第一章 最悪の出会い
霜月に入り一段と冷え込んできた京の都。
その中心たる大内裏の一画に立つ陰陽寮。
歳の背が近づいた陰陽寮は忙しい。大祓などの年末行事が目白押しでもはや忙しいなどという生易しい話ではない。家にも帰れず、激務の果てに幽鬼と化した者たちがそれでも仕事に奔走する。
陰陽寮のとある一室。
例にもれず、仕事が積載した室で全員が黙々と筆を動かす中。
ボキッ。
何かが折れる音がし、すでに氷点下に達していた空気が硬直した。
音の発生源は最も上座に用意され机の前に座る人物だ。
若柳を彷彿させる小柄な細身を覆う直衣。きっちりと結われた髪は彼の氷雪の如き美貌をより鋭利に際立たせる。
彼の名は村雨天行。
齢一七歳にて、安倍晴明に続く天才と謳われる少年だ。
そんな彼の手には真っ二つに折れた筆。秀逸な筆跡は無残にも墨汁の海に呑み込まれてく。
「殺すか…殺すしかないな。いや、殺した方が世の為だ」
不穏な独り言と共に漏れる殺気で周囲が震え上がるのを尻目にくっくっと嗤う。
天行の持論は目には目を、歯には歯を。報復は完膚なきまでに、だ。
仕事場で何を、と思うかもしれない。大人げないとも。だが、言おう。このくそ忙しいときに、天行がせっせとこなしている仕事を本来やるべき男が蒸発した。
事の始まりは二刻前。突然現れ、急用があるその間仕事を頼むと言ったきり一方的に姿を消した。一刻内には戻るという話だったのだが戻る気配は今のところない。
砂粒が落ちる時さえ勿体無い時分に、二刻も仕事を放棄する事の罪深さ。何よりその所為で天行分の仕事が遅れている事実に憤慨なんて生易しい。殺意を抱かずして何を抱く。
「ふふふふ。これであの似非敬語爽やか男が居なくなると思うと気分が良いものだな」
普段抑えられている霊力が天行の怒気に呼応して震える。熾烈な波動に、建物自体も鳴動する。
天行の霊力は陰陽寮ぐらいなら木端微塵に吹き飛ばす。故に天行はこの陰陽寮で陰陽師と名乗れるのだ。
「あ、天行殿!!!」
あたふたと慌てふためく中から制止の声がかかる。
陰陽師。
実を言うと陰陽寮に属する陰陽師の中で、陰陽師という役職になれるのはたった六名だ。他の陰陽師は歴生、天文生、陰陽生のどれかに属し、それが役職名にもなる。
陰陽師は特殊役職で、時の陰陽頭が陰陽師に相応しいと認めた才の持ち主に与えられる。天行は陰陽生だったころ、一年で千の妖異を倒した調伏の才を認められ、四人目の陰陽師となった。
「あ、あ天行殿――っ!!」
崩壊を覚悟した悲痛な悲鳴が轟いた時だった。
「……陰陽師の言葉は洒落ではすみませんよ」
天行の練られていた霊力がぴたりと止まる。周りからは歓声が上がった。
「博士! ようやく戻って来てくださいましたか!!」
天行の堪忍袋を破壊した張本人であるが、彼らには関係ない。天行の暴動を止められるならそれはもはや神と仏と同格だった。安堵して腰が抜ける者までいた。
「随分、遅い登場だな。安倍時親殿」
声も無駄に爽やかだ。低く過ぎず、耳に残る。天音はいつの間に開いていた妻戸に絶対零度の視線を投げつける。
そこには三十代半ばの痩躯の男が居た。
安倍時親。
たった三四歳で陰陽博士の地位に付き、安倍吉平の長兄にしてあの有名な安倍晴明の孫の一人。陰陽師としては最高の家系に名を連ねる生きた空気清浄器だ。今とて護符か結界かと思うほど、微笑み一つで室の不穏な空気を一掃していく。
天行は目を見開いた。それは空気を一変させたからではなく、時親の出で立ち、にだ。
「……狩りでもしていたのか?」
と思うぐらい時親はいつも無駄に恰好つけている出仕姿からは考えられないものだった。まず裾などについた泥、烏帽子はきちんと被っているが、髪はやや乱れている。驚いたのは他の陰陽生も同じくらしく、何があったと目が語っている。
「まぁ、ある意味。獲物は私の弟なのですが。これまた野生の猪よりも性質が悪くて大変でした。猪突猛進に見えて以外に頭も働く様で」
時親の弟?
