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慟哭

俺━━━氷山充斗(ひやまあつと)は高校入学と同時に記憶を失った。


気が付いた時、そこは見覚えのないアパートの一室だった。


薄暗い天井、安っぽい蛍光灯、壁に掛けられたカレンダー。整った家具や、入学準備を終えたはずの制服まできちんと揃っていて、まるでずっと前からここで暮らしていたかのように整えられていた。


俺には家族がいない。親類がいない。友人すらいない。戸籍や住所は確かにあるのに、この世界に俺を「知っている」と言える人間は誰ひとりとして存在しなかった。


そして俺自身も、誰の顔も思い出せなかった。


知らないのに、知っている。


見たことがないはずなのに、懐かしい。


空白と既知が絡み合う奇妙な感覚に、俺は次第に追い詰められていった。


何の痕跡も歴史もない人間。


何の痕跡も歴史もない人間。過去を持たず、ただ最初からここに置かれただけの存在。プログラムされた人形のように、知識や常識だけを与えられ、まるで世界の舞台装置として配置されたかのようだ。


俺はこの真実を誰にも言っていない。言える間の人間もいなかった。


知ってしまえば、俺という存在そのものが崩れてしまうような気がして。


気持ち悪い。


気色悪い。


自分が何も分からないというのは、何よりも怖かった……



「……はぁ、ぷはぁ、な、なんで、俺の記憶のことを知ってるんだよ……ッ!」


肺が焼ける。喉が裂ける。


高架橋を駆け抜ける足音が、鉄の骨組みに反響して耳を打つ。すぐ横を、俺が乗るはずだった電車が轟音とともにすり抜けた。夕陽に赤く照らされた車体が、目の端を閃光のように掠めていく。


鉄の軋み、高架橋の下では草野球の掛け声と、バットがボールを弾き飛ばす乾いた衝撃音が重なり、まるで世界が俺の鼓動を煽っているみたいだった。


「はぁ……はぁ!……待ってよ、充斗君ッ!」


振り返った一瞬。


藍川姫奈が全速力で追ってくる姿が視界に飛び込んだ。


夕陽を浴びた金色の髪が、風を切り裂きながら、光の尾を散らす。額の汗が飛沫となって宙を舞い、夕暮れの光を反射して煌く。


真夏のアスファルトの熱を足裏から吸い上げる。胸の奥は焼け付くように熱くなり、俺も藍川も汗で全身が濡れ、呼吸は乱れ、肺が悲鳴をあげていた。


けれど、道路脇を駆け抜ける車の運転手から見れば、きっと青春の一場面に映るのだろう。


「彼女が彼氏を追いかける」微笑ましい光景。だが、俺にとっては不審者に命を追われている気分だった。


「しつこいって……!」


「ごめん。君が、この話をしたがらないのは知っていたのに……ッ!」


「だから、何で……ッ」


言いかけた瞬間、藍川の声が夕空を切り裂いた。





「私と君は、未来で出会うのッ!」




思わず足がもつれそうになる。高架橋を下ると、眼下には住宅群が広がっていた。その中に、俺の住む安アパートもある。入り組んだ路地を縫って逃げ切るつもりだった。


「そんな、馬鹿な話、信じられるか……ッ!」


だが、藍川は追撃の矢を放った。


「じゃあ、君の記憶のことを知ってる私は……一体何なのさ!」


「はぁ…はぁ……ッ」


胸が苦しい。脚が鉛のように重い。けれど心臓は暴力的に鼓動を刻み、脳にまで血が突き上げていた。


墓場まで持っていくつもりだった秘密。


それを知っている藍川の言葉には妙な説得力があった。


「お願いだから……ッ!私の話を聞いて……!」


藍川の声は切羽詰まり、必死に縋る響きだった。すれ違った部活帰りの中学生の群れにぶつかりかけ、俺はよろけた。振り返れば、汗でぐしゃぐしゃの顔のまま、なおも追い続けてくる藍川の姿があった。


