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小説

Fによる二度目の不倫

作者: ちりあくた

 F(仮名)の不倫は、これで二度目であった。少なくとも、彼女はそう理解していた。


 彼女は二十四歳の秋に結婚した。お相手は合コンで知り合った、総合商社勤めの未来有望な青年だ。美男子というわけではなかったが、顔の各パーツは線対象に整っており、西洋的な美をかすかに漂わせてもいた。少なくとも、彼女の許容範囲は満たしていた。


 しかし、彼の出世に伴って、徐々に選択の軽率さを思い知ることになる。付き合いでパーティーへ連れて行かれるようになり、夫が自宅に部下を連れてくることも増え、その中で彼女は、多種多様な「上位互換」と出会ってしまった。今の夫が自分に相応しい――彼女はそう思い込んでいたが、「今の」という言葉を無意識に添えている自分には気づかなかった。


 そうして、一度目の機会が訪れた。


 相手は、夫の同期であった。年齢は夫より三つ上。背丈が高く、声はいつも少し乾いていた。髪にはいつもワックスの艶が滲んで、プラスチックのように堅く整っていた。そんな彼の視線が自分に向けられたときの、言葉にしがたい「選別」の感覚を、彼女は奇妙に心地よく思った。


 ……見られている。

 それが、ふさわしくもない優越のような形で、彼女を少しだけ高く持ち上げた。


 関係が始まるまでの時間は、そう長くなかった。必要だったのは、軽い握手と、別れ際に手を離すのがほんの少し遅くなる、その数秒だけである。

 二度目、三度目と会うたび、その「遅延」は長くなり、やがては、どちらともなく提案されたホテルのロビーに、自然と吸い寄せられていった。


 だが、その関係はあっけなく終わった。彼の異動が決まり、送別会の夜、彼女は事務的な連絡だけを受け取った。『今日は来ないほうがいい』と。


 その短い文の行間に、彼女は自分の位置づけを悟った。軽い眩暈とともに、そうであったのだ、とむしろ納得に似た感情すら生じた。酔いが覚めていく途中のような、嫌な冷静さが脳裏にはあった。


 もうこんな感情に呑まれるまい、と彼女は思っていた。

 しかし、二度目の機会は、ほとんど反射のように訪れた。


 相手は近所の喫茶店の店主であった。くたびれた白いシャツに、胸元だけやけに新しいエプロン。カウンター越しに差し出されるコーヒーには、彼の実直さと、どうしようもない諦念が沈殿しているように見えた。


 最初は、ただの暇つぶしだった。夫の帰宅が遅い夜、なんとなく立ち寄った店内には焙煎の匂いが漂っていた。その香りが妙に静脈を撫でるようで、気づけば通う頻度が増えていった。


 関係は、劇的ではなく、むしろ静かに、ひっそりと芽吹いた。気づけば、彼女の視線はコーヒーカップには向いていなかった。


 閉店後に彼が店先の灯りを落とし、鍵を回す。その音が、いつもより一拍だけ遅れた夜があった。遅れた一拍が、かつての「遅延」と同じ意味を持っていることを、彼女は本能だけで理解した。


 しかし、先の反省が後ろ髪を引いていた。


 店主の手元を追いながら、彼女は自分の内側で、細い糸のような理性が、まだ切れていないことを確認していた。前回のように、誰かの都合の「余白」に入りこむのではなく、自分から踏み出してしまう予兆が、今回ばかりは胸の奥でざわついていた。


 その夜。帰る際、彼は店先まで出てきてくれて、ちょうど看板の影になる位置で立ち止まった。風は弱かったが、彼のシャツの裾だけがわずかに揺れていた。


「送りますよ」


 それは、ただの常識が言わせる言葉だったのか、それとも彼自身もまた、何かに揺らいでいたのか。判別はつかなかった。ただ、声の中にかすかな湿り気があり、それが彼女の判断を鈍らせた。


「いいえ、大変でしょうから」


 そう答えながら、彼女の足は微かに震えていた。拒絶の言葉が、拒絶の意図と結びつかない。自宅に向かう一本道を、彼女はゆっくりと歩き出した。背中に視線が張りつくような感覚があり、それが正体のないまま、しばらく尾を引いた。


