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ヒロは、調理場にて、ハンナと昼食の下準備をする料理人数人に見守られながら、お菓子作りに励んでいた。
今日作るのはクッキーである。昔から作っていたものであるけれど、ヒロは成功したことがほとんどなかった。
見守られながらクッキー作りを続け、オーブンで焼いた。しかし結果は、今回も真っ黒焦げということになった。
黒い煙の中、ヒロは首を傾げる。
「うーん、どうしてできないんでしょうか」
「(こんなに失敗するなんて、これはある意味才能なのでは…)」
ハンナが苦笑いをしながら焼き上がったクッキーを眺める。ヒロは、その1枚を持ち、一口かじる。完全に苦く、食べられたものではなかった。ハンナは、こんなクッキーを食べたヒロに驚いて、慌ててコップに水を注いでヒロに渡した。ヒロはありがとうと言うとそれを受け取って飲んだ。ハンナは心配そうにヒロを見た。
「どうして召し上がったんですか?その、焦げてしまったものを…」
「あ、あはは…。…昔の知り合いに、この焦げたのが美味しいって言う人がいて」
ヒロは、懐かしそうに目を細める。まだ一緒にいられた頃、ジムに手作りのクッキーを持っていくと、焦げたものでも美味しそうに頬張り、これが美味しいんだ、と言っていた。
ハンナは、不思議な人ですね、と苦笑いを浮かべた。ヒロは、懐かしい気持ちと、幸せな気持ちと、そして、そんなジムはもういないことの悲しみに、複雑な気持ちになる。ヒロはそれらを隠すように微笑んで、ええ、本当にそうなの、とハンナに言った。
エドは、仕事終わりに姉のリサの家に向かった。2人で遊ぶ甥のダンと姪のリンの子守をしながら、エドは機嫌が良さそうにしていた。
ソファーに座って本を読むリサは、そんなエドを見ながらため息をついた。
「何度も言っているけれど、私の家に来ないでくれるかしら」
「今日の夕食の約束がこの家の近くなんだ。仕事終わりから時間があるから、待たせてくれ」
エドは、ダンと車のおもちゃを動かしながらそう言う。リサは、またため息をついた後、で?と尋ねた。
「何かいいことがあったの?」
「なんでだよ」
しらばっくれるようにそういいながらも、嬉しそうに口元を緩めるエドに、リサは嫌そうに顔をしかめる。
「(聞いてほしそうな顔丸出しにして…。ほんとに子どもなんだから…)」
「おじちゃま!」
人形遊びをしていたリンが、眉をひそめてエドを見上げる。エドは、お兄様だろ、と訂正する。
「おはなしをきいてほしくておかあさまのところへきたのなら、さっさとおはなしなさいよ」
リンの言葉に、ミニサイズの姉さんだ、とエドは内心思う。ぷんすかと怒るリンを、ダンが優しい声で宥める。
「だめだよ、リン。おじちゃまはだれもそんなにはなしをききたがってないことにきがつかずにもったいぶるようなひとだから、ほかにきいてくれるひとがいなくてわざわざここにきているんだ。ぼくたちくらいはちゃんとききたいふりをしてあげようよ」
「…君はそんなに幼いのに何でそんなに言葉を鋭利にできるんだ…」
エドは顔を引き攣らせたあと、リサの隣に座って、練習問題の載った本を片手にチェス盤とにらめっこをするダグを見た。
「(…そしてこの人は、俺の良い話は全く興味がなさそうだ)」
また顔を引き攣らせるエドの膝の上に、猫のミィがやってきた。エドがミィの顎の下を撫でると、ミィはごろごろと嬉しそうに喉を鳴らした。
「で、なにがあったの?聞いてあげるわ」
リサに言われて、エドはリサの方を見た。
「仕事がうまく行った。少し困難な案件だったけれど、瞬発的に俺がひらめいて、解決できた。…まあ、俺なら当然のことだけど」
エドは、何でもない話をしている風に話していたが、内心は鼻高々なんだろうなと姉のリサは察していた。
「すごいじゃない。普通ならきっとできないことよ」
姉として弟が本心で可愛くないわけではないリサは、そう相槌を打ってあげた。するとエドは、俺を普通の人間と一緒にしないでくれ、とリサの鼻につく様子で返した。リサは、内心あきれながら、ほんとうにすごいわー、と言いながら本に目を落とした。
