失踪
あれから、巧の背後に斧田の姿は見えない。
爽は、少し安心していた。
もしかしたら、斧田の身に、何か、好転するようなことがあったのかもしれない。
斧田自身が、何か、気づいてくれたのかもしれない。
このまま、何事もなく過ぎていくなら、それが一番いい。
そして、巧の退院する日が、明後日に決まった。
「パラダイスもおしまいか。」
そう言いながらも、いい加減、退屈していたらしい巧は嬉しそうだった。
母の麻由美は、あれきり来ていない。
「退院のときは、どうする?」
巧は、チラリと爽を見る。
麻由美が来るなら、爽は、バイトを口実に、遠慮するつもりだった。
「お前に頼むわ。」
巧は、あっさり爽を指名する。
あごをしゃくる先には、お見舞いの花やらお菓子、白川が持ってきた嫌がらせのぬいぐるみなどが出窓に並んでいる。
「荷物持ち?」
「俺は松葉杖だからな。」
荷物は持てないと口をとがらす巧に、爽への気遣いを感じた。そして、
「いいかげん、テレビも飽きてきた。」
リモコンをぽんと投げ出しながら、巧は、何か言いたげに爽を見た。
「?」
巧は、少し溜息をついて、面倒臭そうに口を開いた。
「ほおっておけと言ったのは俺だけどさ、斧田さんの生霊って、まだ、俺の近くにまとわりつんてんの?」
危機感がある感じではない。
「それが…」
爽と喫茶店で、実際に会った日が、最後だった。
「体調は?」
「すこぶる快調。」
「いないよ。僕と会った時から、斧田さんの姿は全然見えないよ。」
「ふうん。」
巧は、少し考える。
「どうして?」
「斧田さんが、3日前から無断欠勤してるんだと。」
「無断欠勤?」
「人と交わることはなかったけど、遅刻や欠勤をする人じゃなかったからな。」
「平さんは、何て?」
「今日、白川に、マンションを訪ねさせたらしいけど、留守だったって。大家さんに鍵を開けてもらったけど、いなかったらしい。お前がくるちょっと前まで、斧田さんの家に行った帰りに、白川がここに寄ってきたんだ。」
「…」
何だか、胸騒ぎがした。
「兄貴。」
「ん?」
「もし、斧田さんと接触することがあったら、実物でもいいし、その…」
「生霊?俺には見えないぞ。」
巧が、面白そうに笑う。
「わかってる。眩暈とか頭痛とか、体調が悪かったって言ってたろ? そういう感じになった時でもいい。僕に連絡してくれないか?」
「別にいいけど。どうするつもりだ?」
「心配なんだ。彼は、本当に特殊な人間なんだ。そして、可哀想な人だ。」
巧は呆れたように、大きな息をついた。
「もし、彼自身が来たら、僕が来るまで引き留めて。そして、生霊が来たなら、僕に知らせて。」
「知らせてどうなる?」
「もしかしたら、会話ができるかもしれない。」
巧は口笛を鳴らした。
「生霊とコミニュケーション?」
爽は、首を振った。
「したことないけど…、できる気がする。」
「何でもありだな。」
笑い出す巧だったが、その目は少し心配そうだった。
そして、その夜、巧から電話があった。
「兄貴?」
「それが…」
巧が、めずらしく口ごもる。
「さっき、久々にひどい頭痛がして…」
「斧田さん?」
爽は、慌てた。
「今から行く。」
爽は、財布を取り、上着を羽織った。
「待て。」
巧の制止が聞こえた時に、爽は、目の前に斧田の姿を見た。
「斧田さん?」
白衣は来ていない。
やつれて、力のない目をしている。
思わず、下ろした携帯から、巧の声が聞こえたが、
「あとからかける。」
と言って、爽は巧との電話を一方的に切った。
斧田は、爽の前にいた。
巧に憑りついていた時とは、何かが違う。
生霊じゃない?
「斧田さん?」
もう一度、声をかけてみる。
斧田は、ゆっくり顔をあげた・
その顔は青白く、目にはクマでき、憔悴しきった顔は、いつにも増して醜悪だった。
「助けてください。」
斧田は、爽に向かって、囁くような声で言った。
「僕に?」
斧田は、悲しそうな目をして、爽を見た。
「あなたなら、僕を救える。」
「救えるって、貴方はもう…。一体、何があったんです?」
斧田は、自嘲気味に笑い、そして、
「あなたなら、見えるはずだ。」
と言った。