 ……まだ踏み込んではいない。

 彼女はそう思った。思いこもうとした。しかし、その夜の眠りは浅く、夢の底で、焙煎された豆の匂いがいつまでも鼻にこびりついていた。


 次の機会は、もっと唐突だった。


 冬が近づくある午後、彼女は買い物帰りに店の前を通りかかった。定休日で、シャッターは半分ほど降りていたが、隙間から薄い灯りが漏れていた。


 ……準備でもしているのだろうか? そんな軽い好奇心で覗き込んだその瞬間、内側からシャッターが少しだけ押し上げられた。


「あ……すみません。今日、仕込みがあって」


 彼はそう言いながら、照れくさそうに笑った。その笑顔が、彼女の中に何かを決壊させた。


「手伝い……ましょうか?」


 言ってから、しまった、と思った。声が震えていた。誘惑ではなく、依頼にも似た、妙な弱さがにじんでいた。

 彼は一瞬、目を伏せた。判断する時間が、彼女には永遠にも思えた。


「……少しだけなら」


 その言葉を聞いた瞬間、彼女は悟った。知らない誰かに背を押されるみたいだ、と。これは彼女の中で、より静かで、より深い、ある種の「不貞」だった。


 夫でも、前の誰かでもない。相手の顔すら、もうどうでもよかった。自分の中に空いている穴の形が、ほんのわずかでも変化するのを、ただ確かめたいだけだった。


 店内は、昼の名残を溶かしたような温度で満ちていた。カウンターの奥には、半分だけ開いた麻袋があり、焙煎前の豆が乾いた匂いを放っていた。照明は必要最低限で、影は長く、ゆっくりと重なり合っていた。


「ここを押さえていてもらえますか」


 店主は、まるで独り言の延長のように言った。彼女は頷き、豆を受けるためのステンレスのボウルを持った。手に伝わる金属の冷たさが、なぜだか生々しく感じられた。


 豆が落ちる小さな雨音だけが、静かな店内で規則正しく響いた。店主の横顔には、閉店後の疲れがわずかに浮いている。その疲れが、彼女には強すぎるほどの引力に思えた。


「……いつも、こんな時間にやるんですか」


 問いかけは、会話を求めたものではなく、ただ沈黙に触れずにいたいという願望に過ぎなかった。


「ええ。誰もいないと、集中しやすいんで」


 そう答えた店主の声は、彼女の耳に届く寸前、少しだけ揺れたように思えた。ほんの些細な揺らぎだったが、それが胸のどこか深い部分に落ちていった。


 仕込みは、十分とかからなかった。だが、その短い時間の密度が、冬に向かう外気とは逆に、どこか湿り気を帯びていた。


「ありがとうございました。……助かりました」


 店主は軽く頭を下げた。礼の言葉は事務的だったが、彼の指先はわずかに落ち着かず、作業を探すように布巾を握ったり離したりしていた。


「いえ……私こそ」


 彼女は言った。自分が何に礼を言っているのか、はっきりとはわからなかった。けれど、言葉は自然にそこへ落ちた。


 そのとき、入口の方から風が吹き込み、半端に開いたシャッターがカラリと鳴った。二人は同時にそちらを見たが、互いの顔に視線が戻るまでの時間が、妙に長かった。


「送りますよ」


 再びその言葉が出た。今度は、常識の皮を被る気配が薄かった。声の底に、どこか手探りのような温度があって、彼女は前回より長く黙った。


「……ええ。じゃあ、少しだけ」


 答えた瞬間、胸の奥で細い線が切れた。音はしないのに、確かな断裂だけがあった。


 夜の道は、思った以上に寒かった。しかし、足元から立ち上る冷えよりも、横を歩く彼の気配のほうが、彼女の意識を強く占めた。歩幅は合っていないのに、距離は一定で、まるで誰かがそれを測っているようだった。


「家、近いんですか」

「……ええ。すぐそこです」


 互いに意味のないことしか言えなかった。言葉を重ねるほど、言葉を失っていくような感覚があった。沈黙は、二人の間に細長い湖面のように伸び、踏み込めば割れてしまうのがわかっていた。


 自宅まであと十数歩という地点で、彼女は足を止めた。理由はなかった。止まったから止まったのだとしか言えないほどに、衝動は形を持っていなかった。

 店主も、つられるように立ち止まった。


「……ここで」


 彼女が言うと、彼は「はい」とだけ返した。その返事は、どこか拙く、若い頃に戻ったような声音だった。

 彼女はそこで初めて、彼の顔を正面から見た。明るくも暗くもない、ただの商店街の街灯が、彼の頬に淡く影を落としていた。特別ではない顔だった。だが、その「特別ではなさ」に触れたとき、胸の奥がわずかに疼いた。


