中編1
「ひらりと揺れる乙女の衣。夢の乙女、夜露と消えん……」
窓から伸ばす指に小鳥が止まる。そっと顔に持っていけば、小鳥は愛らしく小首を傾げた。
「なんじゃ、なにか言いたいのかえ?」
「チ、チチチ」
「うむ、わらわはそなたのように自由には飛べなんだ」
「チチ」
「そうじゃな。そなたのように羽でもあれば、どこぞへと行けるのにのぉ」
愛らしい小鳥に何となく語りかけると、小鳥は何とも首を傾げる。
鳥とはほんに愛らしものじゃ。癒されるのう。
「姫様、小鳥と話せたんです?」
「いやいや、アレは独り言」
「でも、会話になってました」
後ろに控えておるわらわ付の侍女二人が、こそこそ話しておるのう。軟禁状態になってからずっと張り付いておるが、いつもこうじゃ。
一人は王宮に入ってまだ僅かな侍女で名はエリス。この者はほんによくドジをしてくれるが、憎めぬ性格をしておる。
そしてお忍びでちと拝借した、フードつきの外套の持ち主でもあるのじゃ。
亜麻色の髪と目をした侍女で、歳は三つ上の15。歳が近い侍女が欲しかったわらわの希望で、わらわ付となっておる。
貴族の出じゃが、王宮に働きに出ておるので、例外で王立の学園には籍を置いたままで通っておらん。
もう一人は王宮侍女の中でも中堅の侍女で、ビアンカという名じゃ。もう20をとうに過ぎておるというのに、嫁に行かずずっと王宮に勤めておる。
色味の薄い金の髪と、薄い青色の目をした侍女で、この者はわらわが七つの頃よりついておるのじゃ。
こちらもエリスと同じように、王宮勤めしておったので学園には籍だけじゃった。
「のうビアンカ、エリス」
「はい。なんでございましょう姫様」
「鳥さんを見て、お腹がすいてしまいましたか?」
ビアンカは普通じゃが、エリスはほんに独特な感性を思っておるな。小鳥を見て、お腹がすくという発想にびっくりじゃ。
「バジリタ国とはみながいうように、良い国なのかのう……」
かの国はみな良い国だと褒めそやかす。
この軟禁生活のなかで嫁ぐ国について学んでおるのじゃが、どうもしっくりこないのじゃ。
この国のように季節を肌で感じるのはあまりなく、一年を通して温暖な気候。民は穏やかで人懐っこい国民性。ゆえに、隣国に出向くと暖かく接してくれるのじゃそうだ。
現国王は前国王の弟にあたり、前国王が急逝したゆえ他に直系もおらなかったので王弟が臨時で即位したそうじゃ。
前国王には息子がおったが、まだ一歳にもならぬ赤子。ゆえの臨時の即位らしい。
臨時なのはその王弟には子種がなく、国政には関わるものの、王位継承権は放棄しておったからじゃ。
残された王子を導き、愛する国を守るために玉座に座っておる。そう美談として語られておるそうじゃ。
ちなみに、王弟自身が美男子だったゆえ、若かりし頃は令嬢たちにモテておったとか。国政の手腕は可もなく不可もなくじゃそうじゃ。
現在は歳を重ねた貫録で、「ないすみどる」なる属性を持つオジサマで、国民人気が高いご仁なのじゃそうじゃ。これはエリスが話しておったことじゃがな。
「なにか心配なことでもおありなのですか?」
「心配ということほどではないのじゃ。じゃが、どれほどバジリタ国のことを学んでも、わらわには実感が持てぬ。
先日も、かの国から密入国しておった盗賊団が捕まったじゃろう? 良い国なのじゃと言われても、わからぬのじゃ」
「まぁ、実際見てみなければ、分からないことも多いですからね。
盗賊団については、我が国にも存在しておりますから、どうこう言えませんわ」
「それはそうなのじゃが……」
