二郎✖️兄貴✖️再会
****
「動くんだ…動くんだ!…二郎っ!…ねねちゃんがっう、動くのっ!!」
久々に会いに来てやったと言うのに…開口一番に兄貴の口から放たれた言葉は「それ」だった。
上手く言えないが…なんかザンネンだ…ザンネン過ぎる…暫く顔を見ない内に…兄貴は何だか、ザンネンな別の生き物に進化…いや変化している様に見えた。 髪を洗っていないのは一目瞭然で、くしゃくしゃな上、一部ゴミが絡んでいる。
おまけに、鼻の穴から鼻くそが覗いているのが見えた。
それを発見した俺は…不快な何かが自分の心をヌルヌルっと浸食される感覚に陥る、
俺は兄貴を気にかけて、兄貴の元を訪れた自分を呪った。
酔いが回って、思考が混濁している状態の俺を…時を遡ってぶん殴ってやりたい。
俺は20行程前の俺自身を、妄想の中でフルボッコにしながら、努めて兄貴に言った。
「…あのさ…せめて…付いている鼻くそを取ってから…話しをしねえ?」
「……うっ…いっ…ああ……」
兄貴はそれだけ言うと、右手の人差し指で鼻をほじり始めた。
俺は向かい合う形で兄貴の前に立っていた。
だから、鼻の下を少し伸ばしながら、伏し目がちに「鼻ほじり」をする兄貴の姿は…ダイレクトに俺の視界に入り込む。
それだけでもかなり不快なのに…兄貴は、弟の俺の心情を一切顧みることなく…一心不乱に鼻をほじっている。
伏し目がちな兄貴の目を見ていると…お母様を思い出してしまった。
兄貴の容姿は、お母様に結構似ていたのだ。
俺はなんだか、複雑な気持ちになって兄貴に怒鳴った。
「せめて…あっちをを向いてやれよっ!」
俺のイラついた声に兄貴がびくっとなる。
「…わ、わかった」
そういうと、兄貴は俺に背を向けて鼻ほじりを再開した。
俺は思わず、舌打ちをした。
なんで、俺はこんな汚いモノを見せられなきゃならないんだ…。
俺がなんで、兄貴に対処しなきゃなんないんだ。
いつもいつも…我慢するのは俺ばかり。
家族の中で、我慢を強いられるのは、いつも俺ばかりだ。
兄貴が不登校になって暫くの事だ。
ある日、お父様がいきなり俺の肩をガッツリと組んで…耳打ちして言った。
>『二郎…お前だけが頼りだぞ?俺の跡取りとしてな…お前は俺に似て頭が良いからな。一郎は残念ながらぜ〜んぶ、お母様に似ちまったみたいだな…20代の頃はお母様のそういう…頭が弱い所が可愛かったんだが…まあ、この話はいい。俺の長男はお前だ。一郎は長女だと思うことにするわ。』
俺はこの頃から既に『我慢役』を担ってきた自覚と不満が芽生えていた。
だからお父様に問い返した。
>『俺に…リタイアは許されないの?…兄貴にはリタイアを認めてるのに?』
すると、お父様は露骨に『何言ってんだ』という表情を浮かべて言った。
>『…リタイアも何も…長女は、スタート地点にすら立てて無いだろうよ!…製造物責任が俺にはあるから…金か出すけどな…アイツは訳分からん生物になっちまったなあ。』
お父様の最後の『ボヤキ』部分は完全に独り言だったが、俺はとても不公平感たっぷりで不満たっぷりだった。
だって、
だって、
だって、それってさ!
罰でしかないじゃん!
見た目も中身もお父様に似た俺は、頑張らなきゃなんなくて…お母様に似た兄貴は頑張らなくても…自分のやりたい放題が許されるって!
何でいつも俺だけ我慢しなきゃなんないんだ!
****
「二郎くん、お兄ちゃんは明日学校に行きたいみたいなの。一緒に行ってくれる?お願いできる?」
学芸会前日の事だった。 俺はお母様に急なお願いを依頼された。
しかも俺にとっては、そのお願いは寝耳に水的なモノだ。
だって…お母様は自分の息子達を基本的に学校に行かせたくないのだから。
それなのに、2日連続で登校させるのか?
