第五章:パンと、はじまりの香り
「おい、この白い粉……どうするんだ?」
それは、村の倉庫の隅に眠っていた小麦粉だった。
何年も前に商人から譲り受けたものらしいが、使い方がわからず、ただ埃をかぶっていたという。
「これで、“パン”を作ろうと思うんです」
「ぱん……?」
案の定、村人たちは首をかしげる。そりゃそうだ。
この世界では、パンどころか“こねる”という調理技法自体が一般的ではない。
だが俺には自信があった。
なにせ前世では、キャンプ飯を極めたサバイバル趣味人だったのだ。
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「まずは、この粉を水でこねます。力を入れすぎず、でもしっかり混ぜて……はい、やってみて」
「ぬるぬるしてて、変な感じじゃのう……」
「気持ちいい~!」
「ちょっと、投げるなって!」
大騒ぎの中、子どもたちと一緒にこねた生地は、やがてなめらかな手触りになっていく。
「次は……これ!」
俺は包みから、前日にこっそり仕込んでおいた“天然酵母”を取り出した。
砕いた果実に水と粉を混ぜて放置しておいたものだ。ほんのり甘酸っぱい匂いと、小さな泡。
「な、なんだそれ!? 泡が……生きてる!?」
「正解。これがパンを膨らませる“酵母”ってやつです。微生物の力で、生地がふわふわになるんです」
ミーナが目を丸くして、生地に混ぜ込まれていく酵母を見つめる。
「目には見えんのに、ちゃんと働いとるんじゃな……まるで、魔法みたいじゃ」
「うん。でもこれは、魔法じゃない。“暮らしの知恵”です」
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生地を丸めて、かまどの横に置いておく。
温かな薪の余熱で、酵母がゆっくり働き始める。
待つことしばし――
「……ふくらんでる!」
「ふわふわじゃ! なんじゃこりゃ!」
歓声があがる。
生地は見事に膨らみ、手のひらサイズのパンらしい形になっていた。
「じゃあ、いよいよ焼きましょうか」
石で組んだ簡易オーブンに、生地を並べる。
香ばしい香りが立ちのぼり、村の空気が、いつもと違う“幸せな匂い”に包まれていく。
「なんか……このにおい、すごく懐かしい気がする」
「うちの赤ん坊が、匂いで泣きやんだぞ」
「火って、暖かいだけじゃないんだなあ……」
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焼きあがったパンを、みんなでちぎって食べた。
外はパリッと、中はもっちり。素朴で、優しい味。
「……おいしい……」
ぽつりと、誰かがつぶやいた。
その声を合図に、村人たちは一斉に笑い出す。
「これ、祭りの料理にできるかもな」
「保存も効きそうじゃ。旅にも持ってけそう」
「わし、明日から麦をもっと作る!」
食べ物ひとつで、こんなにも人の目が変わる。
希望って、案外、腹の底から湧いてくるものなのかもしれない。
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夜になって、ミーナがそっと俺に話しかけてきた。
「パンって……命を育てる食べ物なんじゃな」
「うん。酵母も、火も、水も……全部が“生きてる”」
俺の言葉に、ミーナはふわりと笑った。
「この村、あんたのおかげで、生まれ変わっとるよ」
空を見上げると、星がいつもより大きく見えた。
村のかまどからは、まだほのかにパンの香りが漂っていた。
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次は何をしようか。
バター? チーズ? 燻製?
“暮らし”という冒険は、まだ始まったばかりだ。