「アン」ノーマル
「ふぁぁ……」
大きく欠伸が漏れた。教科書の文字はただの模様にしか見えず、黒板に並ぶ数式や英単語も頭に入ってこなかった。授業はとっくに右から左に流れ、耳に残っているのは始業のチャイムの音だけだ。
仕方なく、俺は購買にパンでも買いに行くことにした。机に突っ伏しているよりは気が紛れる。
だが、頭の中から消えない。昨日の藍川姫奈のことが。
喉を押さえ、えずきながら見せたあの表情。絶望に塗りつぶされた瞳。俺に縋りつくように浮かべた、助けを求める懇願の色。
藍川と俺は初対面のはずだ。
だけど、あの視線に宿っていた感情は、初対面の相手に向けるものではなかった。
親友、いや、それ以上に命を託す相手に向ける信頼以上の崇拝にも似ていた。
俺は思わず、自分の記憶を探る。
もしや、どこかで出会っていたのではないか、と。
「ああ、それこそ無駄だったな……」
諦めの吐息とともに、頭を振った。空白の記憶に何を探したところで、そこには何もいない。存在しないものを追い求めても答えは返ってこない。
「……ま、仮に過去に出会ってたとしても今の俺には関係ないな」
強引に区切りをつけて、購買帰りのパンを片手に渡り廊下を歩いていると、中庭のベンチに並ぶ目立つ二人を見つけた。
稲葉光と、藍川だった。
周囲の女子からは黄色歓声が、男子からは露骨な嫉妬の視線が向けられていた。日常のきらめきを体現するその光景が、俺の足を止めさせた。
「私、お弁当を作ってきたの!」
藍川が嬉しそうに声を弾ませ、稲葉の前に弁当箱を差し出した。
「悪いな……迷惑だろ?」
「ううん!私が好きでやってることだから!」
藍川は笑みを浮かべながら弁当箱を開く。中には彩り豊かな卵焼き、照りのある唐揚げ、野菜の和え物、隙間を埋めるプチトマトとポテト。どれも丁寧に詰められており、時間をかけて作ったことが一目で分かる。
「本当に、いつもありがとな……」
「ん……」
稲葉の大きな手が藍川の頭を撫でる。その仕草は自然で、瞳には慈しみの色が宿っていた。藍川は少し恥ずかしそうに目を細め、猫のように心地よさそうにその手に身を預ける。
「それより、光。はい、あ~ん」
「あむ」
稲葉が素直に口を開け、差し出された卵焼きを口に含む。だが、次の瞬間、わずかにむせた。
「ど、どうかした?」
「いや……何でもない……美味しかった、ぞ?」
明らかにやせ我慢している声色に、藍川はぷくりと頬を膨らませた。
「怪しい!」
「あ、おい!」
藍川は稲葉の箸を奪い、自らも卵焼きを口に運ぶ。そして、すぐに目を大きく見開いた。
「しょっぱ……砂糖と塩、間違えてる」
肩を落とし、ズーンと暗くなる藍川。稲葉は苦笑しながら、首を横に振った。
「気にすんなって。たまにはこういう味もいいもんさ。それより他のも食べてもいいか?」
「え?あ……うん」
藍川が小さく頷くと、稲葉は遠慮なく箸を進める。勢いよく口に運び続け、あっという間に弁当箱は空になった。稲葉は空になった弁当を藍川に返し、白い歯を覗かせて微笑む。
「改めてありがとな。ご馳走さん」
「あ、うん。ありがと……」
その笑顔に、藍川の頬は赤く染まった。好きな男に「美味しい」と言ってもらえた幸福が、胸いっぱいに広がっているようだった。
「そんじゃ、行くか」
「うん!」
藍川は花が咲いたような笑顔を浮かべ、稲葉と並んで立ち上がる。二人は校舎に向かって歩き出す。正確には、渡り廊下に立っていた俺とすれ違うようにして。
その瞬間、二人だけの甘い空気は霧のように消えた。代わりに、いつの間にか中庭に人が溢れ始めた。
「……何でずっと、そんな眼をしてんだよ……」
胸の奥にざらついた違和感が広がる。
俺はただ羨ましさに浸って二人のイチャつきを眺めていたわけではない。
藍川の隣には稲葉がいた。笑顔を向けるべき相手は、隣に座る稲葉のはずだ。だが、その瞳は一貫して稲葉ではなく、その奥にいた俺を捕らえていた。
柔らかな仕草。
花のような笑顔。
弁当を差し出す時に赤く染まった頬。