更に俺はわかっていた。
「お願い」だなんて言っているけど、それは「お願い」でなく「命令」だと。
今の大学生の俺ならそれが分かるが、当時の小学生の俺はそれが分からなかった。
「なんで?学芸会予行演習の日だけ…兄貴は登校するって話だよね?」
「…主役の子…お兄ちゃんが『好き』って言っていた子で…だから二日間連続で登校したいんだって…お母様は色々あって行くのが難しいから…」
最後の部分だけ言いづらそうに…お母様は小声でもぞもぞと言い、言い終わると愛おしそうな眼差しを湛えた表情で…兄貴を見つめた。
兄貴もまた、嬉しそうにお母様にほほ笑む。
という訳で…この輪の中で笑っていないのは俺だけだった。
笑えるはずがない。
学芸会予行演習の日…つまりは数時間前の話だ。
演目は全て終了し、後は校長先生の話で解散…の間の隙間時間の話だ。
校長先生はやって来るのが遅かったせいか、生徒達は列を崩し、次第におしゃべりに夢中になっていた。
当然、ぼっちの俺は、そんな相手もおらず、独りでぼーっとしていた。
その時、少し離れた輪の女子が、俺をちらり、と見た気がした。
気がしたが、その勘は外れではなかった。
最初はひそひそ声だったその子のおしゃべりはやがて、生き物の様に成長し大きくなっていく。
>『兄貴と手を繋いでいたんだよっ…マジウケるっ!』
>『ちょっと前は年下の男子と、つるんでたよね…同級生の友達いないの?って…マジって思った。』
爆笑の渦が、俺から少し離れた場所で湧く。
コイツらが、今朝の登校時の出来事を噂している事は明らかだった。
くっそっ…聞こえてるんだよっ!これ見よがしにわざわざ言いやがって!
俺は静かな怒りを抑えながら、鬱屈した気分で校長先生の登場を心待ちにし、ひたすらに耐えていた。
仲の良くない連中からの陰口だけなら、まだいい。
それだけなら、俺は耐えられた。
しかし、学芸会演習日である…今朝の出来事は俺の心を抉った。
>『二郎…手を握って…俺、こわい。』
校門に近づくにつれ…兄貴が俺に対して手繋ぎを要求してきた。
当然周囲には、同じ学校の生徒達がいる。
俺は嫌だったから、最初は兄貴の要求を無視した。
けど、兄貴は自分の要求をエスカレートさせ、終いには動かなくなった。
俺は嫌々ながらも…兄貴の手を繋がざるを得なかった。
校門まで後、50メートル…40メートル…25メートル… 俺は早る気持ちで、兄貴と手を繋ぎながら校門に向かって速足で行く。
兄貴は、俺が手を繋いでくれた事で満足したのかどうかは知らないが…速足で歩く俺に対し、文句も言わず歩幅を合わせてくれた。
「「「「「おはようございます!」」」」」
俺は校門をくぐり終えると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。
声をかけてきたのは「あいさつグループ」だった。
持ち回りで、担当される「あいさつグループ」は、隣のクラスが今日の担当だった。
その中に、一美ちゃんがいた。
一美ちゃんは、5人組のあいさつグループの内のひとりだった。
俺は思わず、一美ちゃんを見た。
一美ちゃんも俺を見ていた。
一美ちゃんの表情は、引きつっていた。
それから、侮蔑的な視線を俺に投げつつ、隣の子にひそひそと話をし出した。 それだけだ。
それだけの出来事だ。
でも、俺には心を抉る出来事だった。
****
「俺は嫌だ。」
微笑み合うお母様と、兄貴の間を断つような…つっけんどんな声だと…自分でも感じた。
お母様と兄貴のふたりが、同時に俺の顔を見た。
その表情は、「信じられない」という驚きに満ちていた。
「今朝、それはもうやった。明日はやらない。手は繋がない。一緒にいかない!」
「そんな…どうして、二郎くん」!」
狼狽えながら、月並みな言葉で問いかけてくるお母様に向かって俺は言った。 「前に…上の階に住んでる山本にも言われた!」
「『お兄ちゃんでしょ!って感じて、普通は兄の方が我慢するんだぜ』って」
「山本くんって…数年前迄よく来た子?」
お母様が恐る恐る、俺に尋ねた。
「そうだよ…」 俺は、ぶっきらぼうに応えた。
そうだよ…そうだよ…山本だって…数年前迄は俺の相手してくれたけど…今は相手してくれない。
「『弟の二郎の方が我慢するんだな、お前んチ、変わってる~』って言われた。」 「……ま…なんて…失礼な…子なの。」
「俺も…俺ばっかり…いつもお母様と兄貴のいう事聞かされる。俺は明日はひとりで学校行く。」
「……そんな…失礼な子の事なんかっ」
「俺は…恥ずいんだよ!…お母様が一緒に行けばいい!」
バチンっ!!
