志筑巧
志筑巧の入社は、地味で静かな薬局を、一気に華やかにした。
事務の女の子も、患者の女性たちも色めきたった。
超イケメンが入ったと聞いて、わざわざ見に来るナースもいた。
じっと見つめている女の子もいた。
鑑賞に耐えうるその容姿を、当たり前のように武器にして、志筑巧は、楽しそうに仕事をしていた。
見つめられるのには慣れているようで、それが、どんな女性でも、彼はちゃんと見つめ返し、にっこりと笑顔を見せる。
着飾ってくる患者が増えてきた。
病院に用がないのに、わざわざ、処方箋の必要のないマスクやローションなどのOTCを買いにくる婦人も増えた。
しかし、それは、斧田にとって、苦痛をひとつ増やすことになった。
患者は、処方箋を出し、その処方箋を担当した薬剤師に名前を呼ばれ、薬の説明を聞きに行く。
その薬剤師が、志筑巧であってほしいと、女性患者たちは、ときめきながら、名前が呼ばれるのを待っている。
それが、斧田であったときの失望感が、時に、斧田への怒りになってぶつけられる。
他の男性薬剤師にとっても、若干の鬱屈した気持ちは多かれ少なかれあったようで、1年先輩になる白川は、当初、あからさまに志筑を嫌っていた。
その中でも、斧田は、相変わらず、江藤に呼び出されていた。
ところが、ある日のことだった。
内科の婦長が、思い詰めた様子で、平を訪ねてやってきたのだ。
薬局内は、患者の待つスペースと調剤のスペースの後に、扉を隔てて、薬剤師の個人のデスクのある休憩室と、事務の休憩室があり、さらにその奥の部屋が、経営者である平のデスクの部屋兼応接室になる。
対応する病院が大きいこともあり、薬局としてはかなり大きいスペースを持っている。
平は、応接室に婦長を通した。
しばらくして、斧田が呼ばれた。
婦長は、昼休みに、呼び出されて説教を受けている江藤の声を、偶然聞いてしまったのだと言う。
江藤の声は、決して、大声ではない。
低い声で、ねちねちと、斧田をなじる。
そばにいなければ、内容までは聞こえない。
江藤は、休憩時間という、ナースのいない時間に、わざわざ診察室に静人を連れ込み、言葉の暴力をふるうのだ。
たまたま、婦長は、隣の部屋に用事があって、入った時に、江藤の声を聞いたのだと言う。
その言い方や、内容が、あまりにも辛辣であったので、つい、聞き耳をたててしまったら、斧田の人格を全否定するあまりにひどい言い方であったという。
しかも、しつこく、しつこく、同じ言葉を繰り返す。
あれは、完璧にいじめだと、婦長は、声をあげた。
平は、斧田に、事実確認だけすると、斧田は、静かにうなづいた。
婦長は、斧田に好意を持っているわけでは決してない。
けれども、ナースという人を救う仕事をし、婦長という人を導く立場にいながらの彼女の正義感は、中途半端に燃え、そして、自らは動けないジレンマから、問題解決を、平に丸投げしたのだ。
平に話した婦長は、すっきりしたように、薬局をあとにした。
彼女とて、医師と問題を起こすわけにはいかなかったのだ。
丸投げされた平は困惑した。
想像はしていたはずだ。
でも、見ないようにしていた。
あえて、触れず、あえて、聞かず、物言わない斧田に、その問題をまかせて、ふたをして、見ないふりをしていた。
けれども、不本意ながら、医者についで、関係性を持つ婦長に、その蓋をあけられてしまった。
見たくないのに、見てしまった。
そこへ、江藤の呼び出しコールがきた。
「昼休みに、斧田さんに、資料を持って説明に来いと伝えてとのことです。」
事務の子が、機械的に平に告げて、仕事にもどる。
平は、頭を抱えた。
そして、斧田を見た。
斧田は、静かに待っている。
期待はしていなかった。
大きなため息をついて、平は何故か、志筑を呼んだ。
平は、志筑巧に、内科の江藤先生が、昼休みに、薬の説明に来いと言っていることを告げ、資料を渡す。
江藤が、面倒な性格の男であることを告げ、薬局の立場を口を酸っぱくして説明した。
「どんなことを言われても、キレるな。我慢しろ。」
「何か、怖いな。」
苦笑しながら、志筑は、江藤の元へ、資料を届け、説明するために出かけて行った。
斧田は、それを、夢をみているような気持ちで見ていた。
期待してはいけないと自分に言い聞かせる。
誰も、自分を救うために、動いてくれたわけじゃない。
何も変わるわけじゃない。
少し、脱線しても、すぐに元に戻る。
期待してはいけない。変わらないんだ。
そして、昼休みの終わるころ、志筑は帰ってきた。
「平さん!」
血相が変わっていた。
「何ですか!? あの江藤ってドクターは!」
「志筑、落ち着け。」
「あのくそ親父、ぶっ殺してやる!!」
薬局内には、数人の患者が待っていた。
平は、あわてて、志筑を薬剤師の部屋に押し込んだ。
中には、斧田と白川が待機していた。
志筑の剣幕に驚き、白川も立ち上がって、なだめようとする。
「みんな、経験してきたことなんだ。我慢してきたんだ。」
斧田は、志筑の怒りを、呆然と見ていた。