「絶対に嫌だ……!」


「どうして!?」


藍川の叫びが、背中を突き刺した。


俺の心とは裏腹に、少しずつ違和感が輪郭を覚え始めた。


未来から来たタイムトラベラー。


そんな荒唐無稽な言葉が耳の奥で何度も木霊する。


考えれば、考えるほど、未知への恐怖が胸の奥で膨れ上がり、脚を突き動かした。


視界の先に俺のアパートが現れた。薄汚れた外壁、安っぽい鉄骨の階段。俺が暮らしていた……らしい部屋。


「……ッ!」


階段を駆け上がり、財布から鍵を引き抜く。


焦りで手が震え、手汗で滑り、鍵穴に入らない。向きが逆だと気付き、さらに苛立ちと焦りが募る。


背後では鉄階段を駆け上がる足音。藍川が迫って来た。


「よし……ッ」


鍵が回ると、同時に、俺は隙間を最小限に開けて、身をねじ込み、部屋へ滑り込む。引っかかった鞄を力任せに引きずり込み、床へ投げ捨てた。


そのまま、勢いよくドアを閉める━━━


「お願い、充斗君!お願いだから……ッ、私の話を聞いて!」


最後の一瞬、ドアの隙間に藍川の足が食い込んだ。


「マジで……警察、呼ぶぞ!?」


歯を食いしばり、渾身の力でドアを押した。


だが、藍川は必死に足を突っ張り、全身の重みをかけて抵抗してきた。汗ばんだ掌がドアノブから滑り落ちそうになった。




「私、このままじゃ、稲葉光に殺されるの(・・・・・・・・・)!」





告げられた一言。


思考が一瞬止まった。


「は、はぁ?」


一瞬力が緩んだ。


稲葉光?藍川と仲良さそうに笑っていたはずのあいつが?


昨日の屋上が脳裏に蘇る。


二人で肩を寄せ合いながら笑い合っていたあの笑顔。


そして、今日の昼休みには、二人で並んで弁当を広げ呼吸をするように自然に交わしていた光景。


見ているこちらが恥ずかしくなるほど、溶けあう空気。


誰の目にも「幼馴染以上、恋人未満」の親密さにしか映らなかった。


到底信じられることではなかった。


だが、その声は震えていた。


ただの思いつきでも冗談でもない。


ドアの隙間から覗いた瞳には、追い詰められた人間にしかない悲壮な覚悟が宿っていた。


「このままじゃ、私……ッ!もう……死にたくない。もう死にたくないの……ッ!」


「知るかッ!それこそ警察に相談しろ!」


「無理だよ!こんな話、誰も信じてくれないもん!」


「だったら、俺だって、無理だわ!」


互いの叫びがぶつかり合う。俺は決して体力に自信があるわけではない。だが、女の子に腕力で負けるはずがない。少しずつ、確実に、ドアは閉じていく。


「……あっ」


息が漏れるような、諦めの声。藍川の体が、力を失ったように外へ押し戻されていく。


「……ッ!」


次の瞬間、俺は全身の力を込めてドアを叩きつけるように閉めた。金属の錠が回り、カチリと確かな音が響く。その音だけが、この攻防戦に終止符を告げた。


「充斗君、充斗君……ッ!開けてよッ!」


「はぁ、はぁ……帰ってくれ……そんでもう、関わらないでくれ……」


必死の声がドアを震わせる。俺は荒い息を吐きながら、背中を板に預けるようにずるずると崩れ落ちた。

胸は上下を繰り返し、喉は焼けるように乾いている。


ドンドン……ッ! 


