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  作者: K
17/26

斧田の人生

瞬間、爽の視界がグラリと揺れた。

何かが、急速に爽の中に入ってくる。

遠くで、電話の音が聞こえた。

これは、前に経験したことがある。

吐き気がくるほどの、強烈なうねりが、爽を襲う。

めまいをおこした爽は、意識を失った。

意識が浮上した時、爽は、見たことのない光景の中にいる自分に気が付いた。

そして、殴られている自分を自覚する。

まだ、4歳か5歳くらいだろうか。

殴っているのは、自分の父親だった。

見たことのない人たち、見たことのない景色、けれども、それが、自分の父と母だと言うことはわかっていた。

そういう記憶があった。

そして、これは、斧田の記憶だと、爽は気が付いた。

「その目は何だ?!」

怒鳴りつける父親の目は、我が子を見る目ではなかった。

その傍らに、母親の姿を見つけるが、母親は、まだ2歳くらいの弟と赤ん坊の妹を愛おしそうに抱いているくせに、殴られている斧田に対しては、何の感情も見せなかった。

「ほんとに愚図ね。」

斧田の粗相は、彼がテーブルに置かれてあった灰皿をあやまって、ひっくり返したことにあった。

母親は、下の二人が、そのそばに行かないようあわてて抱きかかえ、父親は、自分がそこに置いていた失態を棚に置き、斧田を殴りつけたのだ。

斧田は、両親に愛されない息子だった。

人なつこく、よく笑う弟と妹を人に自慢する両親が、斧田については、その存在を恥じてすらいた。

夜泣きも激しく、人見知りも激しく、寝返りも、歩くのも、話し出すのも、斧田は随分遅かった。

子育ても大変なうえ、普通なら、親子連れには、暖かい声がかかるものなのに、なぜか、斧田と歩く母親に、声をかける人はいなかった。

どこへ行っても、母と子は人の中に入れなかった。

買い物に行っても、公園に行っても、不思議なくらい、母子の周りに人はいなかった。

誰も、近寄ろうともしなかったのだ。

母子は孤独だった。

ノイローゼになりそうな母親を救ったのは、次に生まれた弟と妹だった。

育てやすいうえに、愛想がいい二人は、どこに行っても、「かわいい」と声をかけられ、母親は安堵した。

電車やバスの席を譲られたり、ベビーカーの移動を手伝ってもらったり、斧田と二人のときは、全く、無視されていた、赤ちゃん連れに対する、社会の当たり前の好意の特権を、母親は受けとることができたのだ。

彼女の孤独は、彼女のせいではなかった。

愛想の良くない、常に不機嫌な長男のせいで、下の子が生まれるまでずっと苦しむはめになったのだと母親は知る。

下の兄弟ができてから、母親は、斧田を疎んじた。

父親は、斧田が生まれた頃から、事業がうまくいかなくなっていた。

子育ては、母親にまかせて、会社を立て直そうと、必死で頑張っていたが、久しぶりに家に帰ると、夜泣きは激しく、常に機嫌が悪い、可愛くもない赤ちゃんを前に、母親は、ノイローゼのようになっている。