心配というより、不安……そう不安が大きいのじゃ。バジリタ国に行き、そこでやってゆけるのか。歓迎はされるのであろうか。相手はどのような王子なのか。
考えれば考えるほどグルグルと頭が回り、気が重くなっていくのじゃ。
クルリと態勢を変え、二人に向き直る。小鳥は逃げずに指に止まったままじゃ。
「バジリタ国の者と会えば、姫様の心配ごとも解消されるのでしょうが……」
「バジリタの者……」
バジリタの者と会ったことはあるのじゃ。しかし、それは公式の使者ゆえ、気軽に話ができる立場ではなかったのじゃ。
夜会にも招待することはあるが、わらわはまだ12ゆえ顔出しだけで済んでおる。そのため、会話などしたことがないのじゃ。
ゆえに、実質バジリタ国のものと会話などないにひとしい。
「バジリタ……エッジ……」
「はい?なにかおっしゃいましたか?サラエラさま」
「な、なんでもないのじゃっ」
「挙動不審すぎますわ、姫様」
不意に浮かび上がった黒と赤の色彩と、皮肉気な整った顔。その左目じりにつく傷まで思い出し、きゅっと心臓が痛くなったのじゃ。
それが態度にでていたのか、エリスが気づかわしげに問うてくる。慌てて返すも、ビアンカまでも心配そうに眉を下げてしもうた。
「姫様は、先日の脱走劇から変わられましたわ。心境に変化をおこす何かと出会われたのですか?」
「あ、私もそう思います。脱走した時はお転婆なサラエラさまだな~と思っていたんですが、いまは静かなので逆に怖いです」
「エリス!なんじゃ、今のは!怖いとは何ぞ!?わらわだとて、静かにすることくらいあるわ!」
「あ、いつものサラエラさまです!よかったです」
「不敬じゃ!わらわをバカにしおった!」
「はいはい、じゃれるのはそこまでです。しかし、エリスの言葉ではないですが、私もそう思いますわ。
もう12にもおなりになったというのに、庭園の木に登ったり剣を振り回したりしていた姫様が、ここの所静かに部屋におられるのは少々心配にもなります」
「ぐぅ……」
は、反論できぬのじゃ。ビアンカの言う通り、庭の木に登っておったのも剣も振り回しておったのも事実なのじゃ。
しかし、これは理由があってのこと。木に登ったのは小鳥が巣から落ちておったので、元の場所に返してあげたのじゃ。
剣は……憧れの人がおったゆえマネしておっただけじゃ。
フィール・カルビア子爵令嬢は、わらわだけでなく、他の令嬢たちの憧れの的でもあったゆえ、可笑しくはないはずじゃぞ?
あの綺麗な容姿で男装しておるのを一目見れば、誰でも落ちてしまうのではないかのう。
凛々しさと華麗さを兼ね備えておるし、そこらの貴族の息子よりステキなのじゃ。
兄様の補佐としてついておるアルヴィスを介して、わらわと親しいのじゃ!これは密かな自慢なのじゃ!
いまだにわらわの指に止まっておる小鳥を優しく撫で、二人を真っ直ぐに見上げる。
「部屋におるのは、仕方のないことと諦めておるからじゃ。抜け出して家族とお主たちに心配をかけてしもうたからの。
じゃが、わらわは後悔などしておらぬ。この目で民のことを見て、知れたのじゃから。もう、何も知らなかったわらわではないぞ」
「そのようですわね……」
「サラエラさま、オトナになりました」
微笑みを浮かべるビアンカに対し、エリスは泣きまねの仕草で頷いておる。
主に対し不敬もよいところぞ。確か子爵家の出だと聞いたが、カルビア子爵令嬢といいエリスといい、子爵家の者は変わった者が多いの。
「無知で嫁ぐなどしたくはなかったのじゃ。ルエリエ国の姫ともあろう者が、自国のことを知らずにおるなど恥であろう?
