アレ
「どういうことだ……?」
頬を強くつねる。鋭い痛みが走り、夢ではないことを確認した。
「確実にアイツを殺したはずなのに……」
脳漿をぐちゃぐちゃに潰し、血に沈めたあの光景。稲葉が生きているはずがない。そこには一点の迷いもない。
だが、こうして俺はまた同じ時間を生きている。
ただ、なぜ━━━ループしてるんだ?
「稲葉は、確かに姫奈を殺さないとループをしないって……」
あのときの言葉が脳裏に蘇る。ブラフだと疑うこともできる。
だが、あの性格で、あの状況で嘘を吐く余裕があっただろうか? あり得ない。
ならば、別の可能性もある。
ただ、そんなことよりも━━━
「俺……何で、記憶があるんだ?」
姫奈から聞かされていたループの仕組み。
ループのたびに記憶を継承するのは姫奈と稲葉だけのはずだった。
実際、姫奈は一度、記憶の継承相談して、稲葉に頭を潰されたと言っていた。
悲しいことに頭を潰されても、姫奈の記憶は継承されている。…
とにかく、理由は分からないが、俺にも前回の記憶が残っている。
「稲葉でも知らない、ループの秘密がある……?」
背筋に冷たいものが走る。
その時、校舎に鐘の音が鳴り響いた。
条件反射のように思い出す。
前のループでは、俺はトイレに行き、なぜか足は屋上へ向かい、そこで姫奈がえずく姿を目撃した。
あの出会いがすべての始まりだった。
「……ッ!ってそうだよ!姫奈はどうなったんだ!?」
血の気が引き、一瞬で胸がざわめきに支配される。
俺はもう座ってなどいられなかった。椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、教室を飛び出す。もし俺がループしているなら、姫奈もまたループに巻き込まれているはずだ。
廊下を駆け抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。放課後の校舎はすでに静まり返っており、生徒の姿はほとんどなかった。
その静寂の中で、自分の荒い息遣いと靴底が床を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。
「……ッ」
息を呑む。
階段を駆け上がっていく途中で、俺は“そいつ”と対面した。
スマホを横に構え、指先で軽快にゲームを操作しながら、鼻歌を口ずさみ、悠然と階段を下りてくる。
何気ない放課後の一幕のような光景。
だが、その姿は──昨日、俺が確かに殺したはずの稲葉光だった。
「━━━」
声にならない声が喉で途切れる。心臓が跳ね、冷たい汗が背筋を伝った。
昨夜、稲葉を殺したときは夜だった。俺はフードを深く被り、闇に紛れて奴を叩き潰した。あの時の手応えと、血の温度は確かに覚えている。脳漿を撒き散らす感触も。
間違いなく死んだ。死なせた。
なのに……今、稲葉は目の前にいる。
俺は必死に平静を装い、何でもない風を繕って階段を登り続ける。
稲葉はそのまま下ってくる。
互いの距離が狭まっていく。
すれ違いざま、吐き気を催すような緊張が喉を締めつけた。
「やっと……見つかったなぁ」
反射的に振り返る。だが、稲葉はただスマホの画面を見つめ、口元に満足げな笑みを浮かべているだけだった。
あの言葉で、記憶が確かに継承されていることを悟る。
けれど、昨日殺されたことなど何もなかったかのように振る舞う稲葉の姿に、底知れぬ寒気が走った。
稲葉の背中が闇に飲まれるように遠ざかっていく。視界から完全に消えた瞬間、抑えていた焦燥が爆発した。
俺は階段を一歩飛ばしで駆け上がる。
「姫奈は……ッ」
靴底が床を叩くたびに鼓動が乱れ、喉が焼けるように乾く。
全力で駆け上がり、屋上の扉に手をかける。錆びついた蝶番が悲鳴を上げるのも構わず、力任せに押し開けた。
