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藍川姫奈の死に戻り(後編)

◇現在


「━━━って感じ……」


俺は藍川の髪を梳いていた。


未来では、毎日のようにこうしていたらしい。藍川はそれを気に入って、自分のブラシを俺に押しつけてきて、「やって」と強引に命令するのだ。


姿見の前に座った藍川の瞳が、鏡越しに俺の目と絡む。


「相変わらず、上手だね~」


「……他の人にやったことがないから、分からないな」


言いながら視線を逸らす。真正面から見られるのはこそばゆい。


だから俺は黙って藍川の長い金髪に櫛を滑らせることに集中しているフリをして、気持ちを誤魔化した。


藍川の蒼い瞳ふっと曇る。膝に置いた拳に力がこもっていたのが、鏡越しでも分かった。


「自分のやってきたことがすべて台無しにされるのは……何よりも辛いんだよ……」


「……分かる」


「簡単に言わないでよ!……って他の人にだったら言うんだろうね……」


すべてを台無しにされたところから始めるのが俺の人生だ。だからこそ藍川の痛みも想像できる。


それに、藍川の話を聞いてるうちに、俺は理解してしまった。


記憶のない俺は自分探しをする。


━━━そこで藍川と出会う。


特異な体験を武器に物書きを志すが失敗し、手に職を、と思い直して保育士になる。


━━━そこで藍川と出会う。


轢かれそうになった藍川を助けたのは言わずもがな、だ。


未来の俺の行動を今の俺が予測すれば、奇妙なほどにすべての選択に説明がついてしまった。




「それで……藍川はどうしたんだ?」


「え?」


「ループしたんだろ?また俺と━━━って、どうしたんだよ……?」


鏡に映る藍川が、なぜかぷくっと頬を膨らませていた。


「……俺、なんかした?」


「べっつに~!私が大変だったのに、君は他の女の子とイチャイチャ……私、本当に辛かったんだから」


「藍川が何を言ってるんだか、さっぱり分からないんだが……」


「でもさ、結局、私を助けてくれるんだよ……ッ!ズルいよね!何回脳を焼かれたか……もう数え切れない!」


「お~い」


「あ、でも、今のあっくんは童貞だし、今のうちに既成事実を作っておかないとちょっと不味いかも……」


「なんか……不穏な言葉が聞こえた気がするんだけど……?」


「気にしない気にしない。夜が更けるまで、ね」


鏡に映る藍川の声は、なぜか喜色満面。


けれど、その瞳の奥にきらめいたのは優しさとは違う。


まるで獲物を逃すまいとする捕食者の光だった。


◇K周目


泣いた……もう泣きまくった。


それでも、アレに記憶が継承されていることを気取られないよう、私はいつも通りの笑顔を貼りつけるしかなかった。


何度も何度も、殺してやろうと考えた。だが、もしループが発動しなかったら、私はただ人生を棒に振るだけだ。


そして何より、アレがその程度で消えるはずがない。むしろ記憶を持つ私を実験材料にしようとするに違いない。


だから、私は決めた。


「あっくんに、会わなきゃ……」


工場でバイト、いや、保育園で働こう。


あっくんはまた新卒としてそこに現れるはず。


もう一度私たちの幸せを掴むために。


人生をやり直し、再び保育士になった。あっくんは過去の話をしたがらなかったから、どこに住んでるのかすら私は知らない。分かっているのは「記憶がない」ということだけ。


それでも同じように歩めば、必ずまた巡り会える


━━━私はそう信じていた。


カレンダーをめぐるたび、胸が高鳴った。


後一週間もすれば、あっくんに会える。


新しいクラスの担任に決まった。三歳児たちを受け持つことになり、意欲的に準備を進めた。けれど同時に、胸の奥では痛みが疼いた。


もし、あの子が生きていたら、今頃はこれくらいの年齢になっていたのかもしれない。そう考えると、たまらなく切なかった。




「はじめまして、氷山充斗です!」


明るく、張りのある声が響いた。


しっかりアイロンのかかったシャツ。いかにも誠実そうな笑顔。清潔感のある短い髪なのに前髪に混じる白髪だけは隠しきれていなかった。


「いやぁ、今日はいい天気ですね!……あれ?どうかしました?」


「あ、いえ……」


背筋が凍る。笑顔の仮面の裏で心臓が高鳴っていた。


「藍川さんがとても優しそうな人で良かったです!