それに……わらわは何をするにもお供がおるのが当たり前じゃ。
ひそかに民の暮らしを知りたいと思っておっても、ぞろぞろと供がおってはできなかったのじゃ」
「そうですが、せめて私かエリスを共につけて欲しかったです。
姫様のお姿が見当たらなくて、心臓が止まるかと思いましたわ」
「そうです!街のことでしたら私が案内できましたのに!」
お忍びのことで、二人を心配させてしもうたことは心苦しいが、二人がおっては知識なしで……「王女」自身のままで街は見れなかったのじゃ。自由もなかったのじゃ。
あれは、サラエラ・ルエリエ自身の目で見なければ、ならぬことじゃった。それがあったゆえ、お金の価値も分かり、商売の意味を知れた。
――――そしてエッジにも会えたのじゃ。
またあの者のことを思い出し、気が重くなる。
エッジはバジリタ国のものじゃ。普通の者であれば探しだし、かの国に嫁ぐまでの間にバジリタ国を知るためと理由づけて、傍に置くこともできたのに。
離れることを考えると辛くなるが、傍にいてくれるならばそんなこと、どうでもよい。よいのに……。
なぜあの者は盗賊の一員なのじゃろう。
捕まえた盗賊団にヤツはおらなかったらしいが、それでも族の一員である以上表に出てくることもないじゃろう。
あの出会いは偶然だったのじゃ。あの大通りですれ違った者たちと同じ、偶然出会いすれ違っただけなのじゃ。
「……あ、あれ?またしんみりしちゃいました」
「これは重症ね。街でなにか食べてしまわれたのかしら?」
「ビアンカさんって、時々ヒドイこと言いますよね。意外に、運命の出会いでもしてたりとか」
「姫様に限ってそれはないです。あっても、無邪気すぎて運命とも思ってませんわ」
「……ひ、ヒドイ」
「これも愛です」
侍女二人が楽しげに笑っておるが、何を話ておるのかさっぱりじゃ。
ただエリスの頬が若干引きつっておるの。ビアンカが何か言ったのかのぉ。
楽しく会話しておる二人に割り込むのも気が引け、わらわは小鳥の頭部を撫でる。小鳥の羽根はエッジの耳にあった飾りと似ておる。
それがなんだか悲しくて、けれども少しだけ羨ましく思うのじゃ。
この小鳥はエッジと同じ羽根を持ち、エッジと同じ自由を持っておる。
飛びたいところに行ける自由のハネ。じゃがいつかはもがれるハネ。
――わらわとは違うハネ。誰かこの鳥かごを壊してくれるものはいぬかのう。
はっ、いかんいかん。深く考え込むと落ち込んでしまうのじゃ。
己に喝を入れ、小鳥をそっと指から窓辺に移す。それでも逃げぬ小鳥につい笑みがこぼれる。
この小鳥もエッジ同様、わらわのために少しだけ時間を割いてくれているのかもしれぬな。
「そういえば、サラエラさま。近々バジリタから婚姻のための使者が来られるらしいですよ」
「使者?」
「ええ、婚姻に際しお互いの理解を深めるためだとか。姫様、その使者殿に王子殿下のことを、お聞きになられてはどうです?」
使者が来るなど初耳ぞ。顔合わせの意味もかねて歓迎の席を設けるとは思うが、とうの本人を差し置き勝手に話が進んでおるのが気に食わんのじゃ。
知らず眉間にしわが寄ったのか、ビアンカがわざとらしく咳払いをした。
「ごほん。姫様、突然のことで戸惑いもあるでしょうが、すでに決まったことです。ここでダダなど捏ねないでくださいませ」
「だ、ダダなどこねぬ!しかし当事者であるわらわに知らせぬとは、不愉快になるのじゃ」
「それは仕方がないと思います。姫様はこのお話を頂いたとき、話半分を聞き脱走したのですもの」
「じゃから!その話はもういいのじゃ!そ、そう、今は使者の話じゃ。使者の話はほんとかえ?」
「ええ。三日後には訪れる予定となっております。姫様には、その使者殿のお相手をしていただかねばなりません」
「な、なぜじゃ。いつもは兄様が相手をするではないか」
公式な場では、わらわはただ微笑んでおればよいはずぞ。兄様は王太子ゆえ、両親は国王と王妃ゆえ相手をなさっておるが。
そう不満を申せば、ビアンカは呆れたとでも言いたげに、深々とため息をした。エリスはにこにこと笑っておるだけじゃ。
「今回の訪問は、姫様の婚姻に関することです。ご本人がおらねば、なんの理解もできません」
「それにです、これは絶好のチャンスなのですよ!バジリタ国と国交があるとはいえ、私たちはあまりかの国を知りません。
このチャンスを活かし、王子殿下のことを詳細に知ることができます!
