでないようで。

 ──黒? なんだこれ。

 網のかかった窓ガラス。潮風になびいている日の丸の旗。


 ──夏木だ!

 ──彰子さんがいる!


 水口の視線はバス最後尾の窓ガラスに向けられていた。それでも一テンポ早く前に出ることができたのは、日の丸の意味を即、理解したからだろう。隣の女子らしい誰かを突き飛ばしてしまった。いつものアイドル面した秋世だったら頭を下げてから行くだろう。そういう常識が、意識に上ってこなかった。その隣をすり抜けようとねずみみたいな奴が頭突きしてきた。

「な、南雲、ずるいぞ!」

 ずるいも何も、気づくのが遅れたのは水口、お前がとろいのだ。先着必勝。秋世が先頭のヘッドライトを腹くっつけてすり抜けようとするのを邪魔しようとする水口。聞こえたっていい、ののしった。

「邪魔だっての、いいかげん邪魔するんじゃねえっていってるだろうが!」

「やだよ、先に通せよ!」

「誰が通すかって!」

 シャツが見事に泥で汚れてしまった。いつもの自分ではないからそんなものどうでもよかった。とにかく、一歩でも早く、誰よりも早く、たどり着きたかった。たった一人、その言葉を信じることのできる人がそこにいる。

 ──俺は伝聞系は嫌いなんだよ。

 息が詰まってその捨て台詞は使えなかった。タラップを大またに二段踏み越え、初日と同じバスガイドさんの笑顔を無視して後、秋世はバスを揺らしながら最奥の席に突進した。自分が赤い布を見せられた闘牛に化けたのだと、今感じた。


「彰子さん!」

 後ろから誰かが追ってくる。脇でまたクラスの連中が騒いでいる。そんなの知ったことか。今の秋世は、規律委員長でも青大附中のアイドルでもなんでもない。ただ、生身の奈良岡彰子と会いたがっている、それだけの人間だ。彰子にだけかぶってみせる完璧な王子様の仮面を探り出しながら、今の自分はもしかしたら般若の顔をしているかもしれない、そんな気がした。

 もみじ手で微笑んでいた、ふっくらあんまんのお姫さまは、修学旅行はじまりと同じ、やわらかいまま秋世と……水口をも……迎えるように両手を伸ばした。抱きとめるようなしぐさだった。もちろん飛び込みはしなかった。秋世の方が一気に抱きしめたかった。それにしても腰ぎんちゃくの水口が邪魔だった。自分の中学生という年頃がかせだった。

「秋世くん、すいくん、心配させてごめんね」

 飛びつく代わり、秋世はポケットからすっかりしわくちゃになった袋を取り出した。

「これ、おみやげ。使ってくれよな」

 少しだけ悪っぽく言ってみた。

「うん、ありがとう。ほんと、ごめんね」

「あのさ、俺も、俺も」

 ったく、何を考えているのか後ろから、水口が不器用にぱんぱんの袋を引っ張り出そうとする。もうつめこみ終わっているのだから、いいかげんやめろよといいたい。あとでかばんのチャックが閉まらなくなったらどうするんだ。ばたばた水口がやっている間に秋世はささっと彰子の隣をキープした。彰子も嫌がらなかった。袋の上を何度も指ずらしして、何が入っているのかを確かめようとした。耳元に、秋世の持つきざな性格すべてを注ぎ込んでささやいた。

「これ、今開けないでさ、俺と二人の時だけにしてくれないかな」

「え? 今はだめなの?」

 分けられるものだったらきっと彰子は、みんなにおすそ分けしてしまう。そんな彰子の性格をしっかり読んで、秋世はプライベートなものを選んだわけだ。誰にも、そうだ、誰にも見られたくない、秋世のためにしか使ってほしくない。

