未来の━━━
「どうぞ。つまらない部屋だけど」
「わ~、ここが高校生の時のあっくんの部屋なんだね~……って、おい」
「どうかした?」
俺の部屋は1LDK。ごく普通の間取りだが、生活感は壊滅的だった。
リビングには大きめのソファーと四角いテーブルが置かれ、壁一面に作りつけの本棚。そこに詰め込まれた本はジャンルを問わず、背表紙の色がパッチワークのように混在している。
さらに奥の一室━━━応寝室と呼んでいる場所にも、やはり壁一面の本棚。そこには勉強机が鎮座し、ほこり一つない。
「もぉ!やっぱり掃除できないんだね!」
藍川が呆れ顔で声を上げた。
彼女の視線の先には、洗濯物の山。洗ったはいいが、干すのが面倒で部屋干しにし、そのまま山に積んでいる。畳むという発想は存在せず、必要な時にその山から直接引っ張り出すのが俺の生活スタイルだ。
キッチンを見れば、カップラーメンの容器やコンビニ弁当の残骸が散乱。空きペットボトルや袋ゴミもあちこちに転がっている。
そして極めつけは、床に散らばる大量の本。
ジャンルは無秩序。政治や経済、哲学、自己啓発……
けれど、ラノベや漫画が大半を占めている。特に高校生が主人公の作品は多く、俺にどう生きるべきかを疑似的に教えてくれる大事な教科書でもあった。
そんな惨状に眉をひそめつつも、藍川は手を止めない。しゃがみ込み、散らばった本を一冊一冊丁寧に拾っては、本棚に戻し始めた。
「あの、勝手に片付けられるのは困るんだけど……」
「絶妙な配置においてあるから片付けるな。後で読むためにあえて転がしてる。……昔から、そうやって言い訳してきたけど、あっくんの悪癖だよ」
俺が言おうと思っていた言葉をそのまま吐かれて口を噤む。ジト目で睨まれ、反論の余地がなくなった俺は静かに黙り込んだ。
「それより、汗かいたでしょ?お風呂でも入ってて」
「いや、俺はシャワーじゃなくて、お湯に浸かりたい派なので」
お湯に浸かることで、疲れが芯から抜けていくのが好きなのだ。そこだけは譲れない。
「だからお風呂って言ったでしょ?はいは、その間に台所のゴミをまとめておいて。沸く頃には丁度いいと思うからさ。本の方は私がやっておくね」
俺は自分の本を誰かに触られるのがあまり好きではない。
「俺が、本を……」
「いいから。邪魔」
「……俺、家主なんだけど」
仕方なく、俺は給湯ボタンを押し、渋々台所へ向かった。三角コーナーの生ゴミをまとめ、空き容器を袋に押し込みながら、心の奥でため息をついた。
ちらりと、後ろを振り返ると━━━
「♪~」
藍川が片腕に山ほど本を抱え、もう片方の手で器用に棚に差し込んでいた。まるで、自分の部屋を片付けているような自然な仕草を見て、俺は深くため息をついた。
◇
シャワーを浴び終えると、俺はゆっくりと湯船に身を沈めた。
「ふぃ……」
藍川に言われた通り台所の片づけを終えると、ちょうど風呂が沸いていた。湯船はいい。一日の疲れが、熱に溶けるようにすっと消えていく。湯気が視界を白く曇らせ、頭の回転を緩めていく。普段は考えすぎる俺の理性を、一時的にでも切り離してくれる唯一の時間だった。
その瞬間、ぱちんと、電気が落ち、浴室が闇に包まれた。
「ん?電球が切れた……え?」
曇りガラスの向こう、ゆらゆら揺れる影。それは異様に美しい曲線美を描いていた。
「お邪魔しま~す」
……まじか
扉が開き、湯気に差し込む廊下の光を背にして、藍川が姿を現す。闇に溶け込むはずの金髪は水滴をまとって煌めき、まるで宙に舞う黄金の粒子のようだった。
すらりとした脚、腰の曲線はしなやかにくびれ、背中から尻にかけてのラインが浮かび上がる。その大きな乳房は動くたびに扇情的に揺れる。
そして、双眸は澄んだ青。暗闇の中でなお、宇宙に浮かぶ地球のように鮮烈な存在感を放っていた。
あまりに蠱惑的で、目が吸い寄せられる。だが、必死に理性を総動員し、俺は顔を逸らした。
「な、何で……入ってくるんだよ!」
