あの坂道で、もう一度
「風船葛」企画に参加させていただきました。
今でも時々思い出すのは、学校帰りのゆるい坂道と、むせ返るような夏の暑さと、鮮やかに茂った緑の葉っぱ。
だけどどうしても思い出せないんだ。
最後に見た君が、その葉の前で、笑っていたのか、泣いていたのか。
君の後ろで、風船の形をした実が、風にふわりと揺れたのは覚えているのに……。
***
高校二年生の、あの暑かった夏。
部活に励むわけでもなく、バイトに明け暮れるわけでもなく、もちろん勉学にいそしむわけでもなかった僕は、毎日をただ淡々と過ごしていた。
教室で受けるたいして面白くもない授業。休み時間には友達とくだらないことで騒ぎ、気が向けば炎天下のグラウンドで、ボールを蹴ってみたりする。
そして学校が終わると、いつものように校門を出て、途中の交差点で友達と別れ、住宅地の中のゆるい坂道を一人で下る。
毎日同じことの繰り返し。こんな生活があの一年半続くのか……なんて、意味もなくふうっとため息をつく。
狭い道の両側には新し目の住宅が並んでいた。どこの家も競うように、色とりどりの花で飾られている。
そしてその中の一角に、鮮やかな葉の茂る、緑のカーテンの家があった。
「あ……」
いつもだったら素通りするその家の前で、僕は小さく声を漏らした。
どうしてだろう。なんだかすごく胸が騒ぐ。
だけど僕は平静を装うようにして、緑の葉の前に立つ、彼女の後ろを歩いた。
もう夕方になるというのに、汗がじんわりと背中ににじみ出す。
ほんの少しの風が吹いて、彼女の長い髪がさらりと揺れる。
その時僕は、思わず立ち止まってしまった。
緑のカーテンに向かって、スケッチブックを広げている彼女。その真剣な眼差しを、僕は見てしまったから。
「なぁに?」
突然振り向いた彼女が僕に言う。後ろからのぞきこむように立っていた僕は、あきらかに不自然だったらしい。全身からぶわっと汗が噴き出してくる。
「あ、いえ……すみません」
思わず謝ってしまった僕を見て、彼女はおかしそうに笑った。
「これ、見てた? 絵、描いてるの」
そう言って彼女はスケッチブックを僕に向ける。
細い鉛筆の線で描かれていたのは、目の前で揺れる緑の実と、控えめに咲いている小さな白い花。
「う、上手いですね」
バカみたいにそんなことを言った僕の前で、彼女はまたくすくすと笑う。
「風船みたいな実も、小さな花もかわいいよね。人の家のものだけど、勝手に描かせてもらっちゃった」
いたずらっぽくそう言った彼女のことを、僕は少し前から知っていた。
新学期の初めごろから、学校帰りにこの坂道で、僕の前をよく歩いていた彼女。
背筋を真っすぐ伸ばして、しっかりと前を見つめて歩く彼女は、いつもスケッチブックや大きな荷物を抱えていた。
僕はそんな彼女の背中を見つけると、なんだかちょっと嬉しくて、あまり近づかないようにしながら、ゆっくりと後ろを歩いていたんだ。
「あの、美大生……とか、ですか?」
彼女はスケッチブックをパタンと閉じて、僕に答える。
「ううん。美大に入れなかった予備校生」
あ、もしかしてまずいこと聞いた? あわてた僕にもう一度笑いかけて彼女は言う。
「キミはS高生でしょ? 坂の上の」
「え、あ、わかります?」
「わかるよぉ、その制服で。あたしもS高出身だし」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
彼女がいたずらっぽく笑うから、僕も少し笑った。
向かい合って立つ僕たちの間を、夏の風が吹き抜ける。鉛筆を持ったままの右手で、髪を押さえながら、彼女は緑のカーテンを見上げる。
綺麗だな、って思った。夕陽に染まる彼女の横顔が、すごく綺麗だなって……。
「ふうせんかずらって言うんだって」
「ふうせんかずら?」
「そう。あたしも知らなくて、でもここを通るたびかわいいなぁって思ってて、昨日ネットで調べたの」
「へぇ……ふうせんかずら……」
「名前もかわいいよね」
そう言って彼女は僕を見て、幸せそうに微笑んだ。
その日から僕たちは、この坂道を並んで歩くようになった。
僕の学校帰りと、彼女の帰りはだいたい同じで、ばったり会うこともあったし、会えない時は、坂の上でこっそり待って、偶然出会ったふりをした。
「これ、見て」
ある日彼女は、なんだか嬉しそうにスケッチブックを開いた。
「ふうせんかずらの種って、こんな形なんだって」
彼女の隣でスケッチブックをのぞきこむ。
この前描いた鉛筆画には淡い色が付けられていて、その隣のページに種らしきものが描かれていた。
「ハート形の模様なんだよ」
「ふぅん……」
彼女は大発見でもしたような顔つきだったけど、僕はそんなことは、はっきり言ってどうでもよかった。
それよりも、スケッチブックを開く彼女の手と、それを支えるような僕の手がかすかに触れあって、すごくドキドキしていた。
「種が取れたら、この家の人に頼んで分けてもらおうかな」
子供みたいに嬉しそうにそう言う彼女。その隣で別のことを考えている僕。
「ん、どうかした?」
「なんでもない」
彼女がスケッチブックを閉じて、僕も手を離す。立ち止まった足もとから熱さがじりじりとこみあげてきて、なんだか体中が痛い。
――彼氏、いないの?