「だってさ、俺、規律委員長さまだから、校則破れないわけ」

「規律委員長さま? なんかあきよくん、面白い言い方するね」

 きっと彰子の唇には、少し濃い目の赤が似合うはずだ。いつもふっくらピンク色の唇はそのままでもいいけれど、秋世とふたりの時だけは、どうか大人の色を選んでほしかった。

 ささやかな願望と、欲望が入り混じった、紅の色。

「じゃあ、病院で開けるね」

「おばさんたちには絶対内緒だよ、彰子さん」

 通路に突っ立ったまま、水口がようやく何かを取り出した。単行本くらいの大きさで、紙のブックカバーがかかっていた。

「これ、ねーさんにやる」

 まだ第二弾の連中が乗り込んでくる気配がない。秋世を無理やりどかそうとした。動く気なんてさらさらなかったのに、彰子の方が立ち上がってしまった。やはり同じような彰子の笑顔は、水口にも向けられている。ふんわりふくらんだ唇が水口に向かって開いている。

「え? そんないいのに、大丈夫だよ、すいくん」

 秋世が彰子にもたれかかられたかっこうになった。いきなりぴんと背筋を伸ばして水口が本を差し出した。なんの本だか、わからない。

「五年間の過去試験問題集なんだ」

 勝ち誇ったように、鼻の穴を膨らませて、水口は告げた。

「絶対、絶対、参考になるよ」

 彰子は小首をかしげて受け取り、ぱらぱらっとめくった。笑うと目が顔に溶け込み温かくなる、そんな表情でお礼を言った。

「ありがとう、すいくん。私、本当にみんなに大切にされているんだね」


 立村と清坂の評議委員コンビだけが手をつないでバスに乗り込んできた。先頭の席に半ば無理やり、清坂を座らせている様子だった。確か清坂の席はもっと後ろ側だったのではないだろうか。立村自身が座る寸前、秋世の方に両手で、空気を平行にたたくしぐさをした。お座りください、そのままで、という意味と読んだ。ピースサインで答えておいた。

「あ、あいつら手つないでる、やらしー」

 ふたりをからかうのではなく、彰子に話し掛けるネタとして水口が口走った。

 彰子も少し驚いたようすだった。

「ほんとだね。どうしたんだろう? 美里ちゃん」

 このあたりの事情を口に出すのははばかられる。

「やっぱりあれがきっかけなのかなあ」

「すいくん、約束したよね。女子に変なこと、言わないこと」

「ごめんなさあい」

 ──けっ、声変わりしてるくせに変なことしてるんじゃねえよ。

 

 秋世と水口との間で彰子の隣席争奪戦が起こってからすぐに、外でいきなり組みじゃんけんが始まった。立村たちだけが除外されたらしい。隣バスの席順はみな決まっている。本来だったら男子は前列にかたまり、女子が後列に並ぶのが決まりだった。規律委員長が率先して破るのも本来だったら許されないことだろうが、先ほど担任じきじきに特例をひいてくれたのだから、このあたりは自分らに都合よく解釈しておこう。

「いっせーのっせっ!」

「グットッパーで、合った人! 合ったー人!」

 結局窓際に秋世が、その間に彰子、その隣に水口という順番で収まった。それしか妥協案はない。もともと車に弱い秋世のことを気遣って彰子じきじきに、

「いいよ、秋世くん、窓際にくれば?」

 と言ってくれたからこそ。ありがたかった。

「でも、いいのかな、ここで」

「俺、動く気ない」

「俺も!」

 女子たちにまたいろいろ言われるだろうが、そんなのかまいやしなかった。秋世と水口は矢継ぎ早におもしろいと思えるネタを並べ、彰子に話し掛けるだけだった。決して彰子の両親の事情や病院ネタなんて持ち出さなかった。時折水口が、「俺、ちゃんと清坂にあやまったよ、それでいいだろ?」と意味不明の言葉を発し、意味ありげに彰子が水口を見つめ返すのが少しいらだつくらいで、秋世も自分なりに四日目以降のことを話し掛けたりした。


 ──俺は約束したんだよね、親衛隊長さまにさ。

 夏木の、白線学生服姿が眼に浮かぶ。

 真正面の黒い車と日の丸が。

 ──俺は、彰子さんに決して、修学旅行中いやなこと思い出させないってさ。

 だから、どんなに知りたくても、聞き出したくても。

 ──この旅行が終わるまでは、絶対に聞かない。

 ──彰子さんの両親のことも、高校のことも、夏木とのことも。


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