そこには━━━
屋上のど真ん中。
黄金の髪が風に揺れ、夕陽の光を反射して煌めく。その光はきらきらと粒子となって宙に散り、夏の空気を彩っていた。
その蒼い瞳には、乾ききらぬ涙の痕が光っている。
「あっ、……くん?」
震える声とともに、姫奈の視線が俺に突き刺さった。それは縋るようで、救いを求めるようで、張り詰めた心を直接掴むような眼差しだった。
きっと、今までのループの経験から、姫奈は「俺には記憶が残っていない」と思っているに違いない。
だからこそ、不安を取り除いてやりたかった。
俺は、安心させるように口元を緩めた。
「……さっきぶり」
「え……」
姫奈の目が揺れる。まるで奇跡を目にしたかのように、信じられないものを見る眼差し。
「なんか、俺もループしたらしい……前回の記憶もある……」
正直、まだ混乱は残っている。けれど、とにかく伝えなければならなかった。
「ごめん、ループを止めるって言っておいて、止められなくて……とりあえず、この世界でも、ってうお!?」
言い終える前に、胸にどんと衝撃が走った。次の瞬間、姫奈が俺に飛び込んできていた。
「……謝らないで」
俺の胸に顔を埋め、涙混じりに擦りつけながら、必死に絞り出すように言った。
やがて姫奈はゆっくりと顔を上げる。涙の筋が頬に残っていたが、その蒼い瞳はまっすぐ俺を見ていた。
「……一人じゃない。それだけで、私にとっては最高の世界だから」
夕陽に照らされ、涙に濡れた瞳がきらきらと輝いていた。頬はまだ赤く、涙の跡も残っている。それなのに、その口元には確かな微笑みが浮かんでいた。
もう憂いの影はなかった。その真正面から向けられた笑顔に、胸の奥が熱く満たされていくのを感じた。
◇
「は?捨てられた」
思わず聞き返した俺の声が、夕焼けに染まった屋上に虚しく響く。
再会を果たした俺たちは、柵に身を預けて向かい合っていた。吹き抜ける風が髪を揺らし、どこか現実感を失わせる。
「うん、アレが『もうお前に構ってる時間は無駄だから』……って」
姫奈は膝を抱えて体育座りになり、真剣な表情で地面を見つめながら続けた。
「こんなこと、今まで一度もなかった……一応、私らしく粘ったんだけど、もう関わるなの一点張り」
「意味わかんね……」
俺が眉をひそめると、姫奈は小さく笑った。けれど、それは強がりの笑みだった。
「まぁ、私としては嬉しい限りだけどね……!ただ、それはそれでなんか怖いけど……」
「ん~」
俺は唸りながら、さっき階段ですれ違った稲葉の姿を思い出す。
あいつは確かに上機嫌だった。
鼻歌まじりにスマホを弄りながら、満足げに呟いていた。
『やっと……見つかったなぁ』、と
その言葉が脳裏に蘇る。ぞわりと背筋が粟立った。
もしかしたら、今回でループが終わるのかもしれない。だが、それが喜ぶべきことなのかどうか、判断がつかない。
「あいつ、何を探してんだろうな」
◇
「ふんふふ~ん♪」
帰り道。イヤホンから漏れる音楽に合わせて鼻歌を口ずさみながら、スマホの画面を覗き込む。
夕暮れの街並みは、まるでただの背景。モブしかいない退屈なフィールドだ。
突然だが、この世界がゲーム世界だと聞いたら驚くだろうか。
俺━━━稲葉光は前世で不慮の事故に遭い、この世界に転生してきた。
この世界は【Call Your True Name】と呼ばれるギャルゲー世界で、藍川姫奈をはじめとするヒロインたちを攻略する一般的なギャルゲーだ。
だが、このゲームには一つ、革新的な仕組みがある。
ギャルゲーやエロゲーのよくある鉄則として、主人公の名前を自分の名前に変えて没入感を高めるというものがある。
推しのヒロインに、
「好きだよ、光君」
なんて言われたら嬉しいだろ?