思わず口に出しそうになった言葉をごくんと飲み込む。
いきなりそんなこと聞いたらおかしいよな?
だけど、ずっと気になっていたんだ。
授業中も、家でテレビ観ている時も、並んで二人で歩いているこの瞬間も……ずっとずっと気になって……。
「あの、さ」
「うん?」
彼女が僕を見てちょっと首をかしげる。
「その種の絵、ちょうだい」
「え?」
「もしかして有名な画家とかになるかもしれないだろ? だからその前に」
「なれるわけないでしょー。へんなの」
彼女がおかしそうに笑えば笑うほど、僕はどうしてだか切なくなる。
こんなに近くにいても、僕には絶対届かない人――なぜか最初から、そんな気がしていたから。
夏休みになると、僕はこの坂道で彼女のことを待った。
予備校に通う彼女は夏休みも夕方になると、この場所へ現れた。
「待っててくれたの?」
「ヒマつぶしだよ」
「ひどいなぁ、もう」
彼女がそう言って、僕の隣でくすくす笑う。
住宅地の緑のカーテンは、最初に彼女と話した時よりもっと伸びて、緑色の実をたくさんつけて、それをゆらゆらと揺らしていた。
夏が、どんどん過ぎていく。
ぐんぐん伸びていた緑の葉が、次第にまばらになっていき、鮮やかな緑色だった実も、茶色く色を変えていく。
少しの間会わなかった彼女は、旅行に行ってきたと言って、僕の前でスケッチブックを開いた。
色鮮やかに描かれているのは、僕の知らない風景。
どこに行ったの? 誰と行ったの? そんなことさえ、僕は聞けない。
「どうしたの? 元気ないね、今日」
「べつに」
彼女は僕の隣で小さく微笑んで、スケッチブックから一枚を切り取った。
「あげる」
彼女から受け取ったのは、ハート形の種の絵。
「そんなので、よかったら」
「しょうがないから、もらっといてやるか」
「かわいくないなぁ、ほんとに」
彼女の笑い声が遠ざかる。手を伸ばして、その細い腕をつかんで、僕の胸に引き寄せれば……何かが変わっていたのだろうか。
「あたしね、引っ越すことになったの」
その声を僕はいつもの坂道で聞く。
それは何の前触れもない、突然の告白だったはずなのに、僕は最初からなんとなく予感していた。
彼女はいつか僕の前から、いなくなってしまうんだろうって――。
「父の転勤でね、一緒に東京に行くの」
暑かった夏の終わり。僕たちの上から降り注ぐ日差しは、まだかなり強いけれど、風はどこか涼しげだった。
「あたし、いつかは東京の大学に行きたかったから……だから……」
「ちょうどよかったんじゃない?」
彼女にそう言って笑ってみせる。
「東京に引っ越せて、ちょうどよかったよな?」
「ん……」
いつもと少し違う彼女の笑顔。
東京……僕の知らない遠い場所。ここからどのくらいかかるんだっけ。
「来年の春にはさ、東京で美大生になってるよ」
「なれたら、いいけど」
「なれるって」
彼女が僕を見て微笑む。
いつもしっかり前を向いて歩いていた彼女なら、きっと夢を掴むことができると思う。
「よかった……な」
僕の声が、夏の終わりの空気に溶ける。
うつむいてしまった彼女の後ろで、風船の形をした実がふわりと揺れる。
僕はさりげなく顔をそむけて、いつものように坂道を下った。
***
あの頃の僕は、何を恐れていたんだろう。
たった二つの歳の差。家と高校を往復するだけの僕と、知らない場所を旅している彼女。
うつむいて、足元ばかり見ていた僕を、彼女はしっかり前を向いて追い越して行った。
すべてに自信がなかったんだ。
カッコ悪くてもいい。彼女のあとを追いかけて、その手をつかんでおけばよかった。
飛行機や新幹線に乗れば、あっという間についてしまう距離が、あの頃の僕には、とてつもなく遠い距離に思えていた。
「あら、今年も来たのね」
