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デート2

『夏休みまで後一日!』


黒板の真ん中に、チョークで大きくそう書かれていた。担任の字はいつも通り少し雑で、けれどクラスの空気はそれだけで浮き立つ。


とはいえ、教室の光景は相変わらずだ。


夏休み前だっていうのに、プリント一枚すら持ち帰らず、机に突っ伏して死んでいる弄られキャラ。俺みたいに、そもそも持って帰るものがほとんどないタイプ。あるいは、ロッカーの奥にフィギュアやエロ本を詰め込みすぎて、どうやって持ち帰るかで頭を抱えている奴。


それぞれが、それぞれの夏前を迎えていた。


そんな他愛もない日常を眺めながら、俺たちの一学期最後の学校は静かに終わった。


「……明日から休みだぁ」


思わず天井を仰いで息を吐く。けれど、胸の奥に広がるのは解放感というよりも、予定のない空白の重さだった。


俺の夏休みは、バイトと読書だけで埋まる。バイト代を貯めては、本を買い込み、ひたすら読み耽る。


それだけで十分だと思っていた。


帰宅して、自分の部屋に大の字で倒れ込む。


蛍光灯の丸い電球が頭上でぼんやりと光り、四方の壁には本の背表紙がぎっしりと並んでいる。


一昨日、姫奈がせっかく片付けてくれたばかりなのに、もう本たちは棚から逃げ出し、床や机の上で自由を謳歌していた。


……誰のせいだろうな。


「さて……」


ポケットのスマホが震え、画面を開く。姫奈からのメッセージ。


位置情報と一緒に━━━


『遊びに行こうぜ!17:00集合だ☆』


だってさ。


思わずテンションの上がる文面に、勢いで『おけ~い☆』と返して、すぐに布団に顔を埋めた。


「っと、少し寝ておくか……」


今日は授業が早く終わったせいで、寝不足の体がずっしりと重い。ベッドに転がり、瞼を閉じる。


夕方の集合時間まで、せめてひと眠りしよう━━━



駅前の公園は、まだ子供たちの声で賑わっていた。遊具に群がる小さな背中、ボールを追いかけて響くサッカーの掛け声。夏の夕方特有の湿った風が、喧騒をそのまま運んでくる。


「遅い……」


腰に手を当て、不満げに睨んでくる姫奈。その前で、俺はサラリーマンよろしく深々と頭を下げた。


「ごめんなさい……」


すぐ近くで見ていた子供たちが、クスクスと指を差してくる。無関心を装う子もいれば、好奇心いっぱいの目でこちらを見つめる子もいて━━━悪意のない視線ほど、今の俺には痛かった。


普通に寝坊した。目を覚ましたら、17時で、姫奈の鬼電で飛び起きた。


慌てて制服を脱ぎ捨て、クローゼットから適当に私服を掴んで着替えたというわけだ。


一方の姫奈は夕焼けを背にして立っていた。


黒のタンクトップにに、薄手の白いカーディガンを羽織っていた。

鎖骨をなぞるように揺れる細い銀のネックレスは、首筋の曲線を際立たせ、否応なく視線を奪った。


ハイウエストのデニムにタンクトップを収めたシルエットは無駄がなく引き締まっていて、大人びた色香が漂っていた。


「夕飯は奢るので……」


恐る恐る切り出すと、姫奈は肩を竦めてため息をついた。


「ん、反省しているようなので、お咎めはなしだよ」


「……助かります」


心底ほっとする俺を見て、姫奈は呆れ笑いを零す。そして不意に俺の腕を取ると、強引に歩き出した。


「それじゃあ行こう」


「え、どっか行くのか?」


「うん。とびっきりいいところ!」


振り返った姫奈の蒼い瞳が、夕暮れの光を反射してきらめいていた。



姫奈に連れてこられたのは山奥。


俺が普段使う最寄りの鉄道。その終点には“森”の名がついている。さらにその奥へ行けば、もう山と林しか広がっていないらしい。


列車はガタンゴトンと音を立てながら奥地へと進み、乗客の数は一人、また一人と減っていく。


気付けば、車両には俺たち以外に数人しか残っておらず、窓の外に見えるホームもどんどん寂れていった。


街灯の明かりは薄れ、夜の帳が濃く染み込んでいく。


「さぁ、歩こう!」


駅に降り立つや否や、姫奈は元気いっぱいに言った。


「歩くって……ここをか?」


目の前には舗装されているのかすら怪しい細道が延びている。その先には鬱蒼とした木々が影を落とし、暗い森の奥へと続いていた。足を踏み入れたら二度と戻れないような、不気味な静けさが漂っている。


