過去
爽は、自分が見えているものについて、ほとんど人に話すことはなかった。
自分にしか見えないもの、自分しか感じることができないものについては、人に言うべきではないと思っていた。
小さい頃、巧に嘘つき呼ばわりされたことがきっかけではあったが、自分が見ていることがどんなに真実だと主張しても、見えないことが真実である人間に、信じてもらうことは難しいと悟ったのだ。
相手が怖れているなら尚更だ。
見えない人に、あえて怖がらせる必要は無い。
けれども、祖母初枝の死後、葬式の終わった翌日に事件は起きてしまった。
皿が飛び、茶碗が飛び、包丁が飛んだ。
ポルターガイスト現象だった。
信じられない現象の前に、葬式のために実家に戻っていた巧は驚き、母は恐怖した。
そして、爽は、その現象を引き起こしたのが、死んだ祖母初枝の霊だということに気づいてしまったのだ。
爽には、見えてしまったのだ。
母麻由美は、優しく従順な女性だった。
父春生は、何度もガンを再発させ、病院に長期入院している。
初江が、骨折をきっかけに、家で寝たきりの状態になるまで、嫁の麻由美の意志はあってないようなものだった。
学歴も資格も頼る家族もいない麻由美が、夫に守ってもらうこともできず、初江の厳しすぎるしごきに耐えていたのは、いくところのない身の上の故と、子供たちと一緒にいたいが為だった。
麻由美は、結婚してからずっと、初江にかしづいていた。
しかし、その初江は、苦しみの中で死んでいた。
怒りのままに、食器がとびまくる。
初江の憎悪が、渦を巻いて、誰彼となく攻撃する。
感じるのは、強い怒りと憎しみ。
何故かわからないが、激しい憎悪が部屋中に渦巻いていた。
このままでは、初江の憎悪に、家族が皆殺されてしまいかねない。
何とかしなければ…。
この騒動の元が初枝の感情であることに気づいた爽は、初江の霊とコンタクトを取ろうと試みた。
はあちゃん、やめてくれ。どうして、こんなことするんだ?
初江の激しい憎悪の前に、爽がたちはだかった。
初江の目が、爽とあった。
初江の霊が、爽の存在を認識できたのだ。
その時、何かかが起こった。
爽は、今でも、それが、どういう流れで始まったのか、わからない。
爽は、初江の気持ちをわかろうとし、初江は、感情の塊でありながら、わかろうとする爽を、認識した。
そして、それに、呼応するように、爽の意識がとんだ。
わかったことと言えば、爽の意識がとんだところが、初江の生前の記憶の中だったと言うことだ。
初江が、溺愛していた爽の意識をひっぱったのかもしれないし、爽の背後にある守護霊だの指導霊だのが、爽の意識を導いたのかもしれない。とにかく、爽は、初江の記憶の中にとびこんだのだ。
初江は、絶対君主だった。
自分の思い通りになる環境が与えられた場合、人は、傲慢にならないよう自分を自制しなければならない。
しかし、自分の理性で、それを押さえるのは、至難の業だ。
初江も、例にもれず、従順で、おとなしい性格の嫁、麻由美の前で、手のつけられない暴君になっていた。
腰を骨折して、動けなくなっても、初江は、携帯で、遠慮なく、忙しい麻由美を呼びつけ、自分の世話を強要していた。
プライドの人一倍高い初枝は、他人に、自分の世話をやかれることを、極端に嫌がったのだ。親戚や爽でさえ、面倒みさせるのをいやがった。
麻由美も、かいがいしく、以前にまして、五月蠅い初枝の面倒を献身的にみていたのだが。
麻由美が、接客の為に、初枝の呼び出しにすぐに対応出来なかったことがあった。
その時、初枝は、間に合うことができず、粗相をしてしまった。
プライドの高い初枝にとっては、死にたい程の衝撃だった。
麻由美が接客を終え、あわてて、初枝の部屋の襖を開けた時、そこには、濡れた布団に、そのままうなだれて座っている初枝の姿があった。
それを見た瞬間だった。麻由美の心に悪魔が入り込んだのだ。
元々五月蠅い初枝の看病をしたがる者などいなかった。
