黒い沼
爽の意識が、爽にゆっくり戻ってきた。
目の焦点が、徐々にあってくる。
そして、目の前に斧田がいた。
斧田は、爽が、斧田の人生の一部を垣間見たことを知っていた。
「斧田さん、貴方は…死んだんですね。」
目の前にいる斧田は、生霊ではなかった。
「死なない限り、僕に救いはないんだ…。でも、死んでも…」
斧田の両手両足は、底なし沼のような黒いものにからめとられていた。
「僕を助けてください。」
斧田は、必死だった。
「お願いします。」
死霊になった斧田は、爽の目を見て、必死に訴える。
おそらく、こんなにはっきりと、人を見て、自分の言いたいことをはっきり伝えたのは、生まれて初めてだったんじゃないだろうか?
「僕は、もうすぐこの中に引きずり込まれます。この生命を持った殺意に。もし、僕がこの中に取り込まれて、自我を失ったら、多分、この塊は、生きている人達に、必ず憑りつきます。多くの人が、殺されてしまいます。」
「…」
「この中には、江藤医師もいます。志筑くんに執着していた医師です。そして、僕も…」
生きていたときの記憶で、巧に憑りつきでもしたら、巧がどんなことになるかわからない。
斧田の心配する状況を、爽は理解できた。
「お願いします。僕を浄化してください。僕さえいなくなれば、この塊は、居場所をなくします。単体としてばらければ、こんなに大きなエネルギーにはならないはずです。もともと協調できる魂じゃないんです。僕さえいなければ…」
生霊を消すことはできない。
けれども、死霊なら、浄化できる。
斧田には、どういうわけか、そんなことがわかっていたようだ。
斧田の記憶が流れこんだときに、爽にも、斧田の考えがわかった。
その斧田が、いきなり黒い沼に首まで引っ張られる。
「!!」
「早く!」
斧田が、悲鳴をあげる。
黒い沼というのは、斧田のイメージだ。
悪霊に支配された感情の塊を斧田は黒い沼だとイメージしている。
そして、その沼が、斧田を引きずり込もうとしている。
意識を保っている斧田の意図に気づき、爽が浄化する前に、斧田を取り込もうとしていた。
そして、次の瞬間、見えていた頭もその沼に消えた。
家中にラップ音が響き、家の中の電球が、次々に破裂する。
時間がない。
爽は、焦りつつも、意識を集中させた。
斧田の意識を必死で探す。
生から切り離された斧田の意識のエネルギーは、まだかろうじて個のままだった、その意識を保てる時間は、少なかった。
急速に消えようとする斧田の意識を、沼は、同化しようとしている。
爽は、更に、意識を集中させる。
沼の中に、仄かな光を見つける。
それは、暗闇の中の小さな蛍の光のようだった。
爽は、その光を捕まえるイメージを強化する。
そして、そのぼんやりした小さな光を引きずり出す。
ラップ音が更に激しくなり、家の中のものが飛び始めた。
爽に向かって、ものが飛んでくる。
何かが爽に激しくぶつかってきたが、爽は耐えた。
両手で庇いながら、爽は、斧田を捕まえた。
そして、その意識を思い切り引き揚げ、静かに上に送り出した。
何かに委ねるように、爽は、斧田に光があたるようイメージする。
斧田の意識は、闇に溶け込むのではなく、光の方向に静かに霧散していった。
その瞬間に、部屋の中のものが一斉に回りだした。
電化製品が火花を散らす。
爽は動じず、静かに全てのものに光をあてる。
斧田という器を失った悪霊たちは、個々の存在に戻り、あるものは浄化され、あるものは光に脅えて逃げ出した。
これだけの意識を全て浄化させることはできない。
それだけ、斧田の持つ器は大きかった。
爽は、集中できる限りイメージを固める。
斧田と同じ場所に、できるだけ多くの捕まえた魂を上に送り出そうと試みる。
そして、あまりに大きな負荷に、爽は意識を失った。




