稲葉光
「いやぁ、気持ちよかったね~!」
朝の六時。通学路にはまだ人影もまばらで、夏だというのに心地よい風が吹いている。
その静けさの中で、俺はすでに羞恥心でいっぱいだった。
藍川は頭をぽりぽりと掻きながらタハハと気まずそうに笑った。
けれど、その笑みは誤魔化しというよりも、むしろ勝者の余裕にしか見えなかった。俺の腕に絡みつく藍川の距離はゼロ。肌が触れあって、体温まで伝わってくる。
しかも肌はつやつや。金色の髪は朝日を浴びてキラッキラ。昨夜の出来事を、逃れようのない証拠として突きつけてくるようだった。
「俺の……初めて……が」
口に出した瞬間、顔が熱くなった。
そう藍川はが凄かった。もう全部。
金色の髪が揺れる視界。頭上には裸電球のオレンジ。舌なめずりと紅潮した頬。
俺はただされるがまま、まるで蛇に睨まれた蛙。
喰われる以外に選択肢は……なかった。
「そんな暗い顔すんなって、あっくん!」
バシバシ背中を叩かれる。ジト目で睨んでも、姫奈はうっとりした笑みのまま。まったく話を聞く気がない。
「誰のせいで……俺は藍川にほぼ無理やり……」
愚痴る俺をよそに、藍川は嬉々として言葉を重ねた。
「まぁまぁ!私は高校生のあっくんとヤれたし、あっくんも美人で綺麗で完璧な奥さんとこの時代から体験できたんだよ?お互い得しかないじゃん!」
「声がデカいわ!」
「ふふ。そんなこと言って最後の方は、君から求めてたじゃん!」
「……ごめん、俺が悪かったから、マジで黙って……」
「愛言葉♡は?」
「姫奈、愛してる!」
「きゃ~。やっぱり君は私のことが大好きなんだね!よしよし」
頭まで撫でてくる。
この野郎~~ッ!
「はっ」
怒鳴るよりも先に気付く。犬の散歩中の老夫婦が、口元を押さえて笑っていた。
俺は、耳まで真っ赤。もう居心地が悪すぎる。胃がひっくり返りそうだった。
「……ま、そういうわけだから、ウィンウィンウィンなわけだよ」
「三つ目のウィンは誰だよ……」
「決まってるじゃん……ここ♡」
藍川が「姫奈」……姫奈がまるで宝物を撫でるように自分のお腹をさする。
「もう少し早く会えるかもね。明人」
「……」
━━━絶句。
漫画みたいに都合よく「妊娠しない設定」なんて、この世界にはない。
責任? 結婚? 一家の大黒柱?
おい待て……俺、まだ自分が何者かも分かってないんだが……?
「……ここまでだね」
「え?」
突然、姫奈が俺の腕をするりと離した。
ちょうど交差点に差し掛かったところだった。赤と青の信号が切り替わる音、車のエンジン音、遠くで自転車のベル。朝のざわめきの中で、姫奈はわざとらしく笑った。けれど、その笑みが何かを隠そうとしているのは、一目で分かった。
「家に忘れ物を取りに行かないとだから!」
軽い調子で言うその声に、ほんのわずか震えが混じる。俺の胸の奥にざらりとした違和感が走った。
「……大丈夫なのか?」
思わず問いかける。
「ありゃ……見抜かれてるのね……」
姫奈は頬をかすかに引きつらせ、困ったように笑った。
その瞳には、安堵と恐怖が入り混じった影。
「大丈夫だよ。今までの経験から言って、━━━まだ殺されないから」
「……分かった」
空気が一瞬、凍りついたように感じた。「まだ」という言葉が、俺の胸に小さな棘のように突き刺さる。
「じゃ、また放課後にね!」
敬礼のポーズ、軽やかなウィンク。
それを残して、くるりと背を向け、駆け出していった。
朝の街に混じって遠ざかっていく背中。
その姿が角の向こうに消えるのを確認して、俺は深くため息をついた。
胸の奥に残ったのは拭えない不安と、ひどく現実的な冷たさだった。
◇
教室では基本的に本を読んで過ごしている。話せる相手がいないわけじゃない。ただ、みんなが別の世界の住人に思えて、俺は勝手に境界線を引いてしまっていた。
廊下に出ると、真ん中には色分けされたタイルが続き、「左側通行」の標識のように生徒を導いている。誰がそんな化石みたいなルール守るんだ、と内心で鼻で笑う。だが教師たちは真顔でそれを強制してくる。
すると、視界の先には姫奈と━━━稲葉光。
「ねぇ、ねぇ!光!私の話を聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる」
「だったら、スマホじゃなくて私を見てよ!」
恋人未満親友以上の空気感。
周りから見れば、羨ましいほど自然な距離感。
一昨日までの俺のなら、微笑ましさに嫉妬を混ぜて眺めていたかもしれない。
けれど。
姫奈の笑顔は完璧すぎた。まるで人形芝居のようで、朝まで俺に向けていた素顔とは別人だった。
姫奈と一瞬、目が合う。
その瞳に一瞬の恐怖と、俺を見つけてホッとしたような安堵が同居していた。
そのまま過ぎる……はずだった。
「━━━おい、待てよ」
「え?」
次の瞬間、胸倉を乱暴に掴まれた。制服の布が喉に食い込み、息が詰まる。
至近距離の稲葉光。
いつもの爽やかな笑顔はそこになく、獲物を値踏みする獣の眼が俺を射抜いていた。
俺を人間として見ていない。動物。物。何か別の対象として見下ろしている。
背筋を氷柱で貫かれたような寒気。心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなる。
「……お、俺、なんかした?」
声が震えた。
「……いや、何でもない。初めて、ここで会ったからさ」
「え?」
意味の分からない言葉。
その一瞬、稲葉の目は獰猛に光る。
次の瞬間、嘘みたいに穏やかな笑顔へ切り替わった。
「あーごめん!マジで、ごめんな!」
「あ、いや……」
「ちょっと、集中しててさ。いや、本当にごめん。八つ当たりとかダせぇな……俺」
頭を掻き、罪悪感を演じるような笑顔。けれど、さっきの眼は幻じゃない。
俺は初めて、稲葉光という人間に生理的な恐怖を覚えた。
姫奈から何を聞かされても、どこか現実味がなかった。
だが今、至近距離で体感してしまった。
━━━こいつは、本当に人を殺す側の人間だ。
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