ダメージ
その日の夕方、爽のバイトが休みだったので、早めにマンションに戻ると、人の気配がある。
「兄貴?」
珍しくリビングのソファに横になっていた巧は、顔をしかめながら起き上ってきた。
「調子悪いの?」
「んー」
「熱は?」
「ない。」
「食事は?」
「まだ。」
だが、食事をとろうとした形跡はない。
「今日は、バイト、休みだから、僕もまだなんだ。一緒に食べに行こうよ。」
と爽は誘ってみた。
「?」
巧は、珍しいものでも見るように、爽を顧みると、ため息をつきながら笑って立ち上がった。
爽の行きつけは、マンションの裏手にある、アリスという名のこじんまりした小さな喫茶店だった。
朝も早くからあけていて、夜も遅くまでやっている。
隠れ家レストランのような感じで、客も少なく、何時間でもいれる居心地のいい爽のお気に入りの場所だ。
ランチとディナーは日替わりで、味もいい。
コーヒーもうまい。
お泊りや飲みに行くことの多い巧と違い、バイトがない日は、爽は、この店を利用していた。
茶色のドアを開けると、カランカランと鈴の音が聞こえる。
爽は、この音が好きだった。
客は、他にいない。
爽は、一番奥の、4人座りのいつもの席に進んだ。
巧は、おとなしくついてくる。
メニューをもってくるウエイトレスは、多分のこの店のオーナーの娘だ。
時々バイトに入ってくる。
爽と変わらない年齢の、目のくりくりしたおかっぱ頭の小柄なかわいい女の子だ。
巧は、メニューをとると、彼女の目をじっと見て
「ありがとう」
と綺麗な顔でにっこり笑う。
自分の魅力を十分に知っている。
巧と目をあわせた女の子は、頬を赤らめて、あわてたようにカウンターにもどっていった。
睨み付ける僕に、巧は意味ありげに笑う。そして、
「とらねーよ。」
と、笑いながら言った。
「とるって何だよ?」
「別に」
白々しくとぼける巧に、少しムカついた。
ムカついたついでに、巧に突っ込んでみる。
「別れたんだろ?」
「?」
首を軽く傾ける巧。
「美咲さんと別れたんだろ。」
巧は、オーバーに肩をすくめ、
「よくわかったな。」
素直に認めた。
女性関係は、派手だった。
自宅マンションに、女性を連れてきたことも、一度や二度じゃない。
ほとんどは、初顔あわせで、紹介も何もあったもんじゃなかったが、一人だけ、巧が爽を紹介し、爽にも紹介した女性が美咲だった。恐らく別格だ。
「何で? 兄貴が、ダブりもせず、6年で卒業できたのも、国家試験に通り薬剤師になれたのも、彼女の力だったんじゃないの?」
いつから、正式につきあっていたのかはわからないが、彼女とつきあいながらも、他の子に手を出していたはずだ。
それでも、そんな巧の面倒を、ずっとみていてくれていた知的な美人薬剤師だ。
「結婚したいって言ってきたんだよ。」
巧は、大きくため息をついた。
「え?」
「俺と、結婚したいって。」
巧は、もう一度、大きく嘆息した。
「結婚すればいいじゃないか?」
爽が反論すると、巧は、子どものように目を丸くした。
「お前、本気で言ってるのか?俺、まだ25だぞ。」
「彼女は、もう30前だろ?」
離れていた兄の全てを知っているわけではなかったが、美咲さんは、本当にできた人だと、爽は感じていた。
年下で、わがままで子どものように自由な巧を掌で転がすような、そんな包容力のある人は、巧にとって、居心地が良かったはずだ。
家庭で、甘えることのなかった巧にとって、美咲さんは、恋人でいて、母のような存在でもあったはずだ。
「で、結婚したくないから、彼女をフッたわけ?」
兄貴は、何も言わず僕を睨む。
「まさか?」
「…」
「兄貴がフラれたの?」
「黙れ。」
就職したばかりの巧に、何故、結婚を持ち出したのか、美咲の気持ちは計り知れないが、30歳が間近になり、いつまでも子供のように、甘え続けて好き勝手な生活をしている巧を、独占したくなったのか、それとも、逆に吹っ切るために、結婚を持ち出して別れを選択させたのか、爽の想像以上の複雑な想いがあったはずだ。
それに、巧は、気づいているのかいないのか。
感情的になるタイプではなさそうだった。
理系だけに、理詰めで、きっぱり別れを告げたんだろうと想像できる。
それが、意外に巧のダメージになっている。
ここのところの覇気のなさが、それを物語っている。
そして、それが、巧が、ああいうものにつけこまれている理由の一つだと合点がいった。
もともと、よくも悪くも人を感情的にさせる男だ。
目立つ言動が、いろんな思いを引き寄せる。
本来の巧なら、そんな外野の影響を受けることはない。
母の麻由美が霊感体質の爽の防波堤になるんではないかと思った勘は、間違いではない。
明るすぎる光というイメージだ。その光に誘われて、行ってみたいけど、光が明るすぎて、近づけない。
つまりは、そういう目にみえないものをはじいてしまう。
その勘に、間違いはなかったのだ。
それが、今回に関しては、もろにその影響を受けている。
精神的なダメージを受けたことにより、引き寄せやすくなっていたのと同時に、巧にはりつくそいつが、常人よりはるかに強いものを持っているせいなのかもしれない。
そいつは、ぞっとするほど嫌な顔をしていた。