殺害
「はぁ……はぁ……とりあえず、ここに隠れりゃ、大丈夫だろ……」
肩で荒く息を吐きながら、俺はフードを乱暴に脱ぎ捨てた。熱帯夜の空気はまとわりつくように重く、フードの内側は蒸し風呂みたいに汗でびっしょりだった。
二人で飛び込んだのは、路地裏の狭い一本道。湿ったアスファルトの匂いが鼻を刺し、街灯の届かない闇が周囲を覆っている。通りを覗いても、人影はどこにもなかった。稲葉の気配も、もう感じられない。
「おい、姫━━━」
『姫奈』と呼びかけようとした瞬間、胸に柔らかな衝撃がぶつかった。
「本当に、ありがとう……」
声は涙で震え、俺の胸元に顔を埋めながら嗚咽が混ざる。両手は必死に俺の背中を掴み、指先が震えながら布を握りしめている。張り詰めていたものが一気に決壊したのだと、痛いほど伝わってきた。
「もういいって……」
照れ隠しのように呟きながら、俺はその頭に手を置いた。汗で湿った金色の髪を撫でた。
「これから、どうするか考えよう」
「……うん」
俺と姫奈は壁を背に並んで座り込んだ。
距離はゼロ。姫奈の金色の髪が頬に触れ、かすかに甘い匂いが鼻先をかすめる。張り詰めていた空気の中、その温もりがわずかな安堵をもたらしていた。
「ループをする条件の一つは、姫奈を殺すこと……なのは確定みたいだな」
この眼で見た。この耳で聞いた。
稲葉が、やり直そうとしていたのを。
「うん……ただ、他にも」
「それは考えても仕方がない」
今の俺にできるのはただひとつ。
姫奈を“死に戻り”させないこと。
仮にループが起きても――次の俺が、何とかすればいい。
そう信じるしかなかった。
「このまま、俺が姫奈を匿えば、殺されることはなさそうだな」
「そう……だね。ごめん、迷惑をかけるよ……」
「気にすんな。やることは決まったし、俺のアパートに━━━」
その刹那、提案を口にしようとした瞬間━━━
「何、話してんだよ」
不意に、闇の奥から声が響いた。同時に、風を裂く鋭い音。
「ッ!」
反射的に姫奈を抱き寄せ、その上に覆いかぶさる。直後、肩に鈍い衝撃が突き抜けた。
「ぐ……ッ」
骨が砕ける嫌な音が耳の奥で響き、視界が激しく揺れる。鉄を叩き割るような痛みが肩から全身へと突き抜け、意識が暗闇に引きずり込まれそうになる。
俺の下で姫奈は衝撃に声すら失っていた。その静寂が、かえって恐怖を際立たせる。
「お、ラッキー。即興だけど、うまくいってよかったぜ。お返しストライクぅ!」
無邪気な声が路地に反響する。右肩から熱いものが流れ落ちるのを感じて視線を落とすと、血に濡れた金槌が地面に転がっていた。
「クソ……が……ッ!」
ようやく理解が追いつく。俺が石を投げて稲葉を止めたときと同じように、今度は金槌を投擲されたのだ。
自分がしたことを、まるで遊びの“お返し”のように。
伏し目がちに奥を見やる。路地の暗がりから現れたのは、笑顔のまま歩み出てくる稲葉だった。その頭には返り血がこびりつき、なのに、声だけは、何もなかったかのように明るかった。
「大丈夫!?ねぇ……ねぇってば!」
姫奈が俺の身体を揺さぶり、必死に声をかけてくる。その悲痛な叫びだけが、朦朧とする意識をかろうじて現実につなぎ止めていた。
「お~い、姫奈。俺から逃げるなんて酷いなぁ。愛を誓いあった仲だろ?」
その声に背筋が凍る。稲葉は俺の存在を完全に無視し、姫奈だけを見ていた。そこには悪意すら感じられない。まるで日常の延長で会話しているかのように、無邪気な笑みを浮かべながら。