天行は確かにそんな話も聞いた事があったなと思い出す。確かどこぞの貴族の宴の席で相席になった時だ。安倍家事情に露ほどの興味もなかったので忘れていた。
「確か四人いるんだったな」
「えぇ。末弟なんですが、元服したのにも関わらずふらふらしているので兄としては心配でね」
「ほう。お前の弟はお前に似て悪知恵が働き、怠惰な性格の持ち主らしいな」
「不詳の弟ですよ」
辛辣な厭味をものともせず時親の表情は穏やかなままだ。天行はちっと舌打ちする。あっさりと清濁を飲み込む。さすがは狐の血筋だ。
「それで二刻もかかって捕獲した弟はどうしたんだ? 連れてきているんだろう?」
「もちろん居ますよ。少々、愚図るので金縛りの術をかけてありますが」
と言って入ってきた彼の後から大男を担いだ表情の薄い青年が入ってくる。青年は時親の式で、担がれた方が弟かと目をやり、
「それがお前の、弟か……?」
絶句ものだった。信じられず尋ねれば時親はにこやかに首肯する。
「信じられん……。全く似てないではないか」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。なんとか術から抜けようとしているのか、表情は必死そのもの。普通にして居れば精悍な顔立ちはがっちりした身体つきと相まって我を失った熊だ。祖父の晴明も若かりし頃も、二人の父である安倍吉平も時親に似た系統の美男子だ。つまり母方が問題だったのか。
「言っときますが、母上は上品な方ですよ。間違っても奉親と同じにしないでくださいね」
「……なんで考えている事がわかった?」
頭の中を見ていたような間の良さに天行は奉親をねめつける。
「この様な場面には慣れていましてね。名は安倍奉親、我が安倍家の突然変異ですよ」
「そうか。で、そこにいるのはく――じゃなく、奉親殿は何故こちらに?」
熊と言いかけて言葉を言い直す。さすがに失礼だろう。
「彼を陰陽寮の陰陽生にしようと思いまして」
「……安倍家子息なら不思議ではないな」
が、ここうして自分に奉親を紹介する以上、何か裏がある。目で要件を言えと促せば、時親は案の定、とんでもないことを口にした。
「君にこの子の指導をお願いしたいんですよ」
「殺されたいらしいな」
「そう言わずに。ちゃんと陰陽頭からの一筆も頂きました」
抜かりはありません、と袂から取り出した文の筆跡は間違いなく陰陽頭のもの。つまり天行には拒否権など最初から無いのだ。
「あと、奉親は貴方の家でしばらくの間生活させる気ですからよろしくお願いしますね」
「なんだと!?」
「まぁまぁ、落ち着いて」
腰を上げかけた天行を時親は手で制す。動きは止まったが、いきり立つ天行の双眸は下手な言い訳をした瞬間、命の保証はしないと雄弁に語っていた。
「我が安倍家の家訓に可愛い子には旅をさせろとありますし、任務の都合上、夜に動くこともあるでしょうから」
「任務、だと!?」
教育係を押し付けた上に、任務まで任せるのか。
「えぇ。ここに全部書いてありますから。それとこの件が片付くまで出仕はしなくても大丈夫です」
「つまり陰陽師の仕事にこいつを連れて行けてと!?」
陰陽師の任務は基本早期解決が求められる為、出仕を控えることが特例で許される。時親の言う任務は陰陽師用の危険度の高い討伐任務だ。そこにずぶの素人を連れて行け、と無謀極まりないことを言っているのだ。
怒りを通り越し、信じられない。何を考えているのか。そもそもこんなことを許した陰陽頭の頭もどうかしている。
「奉親の体の丈夫さは妖並みですし、本人の希望でもありますから問題ありませんよ」
「ふざけているのか!?」
「至って真面目ですよ。詳しい経緯は奉親に聞いてください。それでは早期解決をお願いしますね」
暗にこれ以上の反論も文句も聞かないと示し、時親は自分の席に戻る。筆を執り、鼻歌交じりに仕事を始めだす。
こうなれば幾ら耳元で叫ぼうが聞く耳を持たないだろう。
喉のすぐそこまでせり上がってきた百万語の罵倒をぐっと飲み込み、天行は仕方なしに立ち上がる。やりかけの仕事は引き継ぎしなくとも勝手に時親がやるだろう。
入口で命を健気に守っていた式の脇を通りながら、
「素戔嗚」
背後に声を掛ければ今まで天行の背後で隠行していた大男が姿を現す。
「場所を移す。奉親殿を運んでやれ」
素戔嗚は無言で首肯し、式から奉親を受け取る。同じように肩に担ぎ、天行の後に続いたのだった。