第十四章:種を蒔く日
黒雨が過ぎ去った朝、村は静かだった。
空気はひんやりして、土の匂いが重く鼻に残る。雨粒が屋根の端にまだ残っている。
俺は長靴を履き、畑に出た。
水浸しの土、少し黄色く変色した葉、そして倒れた支柱。
被害は予想よりも軽かったが、それでも放っておけない。
「支柱、また立て直さなな」
ミーナが隣で言った。
彼女の手には、布で包んだ種の袋があった。
「今日、蒔くんか?」
「せやで。こんなときやからこそ、種を蒔くんや」
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村の広場では、すでに何人もの村人が集まっていた。
「うちの畑も、少し崩れてもうた」
「貯蔵庫の藁、乾かし直さなあかんな」
でも誰も、諦めた顔はしていなかった。
むしろその目は、どこか晴れやかだった。
黒雨に耐えた安心と、また日々を築いていける手応えとが、心を支えているのだ。
「このタイミングで、次の作物を決めよう」
俺は広場の中央に木の板を置き、そこに“畑の区画案”を描いた。
王都から来た設計士の夫婦も、そこに加わる。
「この斜面、排水が弱かったですね。傾斜に沿って溝を掘れば、次回はかなり違うと思います」
「せやな。うちの藍畑も、それで流れへんようにしたい」
皆が話し合いながら、次に向かって歩き出していた。
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その日の午後、「こども暮らし教室」が開かれた。
黒雨のあいだ家にこもっていた子どもたちが、一斉に広場に集まってくる。
案内役はミーナ。
今日のテーマは、「種を蒔くとはどういうことか」。
「この種はな、すぐには芽、出えへん。でもな、水や土が優しかったら、ちょっとずつ、ちょっとずつ伸びていくんや」
ミーナの手のひらの上、丸くて小さな赤豆の種。
「種は未来や。でも、投げつけるんやのうて、手でそっと置くんやで」
子どもたちは真剣な顔で頷いていた。
「それ、暮らしも一緒やな」
ぽつりと口にしたのは、中央学府から来た若い女性研究者だった。
「急に変えようとしても、誰もついてこれへん。でも、ゆっくり手をかければ、ちゃんと根が張って育つ……」
ミーナが笑った。
「ええこと言うやん。だいぶ“村人”になってきたな」
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夕方、畑にて。
俺たちは、新しい畝を立て、種を一粒ずつ埋めていった。
手にするのは、村の在来種――祖母の代から伝わるというトウモロコシ。
小ぶりだが風味が強く、病気に強いという。
「王都の品種もあるけどな、これが一番しぶとい」
セナじいが笑いながら言った。
技術があっても、便利さがあっても、
暮らしに必要なのは、「しぶとく残っていけるもの」なのかもしれない。
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日が落ちかけ、畑の向こうに陽が沈みはじめた。
ミーナが蒔いた種の列に、小さな立札が立てられていた。
《2025年黒雨のあと。再生のトウモロコシ》
誰かの記録のためでも、他所に見せるためでもない。
けれど、その小さな札が、村の誰かの心を静かに支えていた。
「また、暮らしが始まるな」
俺はそう言った。
するとミーナが小さく笑って答えた。
「うん。生きるって、毎日“種まき”やもんな」
それは、誰の目にも見えない営みかもしれない。
けれど、そうして紡がれていく日々こそが、この村を強くしていくのだった。