ドアを叩く音が、鼓動に重なり、耳を締めつけた。俺は震える手でポケットからスマホを取り出す。指先が冷たく汗ばんでいた。


「……ごめん、ごめんね」


外から届いた声は、張り裂ける寸前の細い糸のようだった。


「こんなこと、突然言われたら、困る……よね」


間を置くようにすすり泣く音が混じった。


その裏に、俺の反応を必死に伺う気配が滲んでいた。


「君が、嫌がるのは、わかってたのに、秘密を暴いちゃってさ……」


震えた吐息とともに、言葉が掠れ、何度も途切れかける。


「君が、こんなに近くにいるなんて、知らなくて。嬉しくて、絶対に逃がすわけにはいかなくて……」


ドアを擦るように震える声は掠れる。


「本当にごめん、ね……」


謝罪は絞り出すように小さく、けれど縋るように必死だった。


「だけどさ、もう、本当に、頼れる人が、いないの……」


俺は震える指で、「110」と打ち込んだ。後は通話ボタンを押すだけ。


画面の数字がやけに鮮明に光って見えた。


「お願い……助けて……充斗……く、ん


━━━あっくん(・・・・)……」


「ッ」


耳が痺れる。一度も呼ばれたことのないあだ名。だが、その呼び方には、不思議な温度があった。懐かしささえ漂う、心のどこかに眠っていた響き。


ドアの向こうから、しゃくりあげる嗚咽が洩れる。


もう何も言葉はなく、泣き崩れている音だけ。


俺の指は通話ボタンの上で止まったまま、どうしても押し込めなかった。


「う、え……っぐ、あっ……く…ん」


分からない━━━


常識で考えれば、こんな危険な女、家に押しかけ、意味不明なことを口走るストーカー。


本来なら通報して終わりだ。


だが、冷静になった脳裏に蘇る。


昨日の屋上。


稲葉が視界から消えた瞬間、苦しそうにえずいた姿。


今日の昼休み。


完璧すぎるほど自然に、稲葉の隣に座り、息を合わせるように食事をしていた藍川。


誰が見ても、親密な二人。けれど、あのとき俺を射抜いたあの蒼い瞳は確かにSOSを訴えていた。


稲葉が消えた瞬間の苦悶。


完璧すぎる昼休みの演技。


それらすべてを繋ぐ、異常な執念。


もし、命の危機に晒されているのなら、すべて説明がついてしまう━━━ついてしまった。


「たすけ、て……おね……が、い……」


扉を一枚隔て、泣き崩れている少女はこの世界で誰よりも不幸だと思い込んでいる。人生に絶望していた。


そして、そんな存在を突き放すことは、俺にはできなくなっていた。


「……負けか」


ため息をとともに、俺は独り言を漏らした。


重い手を伸ばし、錠前を回した。金属音が小さく響き、ドアが解放された。


「……あ、っくん?」


外でへたり込んでいた藍川が、顔を上げる。その瞳には、諦めと絶望が混じった色がまだ残っていた。


俺は自嘲した。


俺が大嫌いな“自分より不幸”な人間を前にして、心を折られていた。


自分のアイデンティティを揺るがす矛盾に、胸がざわついた。


「……とりあえず、中に入ってくれ。通報される前にな」


「え?」


戸惑いに似た濡れた声。


「話だけは聞く……から」


ため息まじりに言いながら、俺はしゃがみ込み、半ば投げやりに右手を差し出した。そして、残った左手で白く色を失った前髪を無意識にいじった。


「う、うん……!ありがとう……っ、だいすきッ!」


涙で濡れた頬を手の甲で乱暴に拭いながら、藍川がぱっと顔を上げた。そのまま勢い余って、両腕を広げ、次の瞬間、俺に飛びついてきた。


「う、お……ッ!」


柔らかい衝動が胸にのしかかる。自分が藍川の腕の中に抱きしめれらていることに気付くのに、数秒のタイムラグがあった。


「むご(おい!」


目の前いっぱいに迫るのは、涙で濡れた頬と━━━大きすぎる胸。汗をかいているはずなのに、かすかに甘い香りが混じって鼻をくすぐる。薄いワイシャツ越しに、その下に覗く白い下着がやけに鮮明に目に映った。


……だが、甘ったるい感覚に意識を奪われたのも束の間。頭の奥がぼうっと霞み、視界が白くかすんでいく。まるで天国に引き上げられるような心地よさの先に、じわじわと地獄が待っている罠のようだった。


「ぷはぁ……」


腕の力が緩み、俺はようやく息を吸えた。目を開けると、藍川がきょとんとした顔で俺を覗き込んでいた。


「あれ?もういいの?」


その無邪気な問いかけに返事もできず、ふと視線を横にやると、ドアの隙間や窓の陰から、好奇心に満ちたご近所さんたちがこちらを覗いていた。下の階からも人影が顔を出している。


……最悪だ。外聞が完全に終わった。


「……さっさと入ってくれ」


「うん♪お邪魔しま~す!」


さっきまで涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたくせに、藍川はもう能天気な声を弾ませて、部屋に転がり込んできた。


━━━君、ほんの数十秒前まで泣いていたよね?


『重要なお願い』

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