藍川姫奈
本が好きだ。
それはただの娯楽ではなく、世界と自分との境界を曖昧にしてくれる架け橋だ。
ページをめくれば、自分を覆い隠し、誰かの物語に没頭できる。
臆病な自分でも、剣を掲げる英雄になれるし、弱さを抱えたまま誰かを救える勇者になれる。
仮面を被るように、自分を隠し、別の「誰か」として呼吸することができる。
俺は物語を求める。
現実の自分を、無数の可能性の中で生きるために。
◇
「ふぁ~あ。よく寝たぁ……!」
大きな欠伸をして背筋をぐーんと伸ばす。肩がポキポキ鳴ってちょっと気持ちいい。
俺━━━氷山充斗。ただの凡人、高校二年生。
「え?もうHR終わってんじゃん!?」
気付けば、教室には俺一人。机と椅子だけがきちんと整列していて、俺一人だけが取り残された感が凄い。黒板の端にはチョークで「夏休みまであと4日!」と力強く書かれていて、それが逆に虚しく突き刺さった。
窓の外からは、部活の掛け声がわんわん響いてくる。
校庭から聞こえてくるのは吹奏楽部の練習音。クラリネットの低く柔らかな旋律を、トランペットの鋭い高音がぐいぐいと押しのけていく。まるで「俺が主役だ!」とでも言わんばかりの自己主張。青春の音色……なのかもしれない。
机の上には、ページの真ん中で折れ曲がったままのライトノベル。読んでる途中で俺は睡魔に敗北したのだろう。
「顔洗って帰るか」
トイレに行くと鏡の中に映ったのは自分自身。毎度のことながら、見てテンションが上がる容姿ではない。
凡庸を煮詰めて、無理やり延ばしたようなどこにでもいそうな顔立ち。しかも、ちょっとだけ目付きが悪いせいで、人相が険しく見える。
そして、何より気になるのが前髪。光を受けてやたら目立つ白髪が堂々とした存在感を放つ。これさえなければ、ただの凡人でいられたと思う。
苦労人というレッテルを勝手に貼られているようで憂鬱になった。
「はぁ……まぁいいか」
溜息をついて、気分を奮い立たせるように背筋を伸ばした。
目前には階段。上に行くか、下に行くか。何百と繰り返してきた二択。
普通なら迷うまでもなく下。下駄箱も昇降口も、帰り道に繋がるのはそっちだ。
「あえて上を選ぶ俺……!何かが呼んでる気がする……ッ!」
わざと大袈裟に、漫画の主人公みたいなセリフを口にしてみた。誰も聞いていないからこそできるハイテンション。
なんとなく、空が見たくなった。校庭からでも見える。でも、もっと高い場所からなら、いつもと違う景色があるかもしれない。
そんな気まぐれで、俺は屋上の扉を押し開けた。
ギィ……と音が鳴ると、すぐに風が吹き込んでくる。湿気を含んだぬるい夏の風が、全身をべたつくように撫でていった。額に汗がじわりと浮かぶ。
夏休み前の、最後の一週間。
気が付けば、高校生活も折り返し地点だ。世の中は受験だの、就職だの、と未来の話で盛り上がっている。けれど、俺にあるのはバイトで貯める生活費だけ。なんて夢のない話だろう。
「やっぱ無駄だったな~……」
ほんの数メートル高いだけの場所から空を見たって、大して変わらない。下から見ても、上から見ても、結局は同じ空。
肩を竦めて、引き返そうとしたその時、階段の下から誰かの声が聞こえてきた。