俺にはそれがすべて歪んで見えた。
まるで、工場のベルトコンベアーで同じ作業を繰り返す機械のように伴わない瞳。
完璧なおままごとを見せられているようだった。
「何なんだ、お前……」
脳裏に蘇るえずく声。
喉を潰しながら、俺に向かって「助けて」と懇願した藍川の姿。
そして、さっきすれ違いざまに俺を見たあの瞳。
━━━助けて、と
「……ま、気にしても仕方ないか」
苦笑混じりに吐き出した。考えれば考えるほど、足元が崩れていきそうで、無理やりにでも区切りを付けたかった。
その時、校舎内に予鈴が鳴り響いた。昼休みの喧騒が終わりを告げ、眠気を誘う午後の授業が始まる合図。
今日は、絶対に寝るわけにはいかない。
◇
一度も鼻提灯を作らずに授業を受けきった。特に部活にも所属していない俺にとって、校舎を出れば、もう自由時間だ。余計な寄り道をする気分でもなく、バイトもないとなったらさっさと帰宅するのが一番だろう。
ただ、昨日落としたイヤホンと文庫本は結局見つからなかった、落とし物として届いているかもと確認したが、どちらも影も形もない。
誰かが持っていったのかもしれない。両方とも安いものではないから、失くなると結構困る。
「ん?」
横断歩道の前で、杖を手にしたおばあちゃんが立ち往生しているのが目に入った。信号は青に変わっているのに、一歩も踏み出さない
「ああ……そういうことか」
ここは四車線の大きな道路。歩行者信号が青の間に渡り切れるかどうか、足腰の悪い老人にとっては恐怖そのものだろう。
「おばあちゃん、一緒に渡りましょう!」
「え?」
「ゆっくりでいいから。さっ、今のうちに」
「え、ええ」
俺は赤で止まっている車に軽く頭を下げてから、車道側に立つ。おばあちゃんが安心して歩けるように、壁代わりになるつもりで。
もちろん、おんぶしてしまえば早いのだが、それではかえって恥をかかせるかもしれない。
だから、歩幅を合わせてゆっくりと付き添った。
中央の分離帯に辿り着くと、今度はカーブで曲がってくる車が目に付く、完全に止まるのを待っていたら時間が足りない。俺は手を挙げて歩行者の存在を示し、わずかな隙間を狙って先導した。運転者にとっては迷惑かもしれないが、そもそも歩行者優先だ。
二人で渡り切った瞬間、信号は丁度赤になった。胸を撫で下ろす俺の耳に感謝の声が届く。
「悪いねぇ」
「僕も渡るところでしたから、気にしないでください」
旅は道連れ世は情けという言葉もある。たまには、こんな風に誰かとゆっくり渡るのも悪くない。
おばあちゃんが人混みに紛れて姿を消したのを見届け、俺は軽く手を振った。
「さて……」
来た道を戻る。
人に良いことをすると、自分も嬉しくなる。
━━━結局自分のために善行を行っただけだ。
偽善であろうと、本心であろうと、誰かが喜んでくれた時点で、それはウィンウィンの関係だ。誰もが幸せになる思考……って何かの本に書いてあった気がする。
「相変わらず優しいね……充斗君は」
「うおっ!?」
変な声が漏れた。気付けばすぐ隣に、藍川が立っていた。いつからいたのか分からないが、あえて距離を置いていた藍川がごく自然に並んで歩いていて、心臓が跳ね上がる。
「大丈夫……?」
「……いや、びっくりするから急に声をかけないでくれると助かる」
「あ、ごめん。全然びっくりさせる気はなかったんだ」
向日葵のような笑顔の中にほんの少しの罪悪感が混じっていた。両手を胸で合わせて謝る仕草は無防備で、思わずこちらの緊張感も緩んでしまう。
「あ、そうそう。これを届けに来たんだ」
藍川の明るさに一瞬気を緩めたが、鞄の中をごそごそ探り始めると、俺の背筋が冷たくなる。
あり得ない妄想だと分かっていたとしても、ナイフでも取り出すんじゃないかと一瞬本気で身構えてしまった。
だが、次の瞬間に差し出された物を見て、俺は拍子抜けした。
「昨日、落としていったでしょ?」
自己主張の強い黄色いワイヤレスのイヤホン。角の擦れた文庫本。そして、全部あげたはずのガムの、新品のパッケージ。