━━━安心して(・・・・)うちの子を任せる(・・・・・・・・)ことができます(・・・・・・・)!」


その瞬間、視界が揺らいだ。


あっくんの隣に、小さな影。手を繋がれた男の子が、不安げにこちらを見上げていた。


幼い輪郭に刻まれたあっくんの面影。


私の特徴は━━━全くなかった。


別の女との間に生まれた子。


確かに、私は前と同じ行動を選んだはずだ。


それなのに、未来は変わってしまった━━━


「それじゃあ、中に入ろっか……!」


男の子は小さくコクンと頷いた。けれど足を踏み出す直前、名残惜しそうにあっくんの方を振り返る。その仕草までもが、そっくりだった。


私は震える手で子供の小さな手を握り、教室へと導いた。


胸の奥は━━━言葉にできなかった。


分かったことは、あっくんにとって藍川姫奈はもう外側(・・)の人間だということだ。




私は逃げるように保育園を辞めた。


心はもう限界だった。


あの場所にいて、私と血の繋がらないあっくんの子供を見るのは辛かった。


「はぁ……」


ため息が漏れた。


唯一の救いだったあっくんは、今は誰かのもの。


アレに壊され続けた人生、気付けば三十路。


かつて学園のアイドルと呼ばれた私も、今ではその面影を留めていない。


夜のコンビニで日銭を切り崩すように買い物をする。それが今の私の姿だった。


「あれ、藍川先生?」


振り返ると、スーツ姿の男がいた。赤いマフラーに包まれた横顔、穏やかな笑み。


「あ……っくん?」


「『あっくん』?」


「……あ、いえ!氷山さん!失礼しました」


「はは、そんな呼ばれ方したことなかったなぁ」


彼は少し照れながら笑った。昔のあっくんとは違うどこか落ち着いた余裕が漂っていた。


けれど、もう若い頃のあっくんではない。子を持ち、家庭を支える父親としての覚悟が、その仕草や声の端々に滲んでいた。


「これもなにかの縁でしょうし、少しお話しませんか?」


「え、ええ、ぜひ」


彼はコンビニにアイスを買いに来ていた。


寒い時期にアイスを食べるのが好き━━━そんな癖があることを、私はよく知っていたので驚くことはなかった。


イートインスペースに並んで座る。何を話せばいいのか分からない。


ただ、一緒にいたい。


けれど、今のあっくんは既婚者。踏み込む言葉を口にすることは……できない。


「うちの子、人見知りが酷くて……」


「え?」


あっくんが困ったように呟いた。


「だけど、藍川先生に出会ってから、すごく明るくなったんですよ」


彼はアイスをひとなめし、当たり棒を見つけて子供のように嬉しそうに笑った。


その笑顔が、胸に突き刺さった。


「家でもね、『友達ができた』って大喜びで……何より、藍川先生を『もう一人のママ』だって……あ、これ、絶対に家内には言わないでくださいね?機嫌を損ねると面倒なんで」


「……いえ、とても嬉しいです」


あっくんの面影を宿す子だと思えば、心から愛おしいと思えた。ただ同時に、自分と繋がっていない空洞が、どうしようもなく胸に広がっていったのも事実だ。


「……だから、元気を出してください」


「え?」


「俺には何ができるか分かりません。でも、藍川先生が何かに苦しんでいるのは分かります」


困ったように笑うその顔に胸が熱くなる。


「うちの子は藍川先生のおかげで救われました。その恩人が辛そうにしているのなら、俺で良ければ支えになります」


「━━━」


「……ただ、家族を裏切ることはできません。だから、中途半端になるかもしれませんが、俺にできることがあれば何でも言ってください」


ズルい


ズルいよ……


本当は今すぐ抱きしめて欲しい。


愛してるって言って欲しい。


だけど━━━


「……そうですねぇ……氷山さんは、このコンビニにはよく来るんですか?」


「ええ、帰り道に。妻に隠れて甘い物を食べるのが……ちょっとした趣味でして」


当たりのアイス棒をひらひらと見せて、少年のように笑った。


「……じゃあ、この時間に、私待ってます」


「え?」


「私の話を聞いてください……十分、いえ、五分でいいので」


「……それでよければ」


あっくんはふっと気が抜けたような笑みを見せた。


あっくんは今、確かに幸せだ。その生活を壊すようなエゴは、私にはできない。


ただ━━━そばにいられればいい。


彼が別の人と幸せになっても、彼が笑っていてくれるなら、それでいい。


私は、思い出を抱いて生きていこうと決めた。







一年。


そんな秘密の逢瀬を続けた夜、目を開けると、そこにあったのは見慣れた天井だった。


━━━また、ループが始まった。


◇S周目


「ループして良かったかもしれない……」


そう思った自分に、私は驚いていた。


あっくんが別の女と結ばれるのは……やっぱり辛かったみたいだ。


「今回はしっかり捕まえないと……!」


そう誓い、私はまた工場でバイトを始めた。心を殺し、ただ彼に出会う日を待ち続けながら。


「それにしても、あっついねぇ!」


夏の照りつける日差しに手をかざす。何度繰り返しても、この季節だけは慣れることがない。むしろ未来を知っている分、これからさらに暑くなるのを分かっているぶん、なおさら堪えた。