「何でこんな時間に……屋上は進入禁止だぞ……ッ」
脳裏に浮かぶのは生活指導の先生の顔。反射的に、俺は貯水タンクの影に身を滑り込ませた。夏の直射日光からは丁度逃れられる位置で思いがけず最高の隠れ場所になった。
「へ~、こんなところあったんだ!」
「な?いい眺めだろう」
軽やかな笑い声とともに、屋上に響いたのは誰かの会話。声の響き方からして二人きり。おそらくカップル。「高校生×男女×屋上」というシチュエーションなら、それ以外に考えようがない。漫画でも、ラブコメでも、この組み合わせは黄金パターンだ。
「姫奈は成績はどうだったんだ?」
「バッチシ!イエーイ☆」
……声を聞いた途端、俺は思わず息を呑んだ。知っている声だ。
男の方は━━━稲葉光。
学年で名前を知らない者はいない。成績優秀、スポーツ万能。誰にでも優しく、しかもイケメンでお金持ち。欠点が見つからないせいで、逆に人間味が薄いんじゃないかと疑うレベルの完璧さ。けれど、不思議と嫌味がなくて、俺みたいな凡人にも普通に話しかけてくれる。
━━━そりゃ人気者になるわけだ。
そして、女の子の方が藍川姫奈。
こちらも稲葉に負けず劣らずの完全無欠。学園のアイドルと呼ばれる存在で、彼女が笑えば教室の空気まで明るくなる。
黄金色に輝く長髪はツーサイドアップでまとめられていて、陽射しを浴びるたびにキラキラと光を散らす。
淡く澄んだ蒼の瞳は、湖面に映る青空のように清らかで、覗き込んだら吸い込まれてしまいそうだ。
スタイルも抜群。制服の上からでも分かる曲線美に、男子の視線が自然と吸い寄せられるのは仕方ない。
二人は幼馴染で、仲の良さは誰の目にも明らかで、もはや「カップル未満」と言い張る方が無理があると思う……
「俺の次でバッチリなのか……」
「私としてはどっちもでいいんだよ。上でも下でも、光とお隣さんじゃん……」
早く付き合えよ……
俺は気まずさを誤魔化すように貯水タンクの影で小さく身を潜めた。胸の内ポケットから本を取り出し、柵に背を預ける。スマホのBluetoothをオンにして、派手な黄色のイヤホンを耳に差し込む。これなら外の音も多少は遮れるはずだ。
……はずなんだけど。
男女二人の楽しそうな会話はイヤホン越しにも鮮明に届いてくる。耳の奥では音楽が鳴っているのに、会話の方が勝手に頭に入ってきて離れない。太陽の光さえ、あの二人を照らすためにあるんじゃないかと錯覚した。
「……風が……気持ちいいな……」
どうにかして、余計な意識を逸らそうと。俺はぐっと首を伸ばし、金属の柵に後頭部を預けた。鉄の冷たさがじんわりと頭皮に伝わり、汗ばんだ髪の毛を押し返してくれた。
夏の風が肌を撫で、首筋をすり抜けていく。
同じ風が二人の笑い声や何気ない会話まで一緒に運んでくる。
俺は目を閉じて風に意識を向ける。けれど脳裏に浮かぶのはやっぱりあの二人の姿で、どうしても切り離せなかった。
「━━━そろそろ行くか」
稲葉が腰を上げる気配がして、つられるように藍川も立ち上がった。
「そうだね~。帰りどっか寄ってく?」
「いいぞ。今日は驕りだ」
「やったー!大好き!」
好きって言ってるやないかい!