こんなに思い切り感情を表現することなど、斧田にはとうていできなかったからだ。
「冗談じゃないですよ。」
「勿論だ。だが、薬局と病院の関係は、そんなものだ。大人になってくれ。」
平が、志筑の自分より高い肩に両手を置き、椅子に座らせようとする。
「何で、こんなことが許されるんですか?!」
志筑の怒りは収まらない。
平の手を振りはらって、背を向ける。
「斧田は、ずっと耐えてきたんだ。」
平の言葉に、志筑は振り返った。
「そう言えば、指名されてましたね。」
感情を、何とか抑えようと、努力はしているようだ。
すると、いきなり、志筑は、斧田の背後から肩を抱き、斧田の顔を覗き込んだのだ。
「斧田さん」
「?!」
至近距離で、斧田は、志筑巧の顔をはじめて見た。
怒っていても、綺麗な顔だった。
「俺達二人で、完全犯罪の計画たてて、あいつをぶっ殺しましょうよ。」
「??」
「物騒なことを言うな。」
平が、志筑の肩をつかみ、斧田から引きはがして、無理矢理、椅子に座らせた。
斧田は、呆然としていた。
何が起こったのかわからなかった。
今、自分は、何をされたのか、斧田は冷静になる必要があった。
心臓がバクバク鳴り、自分が興奮しているのだということがわかる。
志筑のあけすけな怒りにも驚いたが、何より、自分の肩を抱き、自分の顔を至近距離で覗き込んだ志筑に驚いたのだ。
肩を抱かれた。
こんなことは、おそらく初めてだ。
こんな近くまで顔を覗き込まれたのも初めてだ。
パーソナルスペースを完璧に無視して、斧田にここまで接触してきた男は、彼が初めてだ。
今まで、仕方なく近づく人間はいた。
クラスメートの席や、電車の指定席など、本人の望まない形で、近くにいたものはいたが、こんな形で、斧田に声をかけたものなど、今まで一人もいなかったのだ。
「俺達二人で、完全犯罪、計画して、あいつをぶっ殺しましょうよ。」
そんな言葉に全身が震える。
俺達二人で…
俺達なんて、自分をそのくくりに入れられたことも初めてだった。
斧田は、まだ、怒りまくっている志筑を顧みた。
誰も、斧田のことを見ていない。
斧田は、高揚する自分を押さえられなかった。
自分の表情が、どんなことになっているのか、想像がつかなかったが、すごく興奮しているのだけは自覚していた。
志筑は、平と白川になだめられて、落ち着きはじめていた。
ここにいる薬剤師全てが、江藤の陰険な性格は知っている。
皆、一度は江藤のストレスのはけ口になっているからだ。
「俺が悪かった。入社したばかりのお前をスケープゴートにした。」
と、平が素直に謝った。
「誰かが行かないといけなかった。苦しみを薬局で分散するつもりで、まだ行ったことがないお前を行かせてしまった。悪かったな。」
平に謝られて、志筑は、大きなため息をついた。
「平さんに謝られても…あんなセクハラ、病院じゃ問題にならないんですか?」
「セクハラ?」
平と白川が目をあわせる。
「セクハラというより、パワハラだろ。病院ではしないんだよ。弱い立場の薬局がターゲットなんだ。頭いいからな。人を選ぶんだ。」
「セクハラでしょ。人の身体、べたべた触りやがって…」
志筑は、吐き捨てるように言う。
「?」
「お前、どんな話をしたんだ?」
話の展開に、平も白川も、完全に意表をつかれている。
「勿論、薬の説明ですよ。でも、ほとんど、聞いちゃいないじゃないですか。」
「説教は?」
「説教?何で?」
志筑の不思議そうな顔に、平も白川も更に不思議そうな顔になる。
「他にどんな話をしたんだ?」
「話って、ほとんど、話なんかしてないですよ。あいつ、俺を上から下まで、ジロジロ見て、やたら身体に触ってきて…」
平と白川は、もう一度顔を見合わせる。
「あいつ、ゲイだったのか?」
「最後に、俺の首をなでたんですよ。クソッ。気持ち悪い。」
平と白川は、同時に噴き出した。
「笑いごとじゃないですよ。平さんに言われたから、我慢したんですよ。でなきゃ、殴ってる。」
平は、笑いながら、志筑の肩に手を置いた。
「いや、悪かった。そんなことになろうとは…だが、今後、江藤の担当は、お前な。」
「何でですか!?」
このあと、志筑は、平と白川に、今までの江藤の薬剤師に対する仕打ちを話され、斧田が、どんな仕打ちを受けていたのかを伝えられ、ただ、見つめられて、身体を少し触られるだけの対応が、どれだけ楽なことなのかと、こんこんと説かれる。
斧田が、犠牲になっていたことを平は、うすうす知っていたが、ずっと知らないふりをしていた。
けれども、婦長が、正義感を振りかざしてきたおかげで、平は、見て見ぬふりができなくなった。
どちらにしても、何かの処置が必要だったのだ。
志筑巧の存在は、薬局にとって、平にとっても救世主だった。
「じゃあ、俺のストレスは、どうしてくれるんですか?」
情けなさそうな顔で見上げる志筑に、平は
「臨時ボーナスを出す。」
と、手をうった。
白川も、
「今日は、俺が奢る。飲みに行こうぜ。」
と、志筑の肩を抱いた。
斧田は、その様子を、まだ心の鎮まらない状態で、複雑な想いで、静かに見ていた。