「私も汗かいて気持ちが悪いし、一緒に入っちゃえばいいじゃん!」
「そういう問題じゃないんだって……ッ!」
俺は浴槽の隅に逃げるように丸まり、壁の方を向いて、無意味にシミを数えてやり過ごそうとする惨めな姿勢。
そのとき、ちゃぷんと水音が響く。
藍川の足が湯船に沈み、波紋がゆっくりと広がって俺の方へ押し寄せてくる。
「年頃の男子と女子が一緒の空間にいるのは不味いっていうか……」
「あっくん、可愛い!まさか照れてるのかな~?」
「俺の意図を汲んでくれ!」
「だから、汲んでるじゃん。……えい」
「……ッ」
次の瞬間、背中に押し当てられた。大きく柔らかな感触が、二つ。圧迫されるような弾力に、背筋がびくりと震える。
藍川の体温が、じわじわと背中全体に広がっていく。彼女の豊かな胸の曲線、細くしなやかな腕、くびれた腰が湯を通して俺に密着し、形をなぞるように伝わってくる。耳元では湿った吐息がかかり、熱いのか冷たいのか分からない感覚が皮膚を撫でていった。
「どう?嬉しい……?」
「い、いや、別に……」
「好きだもんね~」
「嬉しいって言ってないんですが!?」
嘘です。
こんな状況を「嬉しくない」と言える男子が、この世にいるはずがない。
藍川は俺の背に頬を寄せ、くすりと笑った。その声が甘く耳をくすぐった。
そして、ゆっくりと俺から離れていった。
「いやぁ。ごめんね。また、あっくんに会えたら嬉しくなって、色々してあげたくなっちゃってね」
「知らない……」
“色々”の内容が頭をよぎったが、俺はあえて言葉を飲み込んだ。想像するだけで、余計に動揺しそうだったからだ。
「……自分の記憶がないことを知られるのが怖いんでしょ?だったら、ここが一番秘匿性が高いと思うよ」
「……なるほどな」
冗談交じりで言っているようで、その実俺への配慮も含まれているのだろう。
「それより、こっち向いてよ。せっかく明かりを消したんだから。照れ屋なあっくんのためにさ」
「お気遣いどうも。だけど、この体勢で大丈夫だから」
俺は背を向けたまま振り向かない。自分から視線を送るようなことはしない。そう自分に言い聞かせた。
「そう?それなら、また抱き着きながら耳元をくすぐる声で話さないといけないね?もし、聞き洩らされちゃったら大変だしぃ?」
「……ッ」
挑発するような声音に、心臓が跳ねた。理性が警鐘を鳴らすのと同時に、抗えない衝動が背を押した。
振り向くとそこにいたのは、髪を下ろした藍川だった。
金色の髪は湿気を含んでしっとりと肩に張り付き、湯気に霞む浴室で淡く輝いている。肩まで浸かった藍川は体育座りをしており、膝を抱えた姿勢が絶妙に前身を隠していた。
━━━それが逆にエロいんだけど……
湯船から覗く白い膝頭。肩先から鎖骨にかけて覗く滑らかな柔肌。
湯の温度よりも、藍川が放つ熱気の方がはるかに強く感じられ、俺の頬に熱が溜まる。
藍川は俺を見つめ、にこりと無邪気に笑った。
その笑みが、浴室の暗がりを照らす月明かりのようにまぶしく思えた。
「いやぁ、あっくんと一緒にお風呂に入るのも何年ぶりだろうね~」
藍川は湯気に包まれながら、にこにこと屈託のない笑みを浮かべて俺に告げた。肩まで湯に浸かり、濡れた金髪を背に流したその姿はあまりに自然で、裸の男女が同じ湯船に入っているという事実をまるで意識していないようだった。
━━━いや、本当に慣れているようにさえ見える。
何度も何度も経験したような……
「……俺にはその記憶はない」
「ああ、そうだったね。そう、だったね……」
明るく響いていた声が、徐々にしぼんでいく。藍川は目線を落とし、湯船の中に身を沈める。小さな泡がぶくぶくと浮かび上がり、すぐに消える。
その仕草と沈んだ横顔に、ほんの一瞬だけ、藍川の寂しさが滲み出ていた。
「まぁ、仕方ないよね」
藍川はすぐに顔を上げ、ぱっと笑みを取り戻した。
「思い出はまた二人で作っていけばいいよ」
その無理に明るさを繕うような笑顔でさえ、俺には眩しかった。