ツーサイドアップが太陽の下で揺れて、喜びを全身で表す藍川。その姿を見た稲葉は、当たり前みたいに優しい笑顔を向けた。これが日常ですと言わんばかりの自然さだった。
イヤホンの音量を上げるが、二人の声はやはり全然消えてくれなかった。耳に流し込んでいるのは確かに音楽なのに、鼓膜が拾ってしまうのは二人のやりとりばかりだった。
(……リア充爆発しろ)
心の中で中指を立てながら。俺にはどうすることもできなかった。
「俺はちょっと、教室に忘れ物をしたから、それを取ってくる。昇降口で待ち合せな」
「あいあいさー!あ、私はもう少しだけ日を浴びていくね!」
「了~解」
稲葉がひらひらと手を振る。その何気ない仕草でさえ、二人の距離の近さを見せつけられるようで、胸の奥がざわつく。
━━━残されたのは、藍川姫奈一人。
となると、俺はもう少し待機か……
息を潜めたまま、俺はスマホを取り出し、Bluetoothを解除しようと思ったその瞬間━━━
「おええ、おえ……、おえっ……!あ、はぁ……はぁ」
生々しいえずく声が屋上に響き、イヤホンと本が足元に落ちた。
「……は?」
俺は恐る恐る声の方へと視線を向けた。
藍川姫奈が、屋上の柵にしがみつき、身体を折り曲げるようにして、下へと吐いていた。胃の中のものはでていないが、けれど白く濁った唾液が、唇の端から糸を引き、顎を伝って滴り落ちていた。
「はぁ、はぁ……」
肩が大きく上下し、荒い呼吸を必死に繰り返していた。さっきまで太陽のように輝いていた学園のアイドルが、今は苦悶に顔を歪ませて吐き気に震えていた。
完璧で誰もが憧れる存在が決して、見せてはいけないはずの姿を晒していた。
その現実に、俺はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
「あ、うう、いや……いやだ……もう、助けて……」
か細い声が風に混じる。地面に膝から崩れ落ちる。倒れまいとして、手すりに右手だけで身体を支えていた。
それはついさっきまでの明るい笑顔とはまるで別人だった。
胸がざわつく。頭で考えるよりも先に、体が動いていた。落とした文庫本もイヤホンも気にしていられない。俺は駆け出していた。
━━━ここで何もしなかったら、絶対に後悔する。そんな予感があった。
「おい、大丈夫か!?」
「……ッ!」
その声に反応したのか、藍川の背中がビクンと大きく跳ねた。
誰もいないと思っていたのだろう。振り返ることもせず、肩を強張らせたまま硬直している。
「……あ、えと。ごめんね。な、何でもないよ!」
けれど、その横顔にはハイライトの消えた瞳が浮かんでいた。ただ遠くを見ているだけのようで、その視線はどこにも焦点を結んでいない。まるで魂の抜け殻だった。
「何でもないって……そんなわけないだろ……」
強がりにしか見えなかった。俺はこのまま保健室へ連れて行こうと、一歩近づいた。
その瞬間━━━藍川がぱっと顔を上げ、外側だけ完璧に整った笑みを浮かべた。口角は綺麗に上がり、仕草も可憐。普段の「学園のアイドル・藍川姫奈」をそのまま再現したような笑顔。
「いやぁ、ちょっと遠くを見てたら酔っちゃってね。参った参ったぁ……!
━━━え?」
笑顔の奥に潜む瞳は凍り付いていた。まるで幽霊でも見たかのように、俺を射抜いた。視線が肌を突き刺し、背筋に冷たいものが走った。
「あ、あの……何か?」
気圧され、思わず声が漏れる。居心地の悪さに耐えきれず、視線から逃げたくて、つい問いかけてしまった。
すると藍川は、ぎゅっと両手を胸の前で絡ませ、祈るような仕草で俺を見上げていた。
「名前……」
「名前?」
「うん。君の名前……教えてくれない……?」
真剣な眼差し。その必死さに息を呑んだ。眉をひそめながら、俺は恐る恐る、口を開いた。
「氷山、氷山充斗……だけど」
俺が名前を告げた瞬間、藍川の表情からすべての感情が崩れ落ちた。そして次の瞬間、柔らかな衝撃が胸にぶつかる。
「……見つけた」
「え?」