父親は、家に帰る努力をする。

しかし、斧田は、父親に懐くこともなく、子育てに関わることのできない父親は、どうしても、斧田に愛情を感じることができなかった。

下の子どもたちが生まれるときは、父親も、ノイローゼ気味の母親を気遣い、最初から子育てに協力しようと努力していた。

しかし、下の子どもたちは、良く寝て、良く食べ、そして、普通の赤ちゃんたちのように、誰からも、赤ちゃんというだけで愛された。

父親も、自分に笑いかけ、懐いてくる下の子どもたちを愛した。

斧田は、ほおっておかれた。

あるいは、無視された。

子ども時代に、起こしてしまうミス、水をこぼすとか、コップを割るとか、普通の子どもなら、子どもだという理由だけで許されることに対して、父と母の怒りは爆発した。

物心つくころには殴られていた。

父親だけでなく、母親も、彼を殴った。愛情を込めた殴り方ではなかった。

二人は、斧田を嫌悪した。

弟と妹は、自ら斧田に近づこうとはしなかった。

味方はどこにもいなかった。

学校では、斧田は、いじめられることはなかった。

ただ、誰も斧田に、話しかけなかった。

休み時間になると、子供達は、好きな場所にうつっていくが、斧田の周りにはいつも、誰もいなかった。

前も隣も後の席も、何故かいなくなっていた。

それは、いつものことだった。

バスでも、電車でも、自分の周りには人が一人あくスペースが必ずできた。

椅子に座ると、その隣には、混んでいても誰も座らない。

斧田は、いつも一人の席に座った。暗い学生時代を終え、大学を卒業する斧田だったが、面接には、全て落ちた。

このままでは就職先が決まらない。

外聞を恐れた父親は、知り合いの医師に頼んで、コネで斧田を薬局に就職させた。

薬局での評判は悪かった。

話が聞き取りにくい。

暗くて、不気味。

何を考えているのかわからない。

気持ち悪い。

斧田が、薬を持って、説明に行くと、患者たちは、露骨に嫌な顔をした。

「もういいです。」

と説明を拒否する患者もいた。

斧田は、できるだけ、短い時間で説明するよう心掛けた。

同僚たちも露骨に、斧田と仕事をするのを嫌がった。

去年入社した白川も、斧田とシフトが組まれたときは、ため息ばかりついていた。

そして、薬局の前の総合病院の内科の医師江藤が、そんな斧田に目をつけた。

内科の江藤は、常に新薬の説明を求めたがった。

新しい薬の名前を知ると、それを使うかどうか、検討する前に、薬剤師を呼びつける。

しかし、それは、ほとんど口実だった。

口実だからと、ほとんど調べず、資料だけもって行くと、鋭い質問の答えに窮し、再び訪問しなくてはならなくなる。

江藤は、ただ、薬剤師が困るのを見たいだけなのだ。

薬剤師は、ドクターに逆らえない。

同じ職場であれば、問題になるため、江藤は、問題にならない自分より下の立場で、利害の絡む薬剤師をターゲットにした。

ねちねちと同じ言葉を繰り返し、逆らわない相手に、仕事と関係のない話をし、同意を強要し、常に上の立場から、社会的な説教を繰り返す。

ストレス解消だった。

最初は、薬剤師なら誰でも良かったようだ。

薬局のほとんどの薬剤師が、その被害にあい、斧田の番になった。

江藤は、斧田には近づかない。

少し離れたところに立たせている。

斧田の持ってきた資料を受け取るなり、床を蹴って、椅子を少し後方にすべらした。

しかし、その目は嗜虐的な笑いを含んでいた。

江藤にとって、斧田は、恰好の獲物だった。

斧田の人間的な欠陥を、江藤は、正論として責めることができるからだ。

落ち度のない人間を責めるには、多少の演技や脚色を自分で作ることが必要だったが、斧田には、責める口実が、社会的な常識であることが、江藤を喜ばせた。

斧田の、社交性のなさ、愛想のなさ、目つきの悪さ、話し方、雰囲気、全ては人に好意を持たれない、接客商売には致命的な欠陥だ。

それを江藤は、嬉々として責める。

江藤のストレス解消は、正論であるが故に、更に、激しく、しつこいものになった。

こいつは反撃できない。

こいつには味方はいない。

こいつに対する俺の言葉は、全て正しい。

そう感じてしまう江藤は、若干残っていた理性を吹き飛ばしてしまった。

もはや、ストレス解消以外には他ならない。

昼休みの時間いっぱい、江藤は、楽しそうに、斧田の人間としての欠陥をつき、斧田を侮り、しかりつけ、説教した。同じ言葉は、江藤が飽きるまで、何度でも繰り返された。

江藤は、その快感に酔った。

絶対的な立場から、欠陥のある人間を、限りなく貶める。

心からすっきりする。

自分の中にあるいろんなストレスを、斧田をいじめることで、全て忘れることができた。

すざまじいほどの快感だった。

その日から、江藤は斧田を指名した。

「斧田くんに、資料を持ってきてもらってくれ。」

他の薬剤師は、あからさまにホッとしていた。

斧田ならいいだろう。そういう空気を斧田自身も感じていた。

ドクターと二人きりになったとき、どういう会話が行われているか、それに興味を持つものはいなかった。

おそらく、いじめだと、想像はできるものの、帰ってくる斧田は、行く斧田と変化がなかった。

皆、斧田だから、大丈夫なんだと、考えないようにしていた。

斧田も、人にそのことを話さなかった。

週一の呼び出しが、週二になったり、週三になったりした。

江藤は、ストレスがたまると、斧田を呼びだした。

斧田は、次第に体調が悪くなった。

常に頭が痛く、肩が重い。

吐き気は日常で、時々、トイレで吐いた。

それに気が付いていた薬剤師はいたが、斧田が行けなくなったら、自分がはけ口にされる。それを恐れて、斧田に手を差し伸べる者はいなかった。

そこへ、志筑巧が入社してきたのだ。



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