「え?それをわざわざ……」
「うん!あ、そのガムはお礼ね?」
悪意など微塵も感じさせない善意百パーセントの笑顔。それを前にしてしまえば、俺は拒むことも疑うこともできなかった。
「……ありがとう。大事なやつだったから、本当に助かる」
「私と充斗君の仲でしょ?そんなかしこまらないで!」
━━━いや、俺と君の仲って初対面も同然じゃん……
心の中でツッコミつつ、口には出さない。藍川の明るい笑顔に照らされていると、否定の言葉すら妙に言いづらくなってしまう。
それにしても、今の藍川は、中庭で稲葉と並んでいた時とはまるで別人のように見えた。笑顔を浮かべても瞳の奥からハイライトが抜け落ち、完璧なお人形が演技をしているようだった。
だが今は違う。
向けられる笑みは温かく、息づく血を感じさせる。本心から笑っているように思えた。
「……君はこの頃からから優しいんだね?」
「ん?優しい」
「とぼけちゃって。おばあちゃんを助けてあげてたじゃん。わざわざ渡って、また戻って来て。そんなこと、誰にでもできるわけじゃないよ?」
「……見てたのか。恥ずかしいな」
「恥ずかしくなんてない!充斗君の長所だよ!とっても素敵だと思うな!」
「……まぁ」
誉め言葉はあまりにも真っすぐで頬が熱くなる。藍川は誰もが振り返る美少女だ。その口からそんな風に言われて、悪い気がするはずもない。
「……その前髪をいじる癖も、この頃からなんだね」
俺はハッとして、無意識に弄っていた前髪に触れるのを止めた。背筋に冷たいものが走るのを感じるが、聞かないわけにはいかなかった。
「……なぁ?」
「ん、なぁに?」
「俺たち、どこかで会ったことあるのか?」
「━━━」
藍川の足が、不意に止まった。風に揺れた前髪が顔を覆い、表情は見えない。だが、これまでの言動から推測はついてしまう。
━━━だけど
「中学生までの記憶がないんでしょ?」
「……え?」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間、ビルとビルの狭間を抜ける風が轟き、鼓膜を震わせた。冷たい空気が頬を撫で、背筋に鋭い刃を突きたてられたような感覚が走った。
「自分が何者か分からないのって、怖いよねぇ」
「━━━」
「だって君には、友人どころか家族も親類もいない。どうやって今まで生きてきたのかも分からない……まるで、ある日突然この世界に“降りてきた”みたいに」
「━━━」
「本をずっと読み続けてるのは、自分がどんな人間かを確かめたかったから、でしょ?物語の主人公みたいに振る舞って、せめて“いい人”ではあろうとした……ううん、実際に今の充斗君は、間違いなく優しい人だと思うよ」
「━━━」
藍川の声音は穏やかで、むしろ柔らかいのに、その一言一言が、胸の奥に杭のように突き刺さってくる。
「君は私に褒められると、決まって自虐するんだ。自分より不幸な人が許せない、ってね。後ろ向きな理由で照れ隠しをするところ……本当に可愛いいよ」
「……な、何で」
喉が震え、言葉にならない声が漏れる。
俺が━━━誰にも言ったことのない秘密。存在の根幹を形作ってきた空白。
「ねぇ……充斗君、私ね。実は……」
「ッ……!」
本能が警戒音をけたたましく鳴らす。これ以上聞いたら、俺の存在が揺らぐ。
「未来……って、ねぇ!どこ行くの!?」
藍川の声を振り切り、俺は駆け出していた。恐怖に背中を押されるように、無我夢中で走る。
「は、は……はっ……何で……ッ!」
息は荒く、喉は焼け付く。
夕暮れに染まる街並みの中で、俺の影が揺らめき、陽炎のように歪んでいく。胸を打ち破りそうな動悸と足音が重なる。
誰にも知られるはずのない秘密。
誰にも触れられてはいけない秘密。
それを突きつけられて、俺はただ逃げることしかできなかった。
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