標高はそれほど高くないらしいから、登って降りるくらいなら簡単……らしい。


「怖いのぉ?」


姫奈が挑発めいた笑みを浮かべた。


「まぁ、そうだよね。高校生のあっくんは怖がりだもんね」


「いや、全然……」


「辛いことがあると、私の胸に甘えてくるもんね~」


「だから、全く怖くないって……」


軽口を交わしながらも、森の気配はじわじわと背筋を冷たく撫でてくる。


「それじゃあ、問題ないね。レッツゴー!」


「あ、おい」


姫奈は笑いながら俺の腕を掴み、そのまま勢いよく森の中へ踏み込んでいった。





五分後。





「なんかいた!あそこガサって言った!」


「……」


「あっくん、歩くの早すぎ!置いてかないで!」


「……」


「ねぇ、なんかあそこ光ってない……!?」


うるせぇ……


さっきまで俺を散々煽っていた姫奈は、今や涙目で俺の腕にしがみついていた。森の闇は街灯ひとつない。風に揺れた枝の影でさえ、何か得体の知れないものに見える。


「……」


「もう嫌だぁ!」


完全にブーメランだ。煽っていた本人が一番ダメージを受けていた。


ガサ。


「ひぃ!?」


唐突に草が擦れる音が響き、姫奈は腰から崩れ落ちて、その場にへたり込んだ。足に力が入らず、蒼白な顔で俺を見上げてくる。


「……大丈夫か?」


「ご、ごめん、ちょっと無理そう。腰が抜けちゃった……」


無理に笑おうとしても、唇が震えていて、声は上ずっていた。俺は溜め息をひとつ吐く。


「もう引き返すか」


「それは……ダメ!」


姫奈は必死に首を振った。恐怖に震えながらも、その瞳には揺るがない決意が宿っている。


「お願い……ちょっと、休ませて……すぐに歩けるようになるから……」


その声音はか細いのに、決して諦めてはいなかった。


きっと、この先に姫奈にとって大事な“何か”があるのだろう。


さっき俺を挑発してきたのだって、自分を奮い立たせるためだったに違いない。


「はぁ……」


━━━なら、俺ができることはひとつだ。


「……ほら」


「え?」


俺は腰を落とし、背中を差し出した。


「終電もあるんだ。さっさと行くぞ」


一瞬の沈黙。


それから、姫奈は戸惑いながらも、そっと俺の背に身を預けてきた。


「お願い……します」


柔らかく温かな感触が背中越しに伝わる。姫奈の胸が押し潰され、全身がぴたりと密着する。背中に絡みつくような体温に、心臓が嫌でも跳ねた。


「……重くない?」


「……羽みたいだよ」


口から出たのは反射的な嘘。絶対に重いなんて使うわけにはいかないからな。


「嘘ばっかり……だけど、ありがと」


耳元で囁かれる甘い声。吐息が首筋をかすめ、抱きつく腕がより強く、俺を抱き寄せた。冷えた森の中で、背中だけがじわじわと熱を帯びていった。



「はぁ……はぁ……着いた」


息を切らしながら登りきると、急に視界が開けた。鬱蒼とした木々のトンネルを抜けた先には、広い芝生が広がっていた。


姫奈を背中から降ろした瞬間、俺はその場に崩れるようにうつ伏せに倒れ込む。草の匂いが鼻を突き、ざらついた土の感触が頬にまとわりつく。口の中は砂を噛んだような鉄臭さでいっぱいで、汚れることを厭う余裕などとっくになかった。


