第二話 自己同一性
まて、まて、まて!
ちょっと待て。
動揺しているだけだ。
深呼吸してと。
「・・・!?」
まずい、ホントに思い出せないかも。
これが噂に聞く記憶喪失・・・。
おいおい、ドラマチックだな。
見知らぬ場所で目を覚ましたら、記憶喪失だったって。
安い映画やドラマか!
って、そんなこと言ってる場合じゃないね。
しかし、こんな経験したことないぞ。
いや、経験していても忘れているだけかも。なにせ記憶喪失だから・・・。
・・・笑えない。
いや、まあ、あれだね。
うん、真剣に考えよう。
ちょっと気合いを入れなおしてと。
俺はその場に正座して、姿勢を正した後、ゆっくりと腹式呼吸を始めた。
物事を考える際、俯瞰して客観的に冷静に思考できるようにするためには、気を整えるという作業が俺には合っている。そして、気を整えるためには、まず腹式呼吸というのが俺のやり方だ。
普段から剣術の稽古の一環として気を整える練習をしているので、こういう状況でも比較的早く整えることができる。さらに腹式呼吸を繰り返し、安定してきたところで、さらに丹田で気を練りこみ、それを身体中に拡散させて・・・・・。
ゆっくりと自分に対して意識を向けていく・・・・・。
澄んだ意識で、思考をめぐらしていく・・・・・。
思い出した。
名前も、一昨日何をしていて、何があったかも。
色々と思い出したよ。
そもそも、なぜ思い出せなかったかが解らないけど。
とにかく思い出した。
ただ、不思議なことに、まるで自分のことではないかのような感覚がする。
人から聞いた話を思い出しているような感じさえするな。
まあ、そんなことは無いのだろうけど。
高坂颯人、25歳、独身、一人暮らし。
10日ほど前までサラリーマン、今は無職、特技は剣道、剣術。
簡単に言えば、それが俺だ。
それで、一昨日の夜、俺は死んだ。
多分死んだ。
そして、今はここに居ると。
10日ほど前に、それまで勤めていた会社を辞めた俺は一昨日も日課の剣術の稽古を終えた後、することもなく帰途についていた。通いなれた駅のホームで、いつものように電車を待っていると目の前にいた女性、これがまた偶然にも知っている女性で。
まあ、正直に言うと、辞めた会社の後輩で、それなりに好意を持っていた相手だったのだけど・・・。
その彼女がいきなりホームから線路に落ちてしまったと。
とっさに身体が反応して、気が付いたら線路に飛び降りて彼女をホームに助け上げてましたね。
それから、まあ、そうですよね。そこにやって来た電車にひかて・・・。
死んだのかな・・・。
なんか、そのあたりの記憶が曖昧だな。
でも、まあ、死んだんだろうな。
走馬灯のように、思い出が駆け巡ったから。
思えば、あまり楽しくもない人生でした。
ごく平凡な中流家庭の一人息子として生まれた俺は、特に語るほどでもない幼年時代を過ごし、小学生になって剣道と運命の出会いをする。それからは剣道の日々。来る日も来る日も剣道に明け暮れ、それなりに腕も上達していった。
高校一年の時、母が他界して、それからは更に剣道に没頭することになる。その結果、高校時代には全国大会で好成績を残し、大学二年の時には全国で準優勝という成績を残した。さあ、来年は優勝だと意気込む俺だったが、大学三年を前にして二回目の運命の出会いをすることになる。
家の最寄駅から三駅離れた場所に、以前から気になっていた剣術道場があった。とはいうものの、今までは剣道に没頭していたから、気にはなりつつも足を運ぶには至らなかったわけなんだけど、さすがに全国準優勝をした後とあって少し余裕ができていたのか、ふと立ち寄ってしまったのが運命だったのです。
今まで見たことも無い剣だった!
剣術道場ということで、剣道とはどう違うのかなどと軽い気持ちで見学に行った俺は目から鱗が落ちまくったね。
その道場は、古流剣術を基にした独自の実践剣術で、真剣を使った居合を始め全てがとにかく実践的だった。
現代日本で実践剣術など使う場は無いだろうに、よくこんな流派が存続していたなと思うくらいに。
そして、その剣術は俺にとって、この上なく甘美で蠱惑的だった!