少し葉の枯れかけた、緑のカーテンの後ろからおばさんが笑いかける。
「どうも」
道路から、軽く会釈した僕の手のひらに、おばさんは小さな種をいくつかのせてくれた。
ハートの模様がついた風船葛の種だ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
あの夏の終わりから、僕は毎年この家のおばさんに種を貰っている。
ガーデニングが趣味ってわけでもないし、ましてや女の子みたいに、ハート形に興味をそそられたってわけでもない。
どうしてだか、自分でもよくわからないんだけど。
夏の終わりとともに、東京へ行ってしまった彼女とは、もう十年も会っていない。
その間、僕は何回か恋をして、女の子と付き合って、同じだけの別れを経験した。
そして一週間前、僕は偶然、彼女の顔を見た。
本屋で立ち読みした美術雑誌に小さく、本当に小さくだけど、彼女の記事が載っていたんだ。
あの頃と変わらない笑顔の写真と、彼女の描いた絵。それを見て、僕はその場に立ち尽くしてしまった。
彼女の作品には、淡い緑色の風船みたいな実と、白くて小さな花が描かれていた。
ふうせんかずらだ――そう思ったら、心臓がドキドキと音を立ててきた。
落ち着け、落ち着けよ。まさか彼女があの頃のことを覚えているわけはない。
十年前だぞ? たった二か月ほどを、一緒に歩いただけなんだぞ?
あんなに「かわいい」って言っていたんだ。きっとあの実とあの花がすごく好きで、それで描いただけなんだ。
まさか覚えているわけはない――こんな僕のことなんか。
雑誌を閉じて本屋を出た。夏も終わりだと言うのに、太陽の日差しは容赦なく、僕の上から降り注いでいる。
彼女の記事を見つけたのは、偶然なんかじゃなかったのかもしれない。
僕はこんなふうにずっと、彼女のことを捜していたんだから。
「あたしにも、分けてくれませんか?」
突然僕の後ろで声がした。驚いて振り返った僕の目の前に、ふわりと髪を揺らした彼女が立っていた。
「あたしにもその種、分けてもらえませんか?」
おばさんが「いいわよ」と笑って、彼女の手のひらに種を乗せる。
「なんで……」
呆然とする僕の前で彼女が微笑む。
「この種、まだもらってなかったから」
そう言って彼女は、手のひらの上の種を指でころがす。
「かわいい模様だね」
彼女の横顔に当たる夕陽。さわさわと揺れる緑の葉っぱ。夏の終わりのどこか懐かしい匂い。
途端に僕の記憶が、十年前のあの日に戻る。
あの日、最後に見た彼女は、うつむいて小さく微笑みながら――涙をこぼしていた。
「十年ぶり?」
僕の声ににっこり微笑む彼女。
「変わってないね」
「そっちこそ」
でも中身は、少しは成長しているつもりなんだ。
「あの絵、まだ大事に持ってるよ」
「やだぁ、恥ずかしい」
「売れるかな?」
「そんなわけないでしょ?」
照れたように笑う彼女に、あの日言えなかった想いを伝えたい。
「あの……このあと、ヒマ?」
大きな瞳で僕を見て、いたずらっぽく彼女が答える。
「ヒマじゃないけど、付き合ってあげてもいいよ?」
そう言って笑った彼女に笑いかけ、僕はゆっくりと坂道を下る。
いま何してるの? どこに住んでるの? 好きな人はいるの?
聞きたいことはたくさんある。たくさんあるけど……一番最初にこれを聞こう。
――僕のこと、まだ覚えてたの?
彼女は僕の前で静かに微笑む。
「そっちは?」
「忘れるわけないだろ」
あの夏の日、一番好きだった人のことを。
彼女が笑って空を見上げる。僕はその隣で、彼女の横顔を見つめる。
夏の終わりの午後、手のひらの中には、彼女とおんなじ小さな種。
僕はそれを握って前を向く。
今日、僕の気持ちを君に伝えられたら、何かが始まる予感がした。