「…そういえば、約束の時間は?」
「ああ、そろそろだ」
エドはそう言うと立ち上がった。リンが、おじちゃまかえっちゃうの?と聞くと、またくるよ、とエドは返す。するとリンは素っ気なく、またきてなんていってないわ、と返す。そんなリンに、はいはいとエドは苦笑する。
コートを羽織るエドに、ソファーから立ち上がったリサは耳打ちをした。
「…まさか、約束の相手がヒロじゃないなんてことないわよね」
「ヒロの訳ないだろ」
さらりと返すエドに、リサは額に手を当てる。
「あなた本当にいい加減にしなさいよ」
「向こうも了承している話だよ、姉さん。お互い結婚しているからといって縛られたくないんだよ。人生楽しまないと、ね」
エドはそう言うと、それじゃあ、とリサに言って家から出ていった。リサはそんな弟の背中を見つめる。
「…楽しまないとって、あなた、そんな遊びをしたっていつも楽しくなさそうじゃない…」
リサの呆れたような声は、エドには届くはずがなかった。
日曜日の朝、ヒロは朝食を終えてから中庭の花壇に向かった。ジョウロに水をくんで、花に丁寧に水をやっていく。朝日に照らされた水滴がきらきらと輝いている。今日も花はきれいで、ヒロは目を細める。
もう秋真っ只中の今、朝の早い時間は少しだけ冷える。ヒロは、持ってきたストールが変な色のものしかなかった。最初実家から持ってきた荷物の中にこれがあったときは笑ってしまったけれど、家で使う分には構わないかと使っているうちに、いつのまにかこの変な色のストールを愛用するようになってしまった。
今日もそのストールを肩にかけて、ヒロは花に水をやる。すると、エドが帰ってくるのが見えた。
「(…今さら帰宅、ということは、…彼女とゆっくりしてきたわけね)」
ヒロはそんな推理を頭の中で繰り広げて、今は誰との噂が流れているのだろうかとふと考える。めっきり社交の場に出なくなり、そういった噂とは無縁になっていた。噂がたくさん入ってきたときは、それにわくわくしたけれど、入ってこなければこないで別に困ることなどなかった。むしろ、自分の世界に没頭できて良いような気もする。
「(まあ、余計な詮索は無用。一応あいさつだけして終わり)」
ヒロは、こちらへ歩いてくるエドに、水やりをする手を止めて体を向けた。すると、エドがヒロの前で立ち止まり、ヒロが世話をしていた花を見た。そのエドの普段よりも幾分かは柔らかい表情に、なにか良いことがあったのだろうか、とヒロは察する。エドは目の下にクマがあり、かなりの疲労も見えたが、達成感の感じられる顔もしているように見える。
「(彼女と夜通しお楽しみだったわけね…)」
地味で彼の好みではないヒロには冷めた表情しか見せないけれど、お付き合いをしているあの華やかな世界の女性には柔らかく紳士的な笑顔を見せるのだろう。そう考えると、彼のその対象になりえない自分が虚しくなるけれど、そもそもそんなことを気にする理由はないとヒロは思い直す。ヒロは、花壇の前で立ち止まるエドに、軽く、お帰りなさいませ、と頭を下げる。
「あなたは本当に花が好きなんですね」
話しかけてきたエドに、ヒロはとても驚いた。よほど機嫌がいいのだろうか、とヒロは内心思いながら、ええ、と頷いた。
エドは、花の方に視線をやり続ける。花に視線を移すことで彼の目が伏せられて、彼の長い睫毛がよくヒロから見えた。相変わらず美しい顔をしたこの男に、この人もたくさんの人に愛されてきた人なんだろうなとヒロは思う。ヒロは目を伏せたとき、ジョウロに入った水に反射して映る冴えない自分の顔がちらりと見えたので、はっと視線をそらした。
「花の何がいいんですか」
エドが素朴な疑問をヒロに投げかけた。ヒロは、え、と間抜けな声を漏らす。エドは視線をヒロの方へ向けた。
「女性が喜ぶから贈り物としてよく用意するけれど、良さが分からない。いいと思ったことがない」
淡々と話すエドに、そんな話を花が好きな私にするなんて、と内心ヒロは思うけれど、目の前の人の無神経さが一周回って面白くなり、ヒロは小さく吹き出した。そんなヒロに、エドは少し目を丸くする。ヒロは笑いながら、ごめんなさい、とエドに謝った。