弱みでも握れば、サラエラさまのお立場は確実のものになります!」
「弱み……。エリス、わらわはそんな卑劣な手段は使いたくはないぞ。
『ふうふ』になるのであれば、父様や母様のように、互いを認め合う仲になりたいのじゃ」
両親はわらわと同じ『政略結婚』をしたが、恋物語にあるようなすれ違いや、愛憎劇とは無縁なのじゃ。
お互いを思いやり、尊敬しあえる夫婦なのじゃ。そんな両親をわらわは尊敬しておる。国同士の婚姻を結ぶにしても、わらわもそうなりたいのじゃ。
「姫様は婚姻に現実を見てらっしゃるのか、夢を見てらっしゃるのか分かりませんねぇ」
「ですが、それがサラエラさまです」
「なんじゃ、お主たちは!両親に憧れて何が悪いのじゃ!」
「いいえ、悪いとは申しておりませんわ。国王夫妻は私たちが見ても憧れですかもの。
ただ、ご自身が結婚するというのに、他人事のように冷静に受け止めたかと思えば、突然理想を語ったりと、コロコロ変わるものですから」
「わらわが理想を持って何が悪いのじゃ!」
「悪いとは申しておりませんわ。どうぞかの国に嫁いでも、姫様は姫様のままでいてくださいませ」
目元を緩ませビアンカの綺麗な青い目が少しだけ揺れた。
まるで今生の別れとでも言いたげな言葉と態度に、わらわの心臓がすぅと冷えたのが分かったのじゃ。
「のうお主たちも行くのであろう?なにゆえ、そのように寂し気に笑うのじゃ」
「いいえ。サラエラさまのお供をするのは私と、騎士二人だけです。ビアンカさんは一緒ではありません」
「なんでじゃ!?ビアンカは来ぬのか!?」
「はい。申し訳ありません」
「……理由はなんじゃ?」
心臓が激しくなるのを遠くで聞き、痛む胸を押さえ問う。
幼き頃より傍におり、侍女ではあるが姉のように思っていたのじゃ。当然供行くのだと思っておった。
当時わらわ付の侍女たちは言うことを聞くだけ、世話をするだけで人間味がありはせんかった。
それゆえ、わらわも距離を置き、自然と使用人たちともあまり話さなかった。室内で囲まれておるのも息苦しく、外に出ては居場所を探しておったものじゃ。
そんなわらわに、両親から新しい侍女を紹介された。それがビアンカじゃった。
初めのころは普段通り用事を言いつけ、一人になりたく外へ出たのじゃ。
いつもなら、わらわを見つけた侍女が、ため息交じりに何も言わず控えておるというのに、その時は何から何まで違った。
新しく自分付きになった侍女は血相を変え、近づいてきたかと思えばいきなり怒鳴ったのじゃ。あの時のビアンカには、不敬などという言葉は彼方にいってしまったのじゃろうな。
「あなたが見たいと言っていた本を取りに行っていたというのに、とうのあなたは庭に逃亡ですか!?
しかも侍女の一人もつけずに消えるなど、王女として気構えがなっていません!!
あなたは確かにこの国の王女です。でも、王女だからと我がままを許されるなど思わないでください!あなたのその行動で、どれだけの人間が動いたと思っているんですか!少しは反省なさい!!」
まるで本当に妹に怒っているかのような剣幕に、わらわの思考は止まり、茫然とビアンカを見あげていたのう。
金の髪はぐしゃぐしゃで、侍女の服もくしゃくしゃ。スカートには土もついておった。綺麗な顔には切り傷もあったが、なによりわらわの目を惹きつけたのは、真っ直ぐな青い瞳じゃった。
潤んで今にも涙が溢れそうになっておるのに、眉間にはシワがあったのを今もはっきりと思い出すことができる。
体中が傷や泥まみれになりながら、必死にわらわを探してくれたのだと思うと、何とも言えない感情がせり上がり、わららわは茫然としていたのがウソのように泣いてしまったのじゃ。
生まれてはじめて、本気で怒られ怖かったのもあったが、それよりも自分自身を見てくれる者がいてくれたことが嬉しかったのじゃ。本気で心配し、本気で怒ってくれたのはビアンカが初めてじゃった。
当時、バジリタとは違う隣国――西のエレンジス国が我が国に侵攻し、両親はその対応に忙しく、兄様も王子として両親を補佐しておった。それゆえ、怒ってくれる者がおらなかったのじゃ。
後から駆け付けた騎士がビアンカを拘束し、どこかへ連れて行こうとしていたが、それをわらわが引き止めたのは、わらわにとって当然のことじゃった。
二人はそれが意外だったのじゃろうが、わらわにとってこの者が必要と直感したのじゃ。本気なわがままを言ってのは、きっとこれが初めてのことじゃ。
それからずっとビアンカがついてくれていた。それが。
「わらわの問いに無言かえ?」
「申し訳ありません。ずっと姫様のお世話をしたくありましたが、家の事情で王宮を離れることとなりなした。
……ですから姫様の輿入れが、私の最後の仕事ですわ」
「お主は伯爵家の三女じゃったはず。家の事情で王宮を離れるなど、普通ではないぞ」
「うふふ。姫様は本当にお優しいですわね」
「話を反らすでない!」
「サラエラさま、そんなに悲しまないでください。私がともに行くのはイヤですか?」
「そうではないのじゃ!ビアンカが何かを隠しておるのがイヤなのじゃ!」
いやいやと頭を振れば、ビアンカは「しょうがない姫様ですわね」と微笑んでおる。それがあまりにも優しくて、また胸が痛んだのじゃ。
「姫様、我がままを言って私を困らせないでください。どんな理由であれ、よいではないですか。
ただ一つ、私の我がままを聞いてくださるのでしたら、王宮を去る私のために、最0後まで姫様らしくしてくださいませ。
ここで働けた、姫様のおそばにいられた、その思い出を大切にしたいのですもの」
「じゃから!去るとかいうでない!お主はずっとわらわと一緒なのじゃ!!」
離れるなど許せないのじゃ!!