「お疲れ~」


隣に腰を下ろした姫奈が、俺の後頭部をくしゃりと撫でてくる。汗に濡れた髪を指先がなぞる感触が、妙に心地よくて、呼吸の荒さがほんの少し和らいだ。


「あっくん、空が凄いよ!」


「……」


「ねぇ、ほら!アレって天の川だよ!絶対に下からじゃ見えないよね~」


「……」


「お~い?」


姫奈の声は楽しげに弾んでいるが、俺は心臓の鼓動を落ち着けるのに精一杯だった。肺が焼けるように熱い。


「えい……」


「ぐふ!?」


突然、背中にどすんと衝撃。姫奈が勢いよく飛び乗ってきた。


「私のことを、無視した罰ね。あ~ん」


「ッ!」


舌先が耳の裏を掠め、背筋に電撃のような悪寒が走る。反射的に身体をひねり、姫奈を転がすようにして振り落とした。


「心臓に悪いわ!」


「だって、死んでるのかと思ったんだもん!お姫様のキスで目覚められて良かったね!」


「キスじゃなくて、耳を舐められただけだかんな!?」


そこには、言葉を失うほどの光景が広がっていた。群青の闇に瞬く無数の星。夏の大三角がはっきりと形を描かれていた。


そして、空を横切るように白い帯━━━天の川が流れる。


冷たい夜風に汗が冷やされ、身体がじんわりと震える。


けれど、目に映る光景はそれを忘れさせるほど幻想的で、こんな空が本当にあるのかと、胸の奥から熱い感動が込み上げてきた。


「……昔ね。ああ、未来の話だけどさ」


「ややこしいな……」


俺が呆れ混じりに返すと、姫奈はイタズラっぽく笑みを浮かべた。


「あっくんと、ここにデートに来たことがあったんだよね~」


「……そうか」


「それはそれは暑い夜を過ごしたよ」


「え?」


姫奈が芝生の一角を指差す。俺がそちらへ目を向けた瞬間、彼女は唇を吊り上げて囁いた。


「自然を感じながら……嬌声を抑えることなく、ずっと出し続けてたんだ」


「……冗談だよな?」


「……さぁ?」


闇に溶けるような含み笑い。小悪魔的な笑みは、星明かりに照らされて余計に妖しく見えた。


「なんなら今から実践してみる?」


「……ご勘弁願います……」


「つまんないなぁ……」


姫奈は頬を膨らませるが、俺は汗と疲労で体力ゲージがゼロだ。冗談でも耐えられそうにない。


「━━━未来でもさ、君は私をおんぶしてくれたんだ……」


「ん?」


「私は怖いのが苦手だからね。だけど、天の川が見たくて……」


姫奈は夜空を仰ぎ、手をゆっくりと伸ばす。掴めるはずもない星屑を、掌いっぱいに抱きとめようとする仕草。


「優しく微笑んで、私を運んでくれるの……やっぱりそこは変わらないんだね」


微笑みは儚げで、どこか弱々しい。一瞬、彼女の声にかすかな諦めが滲んだように思えた。


「俺を試してたのか……」


「拗ねないでよぉ!」


俺は顔を逸らし、芝生の上でごろりと背を向けた。


「いつだって。どこで出会ったとしても、君は助けてくれる。それが分かっただけでも、私は嬉しいんだ……」


耳に届いた声は、どこか手放すような響きを帯びていた。


思わず振り返る。


すると、姫奈の金色の髪が夜空の星々を映して揺れ、まるで本当に星屑を纏っているかのように煌めいていた。


「さ、終電もあるし、帰ろっか」



終電のホームは、しんと静まり返っていた。


反対側のホームでは、下り電車から吐き出された人々がざわざわと波のように押し寄せてくる。


けれど、この上り列車に乗る人間はほとんどいない。わざわざ終点まで行って戻ってくる物好きなんて、俺たちくらいなものだ。だから、座席は最後までずっと俺たちの場所だった。


「あ、私、次の次の駅で降りるから。そっちの方が近いんだよね~」


「そうか。じゃあ、次でお別れだな……」


「うん」


短い沈黙。一学期の疲れがどっと押し寄せたような静けさの中、姫奈の横顔はどこか落ち込んで見えた。


「……夏休みはどうするんだ?」


「ん~?」


「俺は、バイトしてその金で本を買って、ずっと過ごすつもりなんだ……」


「運動とかした方がいいよ?じゃないと大人になった時に苦労するって、自分で言ってたくせに……」


思わず苦笑する。まさか自分の将来から忠告を頂くなんてな。


「そうだな……誰かが連れ出してくれないと、俺は多分、一人で過ごすことになる」


「へ?」


「だから、俺を誘ってくれると、助かる……姫奈と一緒にいるのは、楽しかったから」


それは本音だった。同時に、心の奥に固い決意もある。


姫奈を死に戻りさせない。もしループするにしても、彼女が殺される理由ではなく━━━別の形で。


その時、次の俺が必ずどうにかする。高校が同じなら、姫奈はまた俺を頼ってくれるはずだ。そして、その先にループを止める術が見つかると思う。


「……ありがとね」


「……約束だからな」


姫奈は小さく微笑むと、俺の肩に頭をコテンと預けた。その重みが、不思議なくらい愛おしかった。


駅のアナウンスが響き、電車が減速する。


「それじゃあ」


俺が立ち上がろうとした瞬間━━━


「あ、あっくんちょっと待って!」


「ん?」


振り向いた途端、唇に柔らかい感触が触れた。温かくて、かすかに震えていて、それがキスだと理解するまでに、数秒の遅れがあった。


「……死に戻りなんて、信じられない話を……信じてくれてありがとね?」


「別に……」


「……ほら、また前髪弄ってる」


姫奈はくすくすと笑った。その笑顔に、胸が熱くなる。


チン、と音が鳴り、ドアが閉まり始める。慌てて俺は電車を降りた。


姫奈はガラス越しに手を振っている。アナウンスと共に、ドアが閉まる音が響いた。


「夏休み楽しもうね!」


最後に聞こえた声が胸の奥に残る。


ドアが完全に閉まり、声は遮られても、姫奈はまだ俺に手を振り続けていた。


俺も小さく手を上げて応える。


そして、電車がゆっくりと動き出し、姫奈の姿は夜の闇に飲み込まれていった。


静かなホームに一人残され、俺は深く息を吐くと、足を向けて改札へと歩き出した。



「あ、う……ぐ……」


私は電車の中で、その場に崩れ落ちた。


足に力が入らなくなったのは、疲れでも痛みでもない。


熱い涙が滲み、景色が歪んでいく。


━━━この世界でもお別れの時間だ。





「さよなら。また、会えるといいな……」


祈りにも似たその言葉は、電車の走行音に紛れながら、夜の闇に吸い込まれていった。

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