「なんだか、あなたが可笑しくって」
「…可笑しい?」
「あー、可笑しい、涙が出てきちゃった」
ヒロは笑いすぎて溜まった涙を指で拭った。そんなヒロを、エドは不思議そうに見ている。
「でも、素敵ですね、お花をプレゼントするなんて」
ヒロはエドにそう話し掛ける。花束を携えるエド、という姿があまりにも絵になり過ぎていて、またヒロは可笑しくなる。エドは、そんなヒロに、あなたにはいないんですか、と尋ねた。
「え?」
「花束を持って待ち合わせ場所に来る相手は」
エドの言葉にヒロは目を丸くした後、いません、と笑った。
「(プライベートな話題はするなとか自分で言っておいて、そっちから聞くのね…)」
「あなたも作れば良いのに」
容易く言ってしまうエドに、ヒロはまた可笑しくて笑う。そんな簡単に、人は人から好きになってなどもらえない。私はあなたとは違う。私なんかのことを好きになってくれる人なんか、後にも先にもジムしかいないんだから。そんなことをヒロは心のなかで思う。
よく笑うヒロに驚きながらも、自分の言葉が笑われたことに少し不服そうな顔をして、エドはヒロに尋ねた。
「なにかおかしなことでも言いましたか?」
「ああ、ごめんなさい、すごく簡単におっしゃるから。誰も彼もみんな、あなたみたく人に好かれたりしませんよ。私なんか全然、もう全く」
そう言い切るヒロに、エドはまた怪訝そうにする。ヒロは、そんなエドには気が付かず、それに、と話を続ける。
「それに私、好きな人がいるんです」
ヒロの言葉に、エドは、え、と声を漏らす。
「なら、その人と付き合えば良い」
「無理なんです。3年前に他の人と結婚してしまいましたから」
「それなら、他の人を好きになれば良い」
「それも無理なんです。私はずっと、あの人を好きでいたいんです」
ヒロは空を見上げる。そんなヒロの横顔を、エドが見つめる。
「…他人と結婚した人を、なぜそんなにも長く想い続けられるんですか?」
エドがヒロに尋ねた。ヒロはエドの方を向いた。内心、あなただって既婚者なのに複数の人から想いを寄せられてるのに、とエドに突っ込む。ヒロは、しかしそんなことは顔に出さずに微笑む。
「別れ際に言われたんです。どんなに離れても、僕は君のことを愛し続ける、って」
ヒロは、その時のジムの表情や声を思い出しながら目を細める。そんなヒロを、エドは内心あきれた気持ちで見つめる。
「(よくそんな台詞信じられるな…)…信じられるほど、その人が好きなんですね」
エドが角の立たない返しをすると、ヒロはゆっくり空を見上げた。
「…運命の人だと思いました。この人みたいな人は、後にも先にも現れないって。すとーんって、恋に落ちたんです。まるで魔法みたいに」
「魔法…」
「それがまだ、とけないだけです」
エドはまたヒロに呆れる。ヒロは、眉を少し下げて、困ったような笑顔をエドに見せた。
「3年前、彼と離れたあの日からずっと、私の中の時計が止まったままなんです。でも、周りは止まり続けることを許してくれなくって、とっても苦しかった」
ヒロはそう話す。兄も友も、ヒロにジムなんか忘れろと言った。両親も、ヒロが嫌がれば縁談は取り下げたけれど、それでも新しい縁談を持ってき続けたということは、ヒロにジムを忘れて新しい人と一緒になってほしいと口には出さずとも懇願していたのだ。誰も、ヒロに立ち止まることを許さなかった。ヒロは別に、新しいところになんか行きたくなかった。そこにこんなに素晴らしい幸せがあるのだと言われても、ヒロには興味がなかった。どんなに生産性がなかったとしても、虚しいことだとしても、それでもヒロは、もう結ばれることのない愛しい人をただ静かに思っていたかった。それを誰も良しとしない世界が、ヒロには息苦しくてたまらなかった。
「あなたのおかげです。あなたが私と結婚してくださったから、私は立ち止まることができた。感謝しています」
ヒロは、この人と出会って初めて、心からのお礼を言った。エドは、そんなヒロのことを、少しの間じっと見つめていた。