初江の肩ばかりもつ小姑や親戚さえ、初江が退院して、自宅療養になった時から、初枝が介護される身体を、他人見せたがらないのをいいことに、ほとんど見舞いにも来なかった。
爽は、時々、見舞うこともあったが、進学高校の生活は忙しく、部活と勉強で、ほとんど、廊下から障子をあけ、声をかけるくらいだった。じっくり座って、初江の相手をすることはなかった。
そんな状態になっても、文句ばっかり言うの初枝に対して、たった一人で、世話をやいている麻由美が、感謝もしない初枝に対して長年の鬱屈した感情をぶつけてしまったとして、誰が責めることができるだろうか。
しかし、爽の意識は、その当時の初枝の記憶にとんでいた。
爽が、初江の目線で見た、ビジョンに、麻由美の行動が映り込んでいた。
献身的に初枝の看病をしていた麻由美が、看病しても、当たり前のように高圧的な態度をとる、介護されて当然だと思っている、いつもイライラした初江に、少しずつキレていく姿が見えていた。
麻由美の中の悪魔は、静かに行動した。
無表情のままで、麻由美は静かに行動しない行動をした。
まず、トイレの介助の電話を無視しはじめた。
言い訳しながら、やってくる時には、布団は、糞尿まみれになっていた。
プライドの高い初枝は、何度もそれを誰かに告げようとするが、直前でやめてしまう。
自分が、粗相をしてしまうことを、嫁に意地悪をされていることを、人に告げることができないのだ。
そして、オムツがあてがわれた。
動けば、自力でできるのに、麻由美は、それを許さなかった。
糞尿がでたあとに、麻由美は、やってきて、オムツを替え、身体を拭いてきれいにして、静かに部屋をあとにする。
その間、初枝は、麻由美を侮り続ける。
けれども、麻由美は、無言で、作業を続けるだけだ。
そして、去り際に、一言
「臭い」
と、静かな声で言う。
それが、初枝にはショックだった。
初枝でもわかる。
この換気されない部屋がどれだけ、外からくる人間に臭いと感じさせるかぐらいは。
そして、誰にもこの部屋にいれたくないと思ってしまう。
爽が、ふすまの向こうから、
「ばあちゃん、入っていい?」
と、声をかけると、初枝は、あわてて、
「駄目」
だと答えた。
爽に、こんな臭い部屋に自分がいることを知られたくなかった。
オムツをしてることも、糞尿を垂れ流してしまうことも。
さらに、気力が萎えると、筋肉は、驚くほど落ちてしまう。
介助さえしてもらえば、立って歩くこともできていたのに、どんどん座った身体をささえることも、困難になってしまった。
更に、毎日替えていたシーツやタオルや寝間着も、段々、毎日ではなくなってきた。
食事も、メニューから、初枝の好きなものは一切消えた。
ついに、初枝は、入院している息子の春生に、これまでの麻由美の自分にした行為について、ぶちまけた。
話しているうちに、なんで、自分が、こんな目にあわなければならないのか、段々腹がたってきた。
これは、虐待だ。
怒りが、頂点にさしかかった頃、電話向こうの春生が言った。
「母さん、いい加減にしなよ。どうして、いつも、麻由美を貶めようとするんだ?」
「春生?」
「嫁いびりもたいがいにしてくれ。」
電話は、一方的に切られた。
怒りはつのるが、それを誰にも主張することはできない。
激しい感情ばかりが身体中を駆け巡るが、それでも、身体は動かず、衰弱していく。
時々、発作のように、感情的になり、喚き叫ぶことはあったが、
筋力が落ち、身体は動かない。
そして、そのまま、初枝は衰弱して死んだ。
そして、死後、閉ざされていた怒りが、肉体から離れて解放され、強い憎悪を持って、力になった。
式を終え、親戚を送り出し、やっと家族3人になって、はなれの自宅に戻ってきたときに、それが起こったのだ。
食器が飛び、電灯が割れ、包丁が向かってくる。
その相手は、麻由美だけに向けられたものじゃなかった。
怒りの矛先に、理性はなかった。