私はコンビニでアイスを買い、歩きながら頬張った。暑い日のアイスは格別で、ほんの一瞬だけ心を和らげてくれる。


歩道橋を渡る途中、向こうからベビーカーを押す親子がやってきた。母親らしい女性が笑い、父親が日避けを覗き込みながら談笑している。赤ん坊の声が弾んで、二人の笑い声に溶けていた。




「……何でよぉ」




胸が軋み、視界が滲む。帽子を深く被り、涙が零れないよう必死に隠した。


このループでは、あっくんと必ず結ばれるはずだった。そう信じて生き直してきたのに━━━彼はまた、別の女と並んで笑っている。


しかも、前の女とは別の女だった。


けれど、あっくんの表情は前回と同じ。


隣にいるのが私でなくても、変わらず幸福そうに見えた。


その幸せを壊す資格なんて、私にはない。


そう思い、一歩横に身を退いて道を譲ろうとした。


その瞬間、背後から来た通行人にぶつかられ、体が揺れた。


「え?」


欄干に肩をぶつけ、そのまま反動で後ろに。


空が反転し、世界が逆さまにひっくり返った。


視界に映ったのは、空を走る高速道路。車の群れが、まるで空を切り裂く獣のように轟音を響かせていた。


奈落に吸い込まれる感覚。


━━━落ちる。


そう確信した瞬間、


「あっぶね!」


腕をがっしり掴まれた。皮膚が焼けるほどの力で握られ、肩の腱が悲鳴を上げた。


「ぐっ……!」


地面に転がるように引き戻され、肺から空気が一気に吐き出された。


ふと、恐る恐る下を覗けば、車が何事もなかったかのように走り抜けていった。


そのタイヤは、私の帽子を無惨にも轢き潰し、同時に落ちたアイスはどろどろに溶けて、黒いアスファルトに沈んでいった。


「はぁ……はぁ……大丈夫、ですか?」


肩で荒く息をしながら、私を見下ろすあっくん。


手の平から、まだ熱が伝わっている。


「腕、とか、どこか痛いとこ、あります?」


必死に気遣う声。


私は何も返せず、ただ見つめた。


「あの、平気ですか……?」


━━━ズルい。


どうして、そんなに優しいの。


━━━ズルい


どうして、そんなに格好いいの。


━━━ズルい


関わらないように。


逃げようとしたのに。


何で……何で……また私の心を奪っていくの……


「ズルい……よ」


「え?」


「なんで……!なんで……ッ、私を置いて……幸せになるの……!」


「え?あの!?」


理性も、誇りも、全部崩れ落ちていた。涙に濡れた顔のまま、私はあっくんに抱きついた。


背後で━━━奥さんらしき女性が茫然と立ち尽くしていた。


あっくんは両側から引き裂かれるように戸惑っていたが、私は何も見えなかった。


もちろん、後で謝った。


「死ぬかと思った」と言えば、あっくんは「それなら仕方ない」と納得してくれた。






瞬きをしたら、目の前には見覚えのある天井があった。


◇∞周


何度━━━何度ループをしたのだろう。


どの世界線も、一つとして同じではなかった。


変わらないものがあるとすれば、それはあっくんの存在だけだ。


どんな姿であっても、どんな立場であったとしても。


私は必ずあっくんに出会い、支えられた。


たとえ、あっくんの隣にいるのが、私じゃなくても。


別の最愛の人がいても。


過去を詮索する気もなかった。


話したがらないというのもそうだけど、絶対に会えると確信していたから。




「お~い、姫奈」



無邪気さを感じさせる絶望の声音。


━━━アレが私に再び興味を持ち始めた。


そして、また、殺される日々が戻って来た。


「う~ん、違うか」


デートの最中に。


「これでもないか」


水族館の暗がりで。


「う~ん」


映画館の座席で。


「見つかんねぇなぁ」


学校の授業中に。


いついかなる場面であっても、アレは唐突に私の頭を潰した。それは雷鳴のように一瞬で、そして何度でも繰り返された。


もう、何度、最後の夏をやり直したか分からない。





早朝、私はアレのために、弁当を作る。


「━━━不味い」


わざと砂糖と塩を取り違え、塩辛くする。


わざと包丁で指を切り、血をにじませる。


━━━料理が下手だけど、必死に頑張っている風を演じるために。


社会人を経験した私が、そんな凡ミスを繰り返すわけがない。それでも壊れた寸劇のように、下手なアピールを繰り返す。


心なんて、もう籠っていない。


形だけをなぞり続ける、人形芝居。


投げやりだった。


何でもよかった。


どうでもよかった。


それでも━━━


唇が震える。


胸の奥から、どうしようもなく零れ落ちる声があった。





「助けて……あっくん……」


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