「気をつけて帰ってください」


 店主の言葉は、別れの挨拶としてはあまりにも素朴だった。けれど、その素朴さが、彼女を決定的に追い詰めた。


「……あなたも」


 返した声は、思ったより弱かった。

 別れ、彼が背を向けた瞬間だった。彼女の内側で、何かがゆっくりと沈んだ。重みではなく、深さとして沈む感覚だった。


 ……これは不倫だったのだろうか。


 そう思いかけ、彼女は首を振った。

 これは「不倫」という名を借りただけの、もっと別の形をした、より静かで、より埋まらない穴の確認作業なのだ。そう思った。


 冬の風が吹き抜け、コートの裾がひるがえった。彼女はゆっくりと歩き出した。帰路はすぐそこで、灯りも昔から変わらないはずなのに、まるで別の街を歩いているような心地がした。


 その夜、彼女は眠れなかった。夢の底には、焙煎前の青い豆の匂いが、いつまでも薄く漂っていた。


 翌朝、彼女はいつもより早く目覚めた。眠れなかったというより、睡眠という膜が途中で破れ、そこから薄い光だけが入り続けていたような感覚だった。枕元のスマートフォンは、何の通知も示していない。それはむしろ安心であり、それ以上に、言いようのない空虚でもあった。


 キッチンに立ち、水を沸かしながら、彼女は自分でも理解できないほど慎重にマグカップを並べた。夫の分と、自分の分。それだけのはずなのに、昨夜のステンレスボウルの冷たさが、指先のどこかにまだ残っていた。


 湯が沸騰し始めた頃、玄関の鍵が回る音がした。


「ただいま」


 夫の声は、疲れを含んだいつもの響きで、それを聞いた瞬間、彼女の胸に薄いひびが入ったような気がした。夫は靴を脱ぎ、軽く伸びをしながらリビングへ向かった。その横顔は、以前よりもわずかに精悍になっている。彼女がかつて愛おしいと思った面影は、昇進に伴う責務の影にすり替わりつつあった。


「朝早いね。珍しい」

「眠れなくて」


 彼女の返答に、夫はそれ以上深く踏み込まなかった。些細なことだ、と言わんばかりにソファに腰を下ろし、リモコンを探している。その無関心が、優しさでも残酷さでもない、ただの事務のように聞こえた。


 彼女はマグカップを二つ持って、夫の前に置いた。


「ありがとう」


 夫はそう言い、一口だけ飲んだ。コーヒーは昨夜の店主が淹れたものとは違うはずなのに、彼女の舌には、どこか似た渋みが残った。

 沈黙が落ちる。その沈黙の底で、何かがゆっくりと沈殿していくのを、彼女はぼんやりと感じていた。


「今日、帰り遅くなるから」


 夫は淡々と言い、コートを畳み始めた。いつものことだった。彼の多忙は、結婚したあの日から徐々に日常を侵食し、彼女の常識にも深く埋め込まれていた。


「……わかった」


 その声は驚くほど小さく、彼女自身の耳にも頼りなく聞こえた。


 夫が出ていった後、部屋には急に広い空白ができた。その空白に、昨夜の帰路の気配がゆっくりと戻ってくる。彼の歩幅。コートの布が擦れる音。言葉にならなかった沈黙の重さ。


 そして、不意に胸が締めつけられた。


『あれは不倫なのだろうか』。


 問いは再び浮かんだが、答えはまた違った形をしていた。誰かを裏切ったのではなく、自分の中の何かを裏切りかけたのだという実感が、ぼんやりと輪郭を持ち始めた。


 昼過ぎ、彼女は気づけばコートを手に取っていた。意識ではなく、習慣でもなく、その中間のような曖昧な動きで玄関へ向かった。足が外へ出ると、冬の空気が肌を刺す。昨夜の冷気よりも、身体の境界が鮮明に感じられた。


 商店街はまだ半分眠っていた。店主の喫茶店も同じで、昨日と同じようにシャッターは半ばまで降りていた。だが今回は、灯りは漏れていなかった。


 彼女は足を止めた。理由はなかった。ただ止まった。

 シャッターの金属の隙間から、薄く、焙煎前の豆の匂いがまだ残っているような気がした。それは彼の匂いでも、店の匂いでもない、もっと曖昧で、彼女自身に近い匂いだった。


 ……もう来ないほうがいい。


 ふと、そんな声が内側で囁いた。彼女自身の声ではない。誰かの忠告でもなかった。その奥にある、理性より古い領域から生まれた声であった。


 彼女はシャッターから視線を外し、歩き出した。背中に店の影を置いたまま。歩きながら、何かを決めたような気がしたが、その「何か」はまだ形を持たなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしていた。


 ──私はまた、同じことをするだろうな。


 そう思うと、冬の空気がほんの少しだけ重く感じられた。

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