その音の音源は俺の頬っぺただった。
俺はお母様にひっぱたかれたと、理解するのに5秒程かかった。
ーーーーーーーーーーー
「ひどいっ!ひどいよっ…お母様!」
俺は、シナを作りながら床に倒れこみ…俺は頬っぺたを押さえる。
「ああっお母様はなんて事をしてしまったのっ!」
お母様が、慌てた調子で俺の頬を撫でた。
「ひどいよっ!今まで、叩かれた事なんてなかったじゃないかっ…観葉植物に小便かけた時だって…壁に穴をあけてしまった時だって…」
「ああっ…許してっ許して、二郎くんっ!」
お母様はひたすら床に伏し、おでこを床に擦り付けながら…俺に『許し』を乞う。
「二郎…二郎っ」 兄貴が俺に声をかけた。
不思議な事に兄貴が俺の名を呼びその声は…俺が今まで聞いた事ない「慈愛」に満ちた声だった。
「二郎っ…お兄ちゃん目が覚めたよ…今までゴメン。」
そして、兄貴は声高らかに宣言した。
「お母様!二郎!!…お兄ちゃんは明日、ひとりで行くよっ…これからは逞しいお兄ちゃんになる!!」
「兄貴…」「おっ兄ちゃんっ!」
俺達3人はお互い抱き合って…感度の涙を…とはならなかった。
なるはずがない。 この程度で自主的に「反省」と「自立」ができるなら…俺も兄貴も平均的な「仲間とつるむ事が楽しい男の子」になっているはずだ。
だけど、現実はどうだ? 俺も、兄貴も『ぼっち』で…同級生からは『マトモ』に相手して貰えない…
ーーーーーーーーーーー
「お母様が…あの先生達からっもう一回『イジメ』られても…いいっていうの?!」
頬っぺたの痛みと同時に、お母様の「キツイ言葉」が俺の心に刺さる。
心と頬の痛みに…俺は、こっちの方が『現実』であると悟った。
「家から学校までは…たったの15分間だけじゃないのっ!…お兄ちゃんにそんな優しさも持てないのっ!…最近の二郎くんはどうかしてるっ!…お母様知っているのよ!二郎くんが『嘘』ついている事!…『給食で好きなモノが出るから学校行きたいなんて嘘なんかついてっ!…献立表見たら、鯖の塩焼きと、タケノコ御飯だった!…二郎くんっ鯖もタケノコも嫌いじゃないっ!その日に帰って来たら、夕飯凄い食べていたし…お母様は変に思ったの!二郎くんは、嘘つくし…家族を蔑ろにするし…どんどん悪い子になってる!…嘘をついてまで…あんな学校なんかに行くなんて…どうかしてるっ!」
感情的に喚き散らすお母様の声を聞きながら…俺は唇をギュっと結んだまま、横目で兄貴を見た。 兄貴は口角を上げ、口を半開きにしながら…俺とお母様の衝突を見ていた。
いや、この劇を『鑑賞』していた…といった方がいいだろう。 だってその時の兄貴の表情は、紙芝居をワクワクしながら、凝視する幼稚園児時代の兄貴と全く同じ顔だったのだから。
****
そんなんでこんな事を思い出しながら…俺は、レンタカーを走らせる。
兄貴は運転できないから、カーナビの事も分からない。
俺より年上なのに頼れない。
レンタカー車内で、頼れるのは…カーナビだけだなんて…俺はその無機質さに泣けてきた。
助手席に座る兄貴は…車窓から北陸の田舎町を物珍し気に眺めている。
呑気なもんだな。
兄貴は変わらない 世間一般でいう『兄』という存在は、弟という存在に対し『うるさくて、ウザい』存在らしい。
弟が何かをやらかそうなら『調子に乗ってんじゃねえ』と言ってきたりとか…それが『兄』のデフォ、らしい。
『平均的な兄』というのは、年下をイジメる存在だと。
低学年の頃に友達していた山本から聞いただけの話だから、偏見はあるのかもしれないけど。
なんにせよ、その『平均的な兄』と比較しても、俺の兄貴は大人しい。 当時の俺は、その事実をうれしく思った。
だが、今はどうだ?
事実、俺は変わらない兄にイラついている。
二十歳を過ぎても、ひとりで旅行する事もできない…いや、旅行する度胸がない、といった方が正確だ。
>『二郎っ!…「ねねちゃん」がいるっ…いろは神社へ…旅行に行きたい!』
いろは神社…そこは、「ねねちゃん」オタクの間では有名神社だった。
物語の中では、「ねね」ちゃんの住む神社名は明かされてない。
が、鳥居の廃れ具合や、鳥居へ辿り着く迄の獣道の描写等、コピーしたかの様にそっくりだと噂になっている。
>『わざわざ、変な時間に電話してきて…やってきた俺に向かって言うのが…先ずそれ!?」
俺は、思わず兄貴に攻撃的に言った。
>『二郎…?』
>『…お母様の事…先ず俺に言うのがっ…』
そこまで俺は言い掛けて…言葉を詰まらせた。
兄貴は…キョトン、とした表情で…明らかに『わかっていなかった』からだ。
馬の耳に念仏。
馬耳東風。
勉強で覚えた諺が脳内にポンポン出てくる。
ひどい。
酷い。
恩知らず。
「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」
「猫は3年の恩を3日で忘れる」
またもや勉強で覚えた諺が脳内にポンポン出てくる。
兄貴は犬猫より酷いじゃないか!
だって、俺は…お父様からしか聞いてない…お母様の事を…。
俺は、期待していたのだ。
兄貴の中に…変化がある事を。
だって、だって…兄貴はパペットだろう。
操作する人間がいないのに…どうして元気に旅行なんかできんだよ!
怒りで小刻みに震える俺を見ても、兄貴は相変わらず「キョトン」としている。
寝不足や、酒のせいもあるのだろうが…俺には急に疲れてきた。
もういい。
もういい。
俺は怒りを自分の原兄貴の言う通りにした。 もう、色々思うところがあるけど…考えても仕方ない。 俺は唯々タスクをこなす様に、兄貴の相手を終えたら…早く、俺の居場所へ帰りたかった。
****