けれど、そのシステムには致命的な欠点がある。
声優とテキストが噛み合わないことだ。
例えば、テキストには『光』と出ているのに、『君』や『貴方』、『先輩』などとテンプレートで呼ばれる。
【Call Your True Name】はその課題を解決したゲームだ。
特殊なAIを搭載していて、キャラたちが本当に声優の声で自分の名前を呼んでくれるのだ。
【Call Your True Name】は日本語訳をすると、【貴方の本当の名前を呼ぶ】。
まさにタイトル通り。俺の名を、ヒロインたちが甘く、切なく、そして従順に呼んでくれるのだ。
俺は事故に遭って、不幸のどん底に叩き落とされたと思っていた。
けれど、目を覚ましたら、藍川姫奈が目の前にいたんだ。
「神様、ありがとう……」
心の底からそう思った。
だって、前世での俺の未練は、このゲームをクリアできなかったこと。
正確に言えば、どうしても辿り着けなかった━━━【ハーレムエンド】
いや、おれだけじゃない。
いや、俺だけじゃない。リリースから二週間、誰ひとり到達できなかった。
掲示板は愚痴と嘆きで埋まり、攻略サイトですら匙を投げた。
ならば、ここで俺が成し遂げればいい。この世界そのものが、俺の攻略対象なんだから。
「……やっと一人。埋まったな……」
スマホの画面には、『クリア済み』の文字が藍川姫奈の名前に重なっていた。
【Call Your True Name】はおそらくギャルゲーの王道を外していないはずだ。
すなわち、CGの差分回収。
最後に残っていた一枚は、姫奈が怯える表情。震え、涙し、絶望する顔。それを見届けた時、藍川姫奈のルートは凍結された。
そうそう面白いことがもう一つある。
この世界でループをする条件が━━━攻略してるヒロインを殺すことなんだから。
「いやぁ……ほんとに面倒なんだよな、これ」
普通のギャルゲーだったら、セーブして、そこからやり直すことができる。
普通のギャルゲーならセーブデータがある。分岐でやり直せばいい。だがここにはセーブもロードもない。リセットは“殺害”のみ。
スキップ機能もないから、毎回最初から。
ヒロインによっては結婚して大人になるまで引っ張られるルートもあって、往復作業は苦痛以外の何物でもなかった。
しかも、殺す際には“正しい手順”が必要だ。
俺のポケットにある金槌で、頭を叩き割る。そうしなければ、ヒロインたちは記憶を継承してしまう。
実際、そんなことが何度もあった。
実際、過去に何度もやらかした。彼女たちが前周回の記憶を引きずり、涙ながらに「やめて」と懇願する━━━その度に笑って叩き潰した。
最初は少しだけ胸がざわついた。
だがすぐに慣れた。
所詮は二次元のキャラ。
俺にとってはCGデータであり、肉便器であり、ただの素材に過ぎない。
毎回同じ台詞、同じ仕草。そんな繰り返しに、人間らしさを見出せるはずもない。
今の俺にとって唯一の生きがいは、ハーレムエンドに到達し、全員と同じベッドで眠ることだけだ。
「姫奈は埋まったから、次にいくか」
スマホを閉じながら呟く。
だが、心の片隅にひとつだけ疑問が残っている。
俺は姫奈を殺そうとした。だが、乱入者によって阻まれ、逆に俺が殺された。
……それなのに、ループは成立していた。
「つまり……俺が死ぬことでもリセットはできる、ってことか」
その可能性に気づいた瞬間、口元が勝手に吊り上がる。
「……面白い」
けれど、その笑みに冷たい影が差す。
あの時、俺を殺した“奴”の存在が、どうしても頭から離れない。
足音がアスファルトに吸い込まれていく。夕闇の中、稲葉光の鼻歌だけが、不気味に続いていた。
「あいつは一体、誰なんだ?」
第一章はこれで終わりです。
ありがとうございました。