魅了されてしまった。
見学後、即入門した俺はその日から剣術に没頭することになる。
もはや、真剣を使わない剣道など色褪せて見えるくらいの嵌まりっぷりだった。
今まで抱いたことさえなかった剣道に対する疑問。例えば、面を狙って撃ってきた竹刀を頭を少しそらすことで技から逃れ、こちらの攻撃をするという動作。真剣なら間違いなく死んでいるよなと。真剣なら完全に避けるか、剣で防がないと致命的な傷を負うよなと。
そんな疑念が頭から離れなくなってしまった。
もちろん、剣道とはそういうもので、脈々と流れる武道精神を理解していないわけではなかったんだけど、剣術に嵌まっていた俺には色褪せて見えてしまった。
とはいうものの、剣道も辞めるわけにはいかず、剣術道場に通いながら大学で剣道をする日々を俺は過ごしていた。当然そんな中途半端なことで好成績を残せるほど剣道は甘いはずもなく、三年次の成績は悲惨なものだった。
そんな三年の大会後、母に続いて父が他界した。俺の好きなように、剣道、剣術と習わせてくれ、いつも俺を理解してくれていた父が亡くなった。
そして、俺は剣道を辞め、剣術だけに没頭するようになる。
別に剣道が嫌いになったわけではない。ただ、両親を亡くした俺は、さすがに人生観が変わっていた。自分なりの死生観が生まれていた。許されるなら、一番したい事だけをしたいと。大学時代はそれが許されると、そう思ったから辞めた。
俺は人生を楽しむことに決めた。
軽くなったような気がした。
剣術道場では本当に多くのことを学んだ。未だ修練中の身だが、修得したものは数多くある。
例えば、気を練るという行為。
これは、居合切りの際、刃に目には見えない気を纏わせることで、切れ味を増させ、刃の損傷も軽減させることが可能になるということで、その訓練をしている際に修得したものだ。
そんなことが本当に可能かと聞かれると、強く肯定はできないが、とにかく、刃に気を纏わせるという訓練から得たものは多かったと思う。
切れ味も増していたような気がする。
とにかく多くのことを学んだ。
そして、大学を卒業、就職と人並みの人生を歩み、社会人としてそれなりに生活していた俺は10日前に横道にそれることになる。
会社を辞職。
1ヶ月ほど前のこと、剣術の師匠が不意に旅に出てしまった。今までも何度か旅に出ることはあり、その際はだいたい数週間で帰ってきたものだったのだけど、今回は違った。
俺への指導も一段落つき、後は自分で修練できるだろうから、旅に出る。帰って来るのはいつになるか分からない。半年になるか、1年になるか5年になるか、気分次第だ。
そう言い残し、道場の鍵を俺に託して出て行ってしまった。
ちなみに、その時点で弟子は俺だけだったので、道場は俺専用になった。
両親もいない、他に近しい親戚もいない、恋人もいない、師匠もいない。
大学三年の時と同様の行動をすることに、ためらいはなかった。
そして、仕事を辞めた。
そんな俺が電車にひかれて死んだ、らしい。
うーん、何というか・・・。
真面目に語ってしまったなぁ。
小っ恥ずかしい。
さすがに両親の死や剣の話は真面目に語ってしまうね。
まあ、でも、そんな感じで死んでしまった訳ですよ。
多分ね。
それで、さらに思い出した。
電車にひかれたであろうその後。
眠っているのか起きているのか判らないような、いや殆ど眠っているような状態の中で、直接脳に語り掛けてくるような声みたいなものを聞いたんだ。
『・・・申し訳ない・・・こちらの手違いです・・・』
男なのか女なのか判然としない声だな、などとぼんやり思っていたような。
『お詫びに、選択の自由を与えます。この世界で再生するか、平行世界で再生するか』
再生ってどういうことかなぁ。転生みたいなものか?
『ただし、この世界で再生するには貴方の身体は損傷が激し過ぎるので、重大な欠損を伴います』
転生ではないということかな。
欠損って・・・、いやだなぁ。
『平行世界で再生する際には、こちらの手違いということでもありますので、些少ながら恩恵を授けましょう』
平行世界かぁ・・・。
異世界なのかなぁ。
剣術の修行できるかな?
恩恵あるんだぁ・・・。
『選択しなさい』
師匠もいないしなぁ。
未練ないよなぁ・・・。
平行世界って興味あるかも。
平行世界行ってみようか・・・。
『聞き届けました』
「・・・・・・・・。」
まずい、俺って平行世界に来ちゃった?
いや、いや、いや、ゲームや小説じゃないのだし。
そんな荒唐無稽な・・・。
まあ、ファンタジーは好きなんだけどね。
でも、この世界って現代日本はおろか、21世紀世界でも無いような気はする。
しかし、あの選択肢が本物だとすると、平行世界を選ぶしか無いんでないの。
重大な欠損って何よ?
半身不随とか?
ムリ、ムリ、ムリ!!
選択の余地なしでしょ。
はぁ・・・。
せめて、素晴らしい恩恵下さいよ。
って、待て、待て。
異世界前提になってるし。
んっ?
平行世界だっけ?
まあ、同じようなものか。
「・・・・・」
さて、現状把握を続けましょ。