「あらあら、姫様は侍女の手助けがなければ、何もできないお人だったんですのね。私、知らなかったですわ。
お忍びで出かけて、オトナになったのではなかったのですか?これではお嫁にもらうバジリタの王子にバカにされますわ」
「わ、わらわは何もできなくなどない!」
「けれど、私とずっと一緒にいたいと申しましたわ」
「それは侍女としてではなく――」
「私は侍女ですわ、姫様。侍女はずっと共にはおれません」
「わらわは……っ」
なぜそんなことを言うのじゃ!?わらわはただ傍にいてほしいだけなのに。
幼子が嫌がるように頭を振り続ける。纏められてあった髪が一房落ちてきた。それにも気に留めず、ただ頭を振るだけ。
「姫様。お顔をお上げください」
普段聞かぬ厳しい声が頭上から発せられる。思わず身体が震え、そろりと顔を上げる。
そこには静かに佇む妙齢の女性がおった。ずっと共にいたというのに、初めてであった時のような感覚。
感情をぶつけてきたあの時とは少しだけ違ったが、厳しい目でこちらを見るのは変わらないのじゃ。
「姫様、すでに決定したことです。姫様の我がままで、すべてが台無しになるのです。お控えくださいませ」
「……」
「姫様――サラエラ様?」
無言の抵抗じゃ。わらわにはこれくらいしかできぬ。
真っ直ぐに見上げ、互いに視線が交わる。無言で見つめ続け、先にビアンカが視線を逸らした。
呆れたと言いたげじゃ。彼女は近くに置いてあったカップを銀の盆に乗せ、そっと距離をとった。
「私がいては話が先に進みそうにありませんので、これで失礼します。
使者の話とその他のご用事は、エリスに申し付けくださいませ」
そう言って、ビアンカは部屋を後にしてしもうた。隣は侍女の控室ゆえ、そこにおるつもりであろう。
あとに残されたのは、行き場のない感情が胸にしこりを残したわらわと、なんとも言えない顔のエリスだけ。それと、なぜかまだおる小鳥だけじゃった。
「サラエラさま、どうかビアンカさんの気持ちを分かってください。
ビアンカさん、本当はサラエラさまと一緒にバジリタ国に行きたかったんですから」
「エリスは理由を知っておるのか?」
「いいえ、詳しくは……。ただ、お家が大変なことになっているから、王宮を去らなければならない。だから、姫様をお願いしますって言ってました」
「そうか……」
ビアンカの生家のことはあまり知らぬ。五年ともにおったというのに、わらわは何も知らなんだ。
民のことだけだと思っておった。けれど、それは近しい者にも当てはまることじゃったのじゃな。
「ビアンカさんのことは、もう私たちではどうにもなりません。だから、彼女が安心できるよう、最後に笑顔でお嫁に行きましょう。
このエリス。ビアンカさんの代わりには力及びませんが、微力ながらかの国でもお世話いたします!」
そう言ってエリスはぴっと背筋を伸ばし、声を張り上げる。亜麻色の髪が風にさらされ流れていくのを見つめ、わらわはただ見つめるしかできなんだ。