「ばあちゃんが…」
「ばばあが、どうしたって?」
飛んでくる食器をかわし、麻由美をかばいながら巧が怒鳴る。
「ばあちゃんが、母さんがやったことに、怒っている。」
爽が、呆然と伝える。
「は?」
巧が、麻由美を振り返ると、麻由美が青い顔をして立ちすくんでいた。
麻由美は、隠していた感情と、自分のやってしまった行為を、よりにもよって我が子に知られたのだと悟った。
爽の目の前で、麻由美は恐怖にかられた表情で昏倒した。
あわてて、巧が、倒れる麻由美の体を支えるところを爽は目撃した。
しかし、そのあとのことを、爽はあまり覚えていない。
初江の感情の残りである魂を、行くべきところに導いた。
何故、それができたのか、どうやってそれをしたのか、爽には、ほとんど記憶がない。
気が付くと、病院のベッドの上だった。
救急病院で気が付いた麻由美は、爽のベッドが隣だと気づいて、錯乱した。
麻由美と爽をひきはなし、やっと落ち着いた麻由美と、巧が何を話したのかわからない。
そして、それ以降、麻由美は爽と目を合わさない。
麻由美は、爽を怖がっていた。
爽は、爽を避ける麻由美から逃げるように、東京の大学を受験したのだ。
爽は、初枝の記憶から見えたことを、誰にも話しはしなかった。
けれども、麻由美は、爽の霊能力の強さに、気が付いた。
霊が見える程度の生半可な能力ではない。
死霊を浄化させることができるのは、あれ以降ポルタ―ガイスト現象がなくなったことでも証明できる。
そればかりではない。
死者の言葉を聞くことができたのだ。
勿論、爽の場合、言葉を交わすより、死者の記憶をたどった行為になるのだが。
麻由美は、爽を愛している。
けれども、初江との、この最後の数か月の自分の行為については、人に知られてはいけない麻由美だけの秘密だったのだ。
元々、意地悪な性格ではない。
自分に、そんな悪魔のような面があることに、麻由美は初めて気づいたのだ。
その墓場まで持って行こうと決めていた、絶対にふり返りたくない記憶を、よりによって愛する息子に知られてしまった。
麻由美にとって、爽は、誰より怖い存在になった。
自分の認めたくない自分を、誰より知っている。
自分が封印していた黒くどろどろした感情を、誰よりも理解した息子になってしまった。
冷静で客観的な麻由美は、爽の能力が、これからの人生にどう影響するのか、それを、心から心配している。
一方で、爽の前では、いたたまれない自分を自覚する。
爽が近くにいるだけで、脂汗が出て、心の中が全て読まれているような気がする。
爽を母として心配しつつも、爽に近づくことが怖くてたまらないのだ。
麻由美は、巧に相談したはずだ。
けれども、試験中に帰ってきていた巧は、卒業のために、急いで大学に帰る必要があった。
爽と、この件で、話をすることはなかった。
巧の中でも混乱があったのかもしれない。
爽自身も混乱していた。
巧が、どんな表情で、東京に帰って行ったのか覚えていない。
ただ、爽との同居をあっさり受け入れたことが、不思議だった。
僕のことが怖くない?
聞いてみたかったが、巧は、あの事件については一切触れなかった。
上京した時に、あの事件ぶりに会った時も、巧は、その時のことについて話をしなかった。
爽から話をするのは、はばかられた。
巧が、爽に対して、どういう気持ちをもっているか、わからなかったからだ。
巧が、爽をどう思っているのか、おそらく母が告白した内容をどう感じているのか、霊感についてどう思っているのか、全てわからないまま、今に至っている。
だから、余計、言えない。
巧のそばに、しがみつくように存在しているもののことを。
この顔に、爽は、激しく嫌悪するものを感じた。
この男が、何故、どうして、兄の傍にいようとしているのかわからないが、嫌な感じは激しかった。
長身の巧より背の高い、眉の太い、醜悪な顔をした男。
この男は、巧の職場にいる薬剤師の姿なのだ。