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山岡再起「喫茶店のある通り」

あれが間違っていた、とは言いたくはない。あの時の私達の全てで、今では青春の思い出の全てだから。明るいキャンパスで過ごした日々よりも、暗い路上や、夏の日差しで燃えるようだった人の波、汗だくに

なりながら、声を荒げ、戦っていた日々に懐かしさを感じるのは、おかしなことだろうか。結局あの人と一緒にはならなかったけれど、この喫茶店に来るたびに思い出す。切なく、今となっては眩しい、あの

日々を。

「押せー」

その日、駅前の広場は平日だというのに人で溢れていた。警官の制帽、白い安全ヘルメット。白と黒のコントラスト。うだるような暑さの中で入り交じる。不思議な感覚だった。いつもならすぐそばの喫茶店で、彼を待ちながら珈琲でも飲んでいたはずだ。それなのに、今日は、怒声と、絶叫で飽和した空間で、汗の饐えた匂いの中で、角棒を振り上げている。サイズの合わないヘルメットがずり落ち、視界を遮るが、それは、些細な問題に過ぎなかった。特別背が高いわけでもない私が、この人混みの中で見るのは、誰だか知らない人間の背中ばかりで、何を見ようと、見まいと、あまり関係がなかった。それよりも、熱狂の渦の中で、その激しさと一体になって、宛ら踊っているかのように、身体を震わせ、何だか分からない法律に怒りをぶつけることが、素晴らしいことのように思えたのだ。私は必死に、前へ、前へと進もうとするが、いくら押しても、女の非力な腕力では、びくともしない。気がつけば、私は、人の波から外れ、歩道の、喫茶店のガラス窓のすぐそばまで来ていた。デモ隊と警官隊の激しさは増すばかりで、拡声器越しに聴こえる声は、その不思議な魔力で、私を人の群れの中に引き込もうとするかのようだった。私は拳を握りしめ、振り上げる。豪猪の様に、振り上げた角棒が四方に伸びるその中に加わることは、それは名誉なのだ。そうして角棒を振り上げると、視界の端に奇妙な集団が見えた。背格好は私と同じ大学生のようだが、輪になり何か作業をしている。足の隙間からチラチラと赤い煌めきが見えた時、私は瞬時に

理解した。

火炎瓶。

最近、どこのデモに行ってもその噂は聞こえてきた。一度は、この目で実際に見もした。赤く、明るく吹き上がる焔。あれが現れると、デモはいよいよ燃え盛るように激しくなり、そして消えていく。終わり

の知らせであり。何か特別な奇跡のようにも思える。私は、気がつけば駆け出していた。その集団までは100 メートルも離れていなかったと思う。それでも辿り着くころには、息切れするほどに、呼吸は激しく、鋭くなっていた。

「あの、それ、私にやらせてもらえませんか」

唐突に声をかけられた青年たちは、キョトンと顔を見合わせていた。それもそうだろう。見知らぬ赤の他人が、急に声をかけてきたと思えば、手を差し出し、よこせとのたまうのだ。それでも、その青年たち、

いまどきの縁の薄い眼鏡を掛けた男たちは、頷き、紐の垂れた瓶を渡してくれた。ずっしりと重いそれは、確かに、火炎瓶のようだった。

「火をつけたら直ぐに投げろ」

「投げたら直ぐに、あの中に入れ」

男は群衆を指さす。

私はただ頷き、瓶をぎゅっと握る。

「ライターはあるか?」

私はポケットからジッポのライターを取り出す。彼が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。

よし、と男たちは頷き、各々瓶をもつ。私によこしたのは彼が使う瓶のほんの一部で、私に瓶をわたした男は、空の手を差し出す。

「うまくやれよ、同志」

私はその手を握り返した。それは確かに大きい、男の手だったが、その肌は柔らかく、女の私と大して変わらない、そんな手だった。私は駆け出す。左手でライターをあけ、火炎瓶に火をつける。ぱっと

燃え上がる焔。火炎瓶から垂れた布はみるみるうちに小さく、黒く煤けていく。私は、大きく振りかぶり……。


窓の外は静かだった。あの時の喧騒が夢だったかのように。私は時折、この喫茶店を訪れては、こうしてぼんやりと外の景色を眺めている。どれだけ時間が過ぎようと、あの熱狂は忘れられはしない。内側が熱く疼くような衝動に突き動かされ、私は。

「何をしていたのだろう」

口から零れる言葉。今になっても分からないままだ。私が何を望み、何に怒りを覚えていたのか。ただただ、拳を振り上げ、叫んだ。あの夢のような毎日。それから、私は大学を卒業し、燃え尽きたように、

日々を過ごした。仕事へ向かう足は重く、満員電車も苦痛でしかなかった。たまに労組のデモを見かけ、懐かしさを覚えもしたが、子供騙しのような彼らに、冷めた眼差しを向けている自分がいるのも、また事

実だった。

私は大人になった。ただ、その現実だけが、冷たく私を襲う。今の夫に出会い、子供を授かり、幸せな生活を享受していても、こうしてこの喫茶店に来てしまう。私はまだ、あの夢から覚めたくないのだろう

か。子供の迎えの時間まで、珈琲をかき混ぜながら、無為に時間をつぶす。昔はブラックで飲んでいた珈琲も、今はミルクを混ぜる。白と黒とが、ゆっくりと溶け合う。陽が傾き、少しづつ店の中も騒がしく

なる。窓際の席も、一つ、二つと埋まっていく。楽しそうに笑顔を見せるアベック。帽子をテーブルに置き、新聞を読み頷く老人。おしゃべりに花を咲かせる婦人会。暗い顔で外を眺める男。それぞれに人生があり、全く違う理由でこの席に座る。そう、私は、そこに座る、誰でもない一人に過ぎない。私は席をたつ。扉を開けると、冬の冷たい風が顔を洗う。喫茶店のある通りには、もう私はいない。


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