「な、何でこんなことを……」
姫奈が震える声で問う。
「ん?……いいのか?こんなことして、いや、だけど……」
稲葉は小声でぶつぶつと独り言のように呟き、ふいに顔を上げた。その頭からは血が滴り落ち、頬を濡らしている。
「ま、いいか。記憶は消せるし、たまにはこういうイレギュラーを楽しむのもいいことだろ」
そして、路地裏に不釣り合いなほど無邪気な笑みを浮かべた。
「俺さ、何度も時間を巻き戻してはやり直してるんだけどさ」
「……な、何を」
「ま、そのトリガーというか起点がめんどくてな。姫奈と……まぁいいか。とにかく姫奈を殺さないとループができないんだ」
肩を竦めるように軽い調子で言う。その声は冗談めいているのに、告げられる内容は血の匂いを帯びていた。
「ったく、俺の目的のためとはいえ、何度も同じ世界をループするのは面倒くせぇよ」
「何……言ってんの……?」
「仮にも俺の女だぜ?何度も殺さないといけないのは心が痛むんだ」
「だから、何を言ってるのか……!」
「あ、ごめんな。まとめると、俺のために死んでくれ。頼むよ」
軽口のように、普通に、気軽に。そこには人間への尊厳など微塵もない。むしろ、動物や家畜を前にしたときのような、無機質で冷たい眼差しがそこにあった。
「その顔、初めてみたかもな……」
稲葉の瞳が細められる。姫奈の恐怖を楽しむように。
「ち、近付かないで……ッ!」
「おいおい、そんなつれないことを言うんじゃねぇよ。……そそられるじゃねぇか」
稲葉の笑みが路地裏の闇に浮かぶ。その姿は血に塗れた怪物でありながら、声だけは妙に楽しげで一歩、また一歩と、姫奈へ近付いてきた。
「良いこと、聞いたよ。クズ野郎……」
「は?」
俺は迷わず、手に握った金槌を稲葉のスネへ全力で投げつけた。
ガンッ!
骨と金属がぶつかる乾いた音が路地裏に響き渡る。続いて、嫌な震動と共に、稲葉の悲鳴が上がった。
「~~~っ!」
「はぁ……はぁ……」
稲葉は崩れ落ち、足を押さえて地面に転げ回る。その姿を睨み下ろしながら、荒く呼吸を繰り返した。
「……お前は神じゃないんだな」
「だ、誰だ……お前……」
稲葉の目が揺れる。
俺はフードを深く被り直し、声を低く落とした。
「姫奈を殺さないとループしない。それだけ聞ければ十分だ……お前が無制限にこの世界をやり直せるのなら、何も打つ手がなかったよ……」
ずっと頭を巡らせてきた仮説。
姫奈は「稲葉を殺しても次で何が起こるか分からない」と恐れていた。
けれど今━━━確信に変わった。
「逆に言えば、俺がお前を殺せば……ループを止められるんだよな……」
「ま、待て!?」
「あっくん、駄目!」
姫奈の悲鳴を背に、俺は転がる金槌を握り直した。そして、迷いなく振り下ろした。
ゴシャッ!
「ぐ、ぎゃ……」
「まずは、一発……」
さらに二発、三発。
肉が潰れ、骨が割れる音が連続し、路地裏にこだました。
金槌の柄は血で滑り、掌に焼けつくような感覚を残す。
「はぁ……はぁ……」
倒れ伏した稲葉の頭部からは血が流れ、アスファルトを濡らしていく。
確かに、殺した。手に残る感触が、それを告げていた。
「ふぅ……」
人生で初めての殺人。踏み込むことはないと思っていた領域。
肩は砕かれ、痛みは激しく全身に広がっている。だが、その痛みすら霞むほど、胸の奥には妙な達成感が広がっていた。
自分が越えてはいけない一線を踏み越えた。
その実感と共に。