湯気越しに揺れるその仕草、何気ない一挙手一投足━━━すべてが目を奪う。
俺は思わず直視しそうになる自分を抑え、水面に映る波紋を凝視した。
「藍川は……未来で俺と出会う、って言ったな……?」
「うん」
その返事は、曇りなく、迷いがなかった。
「信じられないだろうけど、本当なんだ。だって、あっくんの記憶がないことを、私が知ってる理由にならないでしょ?」
「まぁ……」
確かに、今までの言動や仕草は、ただの推測で説明できるものではない。全部、長い時間一緒に過ごしてきた者しか知り得ないものだ。
「それで、俺たちの関係は……?」
「夫婦」
藍川は一切の迷いなく、きっぱりと言い切った。
その言葉自体は予想していた。
裸同然で同じ湯船に浸かっているのだ。ただの他人で済むはずがない。
けれど━━━
「……ある時は、親友」
「え?」
「ある時は会社の同僚」
「いや、あの━━」
「上司と部下。……逆もあったかな」
「━━━」
「客と取引先、カフェで談笑するだけの間柄、競合他社のライバル同士……思い返してみると、色々な形で繋がってたんだよね~」
愛おしそうに指を一本一本折りながら、思い出を数える藍川。
その無邪気さに反して、俺は絶句した。現実感が崩れていく。
「だけどね━━━」
藍川の声が柔らかく響く。
「どんな未来でも、どんな関係であっても。あっくんは、必ず私を助けてくれたの。だから……大好き」
その笑みは夏の向日葵のように眩しかった。暗い浴槽に咲く一凛の向日葵。
「私たちは、何度も、何度も……たくさんの未来で出会うんだよ」
「━━━」
言葉を失った、俺に藍川は続けた。
「……私は、高校二年生の夏休み前から、過去をやり直してるの」
「過去を……やり直、す……」
まるでラノベでよくある“やり直し”の物語。だが今、目の前の藍川の口から出てきた言葉は、冗談ではなかった。
次の瞬間、藍川の瞳から、ふっとハイライトが消えた。真っ青な唇が小刻みに震え、両腕で自分の身体を抱きしめるように覆い隠した。
「おい……大丈夫か?」
「あ、え、と。平気、だよ」
強がるように笑って見せるが、その顔は初めて出会った時と同じだった。吐き気を堪えるような、えずきそうな表情。
「ねぇ、あっくん……」
「何?」
藍川はふいに話題を変えた。
「過去をやり直す系の話って、よく読んでるでしょ?」
「……まぁ」
俺は記憶を持たない分、過去をやり直す物語に強い憧れを抱いていた。記憶喪失の俺がやり直すなど可笑しい話ではあるが。
「じゃあ、問題。私はどうやって過去に戻ってるか、分かる?」
「……」
物語において、時間を巻き戻す時のトリガーは決まってる
「藍川が、死ぬこと……?」
「正解!流石だね!」
藍川はぱちぱちと拍手を送ってきた。けれど、声のトーンは次の瞬間、底へ沈んでいく。
「そして、その死の原因は……稲葉光」
熱気を含んだ湯気すらひやりと冷たくなり、浴室の空気が一気に張り詰めた。
「私はね。未来で━━━稲葉光に何度も殺されてるの」
その名を口にすると同時に、藍川の瞳が硬く震えた。
「しかも……あいつも、時間が戻るたびに記憶が継承されてるの。何かを探すみたいに、何かを求めて……未来を少しずつ、少しずつ変えながら……ッ」
藍川の指が湯面に沈み、波紋がじわりと広がった。声は震え、呼吸は荒かった。
「私は、もう死にたくない……!あいつに殺されるのは嫌!」
声が悲鳴になる。
「血で窒息しかけたり……胸の真ん中を刃物で抉られたり……頭を鈍器で何度も何度も殴られたり……もう、あんなの、たくさん……ッ!」
藍川の絶叫が、浴室の壁に絶叫する。湯気に揺さぶられ、視界が歪んだ。
次の瞬間、藍川は一気に俺へと身を寄せてきた。
「だから、あっくん……私を助けて……ッ!」
次の瞬間、俺の手が強く握られる。水しぶきがぱしゃりと跳ね、熱い雫が顔にかかる。照明の落ちた浴室で、藍川の金色の髪が水滴を反射してきらめき、半ば露わになった肢体が湯の中で震えていた。