柑橘系のシャンプーの匂いが鼻を突き、制服越しに伝わる温もり。押し付けられる胸の弾力に思考が追いつかない。俺の胸に藍川が飛び込んできたと理解するのに、数秒かかった。
「あい……かわ?」
「会いたかった……会いたかったよ……ッ!こんな、傍にいたなんて……ッ!」
涙で濡れた顔を上げ、藍川が俺を見つめる。その瞳には必死さと狂おしい執着が入り混じっていた。
「な、何を……?」
「お願い、私を……助けて……ッ!」
俺の言葉を切り裂くように、藍川は叫んだ。
「もう、嫌なの……ッ!もう死にたくないよ……!」
「落ち着いた方が……」
「助けて……ッ!助けて!もう、あんな奴に、身体を弄ばれるのは、殺されるのは、嫌なの……!ねぇ、お願いッ!」
必死に縋りつく声。俺の両手を握る彼女の指は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。涙で滲んだ瞳が、逃げ場なく俺を捕らえる。
「あ、え~と」
キーンコーンカーンコーン
間の悪さを埋めるように、いや、救いの手を差し伸べるかのようにチャイムが鳴り響いた。
時刻は16時50分。
夕方を告げるその音が、俺には逃走の合図にしか聞こえなかった。
「あ、あの、ごめん!これから用事があるんだ!」
「え……?」
藍川の顔が絶望に塗り替わる。その変化を直視するのが辛くて、俺は慌ててポケットを探った。
指先に触れたのは、駅前でもらったポケットティッシュとコンビニで買ったガムの小袋。
さっきまで吐いていた藍川は口元がまだ濡れていて、少し乱れている。鼻にツンと届く酸味の混じった匂いが、状況の生々しさを際立たせていた。
「……これ、返さなくていいから!」
「あの……」
その声に背を押されるように、俺は逃げの一手を打つしかなかった。知らない誰かに宗教勧誘をされたような恐怖。俺の中で藍川姫奈は「関わってはいけない存在」に分類されてしまっていた。
「辛いことがあったら、ちゃんと稲葉に相談しな!」
吐き捨てて、俺は屋上駆け出した。
「待って……待って、━━━!」
背後から悲鳴のような声が追いすがる。けれど振り返らない。階段を駆け下りるたびに、靴底が床を叩く音がやけに大きく響いた。心臓が破裂しそうなほど脈打つ中、ようやく下駄箱にたどり着いた。
そこには稲葉がいた。スマホを横に構え、イヤホンを差し込んでゲームに夢中だ。一瞬だけ視線が交わったが、すぐに画面に戻る。
━━━彼女の介抱は任せたぜ☆
そう吐き捨てるように心で呟き、俺は校舎を飛び出し、一本道を全力で駆け抜けた。やがて、信号の赤が視界に映り、たまらず足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、振り返ると誰もいなかった。追ってくる足音も気配もない。
「ふぅ……」
肺に空気が戻ってきた。俺は胸を撫で下ろした。
内ポケットに手を突っ込んだ瞬間、背筋に冷や汗が走った。
「……いっけね。屋上にイヤホンと本を忘れてきた……」
もちろん、取りに戻るという選択肢は存在しない。電車に乗ったらスマホゲーでもして時間を潰すしかないだろう。
━━━だけど。
「何だったんだ。あの、女……」
◇
灯台下暗し。
昔の人はどうしてこんなに胸を抉る言葉を思い付くのだろう。
私はその場に力が抜け、地面にへたりこんだ。足から血が引いていくように震えが止まらず、指先だけがやけに熱い。
「━━━こんな、近くに……いたんだ……」
視線を落とすと、手の中にあったのは真っ黒なガムのパッケージ。包み紙を開けば、強烈なミントの香りが鼻を刺す。私にはいつも刺激が強すぎて、一粒口にしてはすぐ断念してしまった。
━━━いつも、彼がくれたものだった。
「……昔から優しかったんだね……」
ぽつりと声が漏れる。涙が頬を伝い、ガムの包み紙に落ちて染み込んでいく。
「充斗、いや、あっくん……」
嗚咽交じりに名前を呼ぶ。
━━━この時代で会えるなんて、夢にも思わなかった
『重要なお願い』
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