待ってるから
最初は高揚感に支配されていた俺の頭も、徐々に冷静さを取り戻していた。
路地裏には血塗れになった稲葉が倒れている。壁や地面、俺の服や肌にも飛び散った血がこびりつき、鼻腔を満たす鉄の臭いがこの狭い空間を支配していた。脳漿をぐちゃぐちゃにぶちまけた稲葉の死骸を見ても、不思議と胸に去来するものは何もない。
「俺、人を殺したんだな……」
血に濡れた手を見つめても、出てくる感想はその程度だった。肩は砕かれ、そこからドロドロと血が溢れ続けているというのに、俺の頭は妙に澄み渡っていた。
そのとき、背中にどんと何かが当たった。
「あ、っくん……」
掠れた声に振り返った。見ると、姫奈が心配そうにしながら、俺を見ていた。返り血がかかったのか頬や、服に血がべったりと付着していた。
「ああ、姫奈か……」
浮遊感のように現実味を失っていた感覚がようやく戻ってくる。ぼやけていたピントが合い、地に足をつけたような感覚が甦った。
「ループはしそうか……?」
俺が真っ先に口にしたのは、それだった。今一番大事なことを確かめようとした。
けれど━━━
「どうでもいいよ……そんなの、どうでもいい……ッ!」
「え?」
姫奈が顔を上げ、俺を睨むように叫んだ。
「どうして、あっくんが殺しちゃうの!ループをしなくなったら、あっくん、殺人で捕まっちゃうんだよ!?」
その顔は必死で、涙に濡れていた。
「私、今、何が何だか分からない!」
言葉と同時に、彼女は俺の胸に顔を押し付けてきた。震えが伝わる。
「ループが終わったんだよ……だけどさ、大事な人がこれから捕まっちゃうって考えると……」
嗚咽交じりの声が、胸元に押し付けられた唇から漏れる。
「嬉しさもあるし、スカッとした気持ちもあるよ……?ずっとアレには恨みが溜まってたから……さ」
稲葉の死骸を睨みつけながら、憎悪を込めて吐き捨てる。だがすぐに、再び俺を見上げた。頬は涙で濡れ、蒼い瞳は不安と恐怖に揺れている。
「だけど……私のループとは関係ないっ!あっくんが罪を被るのは違うじゃん……!私が何度も殺されてきたなんて言い分は証明できないんだよ……!もう……もう何が何だか分からない!私は……私はどうすればいいの!?」
叫ぶような訴え。感情が爆発し、どうしようもなくなっているのが分かった。
俺は残った左腕で姫奈を抱き寄せる。
「……あっ……くん?」
涙に濡れた声が震える。俺の胸元に縋りついたまま、姫奈が不安げに顔を上げてきた。
「契約完了だ」
「え?」
「言っただろ?俺は姫奈を殺させないって約束してたんだから」
姫奈の瞳が大きく揺れる。返す言葉を失ったように唇が震えた。
「……ッ」
「まぁ、ループをもうしなくていいのは儲けものだな。あいつがべらべら喋ってくれたおかげで助かった。これで姫奈は自由だ」
静かに言い切ると、胸の奥に不思議な安堵が広がった。
俺が牢屋に入るのはほぼ確定だろう。問題は、それで姫奈にまで累が及ぶかどうかだ。俺だけで済めばいい。
……いや、待てよ。死刑って可能性もワンチャンあるか?
いやいや、無期懲役も……。
一応、正当防衛として通らないだろうか。
あるいは「記憶がない」という点で精神障害を認めてもらえる可能性は?
むしろ警察が俺の過去を調べてくれるかもしれない。
その時、俺自身の正体や来歴を知れるかもしれない。
……悪いことばかりじゃない気もした。
そんなふうに皮肉めいた余裕を抱けるくらいには、頭は冷静に冴え渡っていた。
そして、不意に。
柔らかな感触が、俺の唇を覆った
「大好き……」
囁くように告げられた。
「……いきなりはやめてくれ。ビックリする……んむ!?」
「大好き。好き、好き。大好き……」
姫奈は熱に浮かされたように、何度も何度も俺に口づけを重ねる。
唇を舐め、舌を絡め、頬に吸い付き、首筋を啄むように。
愛を確かめるというより、失うことを恐れて焼きつけるかのように執拗だった。
血で濡れた頬や服は、街灯に照らされていやに艶めかしく光り、その濡れた質感さえ彼女の激情を強調していた。蒼い瞳の奥には、淡いピンク色の靄がかかり、焦点が合わないまま俺だけを見据えているように感じられた。
「ありがとね。あっくん……君は、私の救世主だよ」
吐息混じりの声。愛と安堵と執着がないまぜになっていた。
「大袈裟だな……」
軽口を返すと、姫奈は微笑んだ。血と涙で濡れた笑顔は、なぜか神々しくも狂気的だった。
「━━━私ね……」
言葉が紡がれかけた、その瞬間━━━
「!)!U)()$&&%&$%&'''((%$##$$#%%%$#$%&&$%%%」
意味を成さない記号の羅列に掻き消された。
「……は?」
次の瞬間、姫奈の声も、表情も、周囲の景色さえもノイズに覆われた。まるで古いテレビの画面がザーッと砂嵐に飲み込まれるように、視界も音も次第に崩れていく。
ザザ……ザザザ……
やがて、
プツン━━━
音も光も消え、闇だけが残った。
「は!?」
反射的に声が漏れ、俺は跳ね起きた。
眩しい夏の夕陽が差し込み、肌にじりじりとまとわりつく。湿った熱気が全身を包み、むせ返るような蒸し暑さに思わず顔をしかめた。
「ここは……」
状況を確認しようと視線を巡らせる。だが、目に映るのはどこかで見慣れた景色だった。
腕を伝うのは制服の生地の感触。ワイシャツが汗で肌に貼りつき、じとりと不快に撫で回す。
机に突っ伏していたせいか、鼻腔には磨かれた木の匂いが残っている。
窓の外からは、カーテンを揺らす熱風とともに、トランペットの自己主張の強い音色、そして部活動の掛け声が騒がしく流れ込んできた。
「……っ」
何より目に入ったのは━━
「夏休みまで……あと、四日……?」
黒板に白く刻まれた大きな文字。
そこには、はっきりとこう書かれていた。
『夏休みまであと四日!』
「おいおい……まさか……」
思わず息を呑む。信じられない光景。だが、疑いようもない。
━━━時間が、戻ってる……?




