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ヒロがアディントン侯爵家へ嫁いできて、早くも3カ月が過ぎ去った。
この屋敷の中で、ヒロはずっと静かに、そして幸福に過ごしていた。美味しい食事を、使用人に美味しい美味しいと笑顔で伝えながら食べて、中庭で花を育てて、本を読んで、編み物をして、お菓子作りをして、そして、ハンナと仲良くお茶をしながら雑談をしたりして1日を過ごしていた。
ヒロがのんびりゆったりとアディントン侯爵家での新婚生活を楽しんでいる間も、エドは別の女性との噂を流し続けていた。本来ならば、そんな不貞行為をするだなんてとエドは非難されるべき状況だけれど、周りの貴族たちは、あのエド・アディントンだしな…という空気であった。さらに、あんなに遊んできた男があの大人しいご令嬢では満足できるわけがない、という認識もあった。
周りのご令嬢たちも、エドが既婚者だということはもちろんわかってエドと遊んでいるようだった。いけない恋だとわかっていても、エドに見つめられたら断れないというご令嬢半分、ヒロのような女よりも自分のほうが似合うのだから当然だというご令嬢半分、といった様子だった。
ヒロのことを不憫に思う人もたくさんいたが、そんな声はヒロには入ってこなかった。アディントン侯爵家に送られてくる社交界の招待状は、ヒロには知らされなかったからである。そういった場にエドはいつもヒロを置いて1人で行ってしまった。そのことを薄々ヒロは感づいていたけれど、何も気にしなかった。むしろ、パーティーに出なくていいなんてラッキー、くらいに思っていた。
結婚式以来久しぶりに、ヒロはマーガレットとアリスにアディントン侯爵家で会えることになった。事前にエドに許可を取るためにヒロが聞いたら、淡白な様子で、ご自由に、とだけ返された。そう言われたとき、勝手にしていいのか、とヒロはまた目を輝かせた。
3人は応接室でしばらく話したあと、天気がいいので中庭でお茶をすることにした。中庭のテーブルに着くと、夏が終わり暑さの和らいだ秋の風が心地よく吹いてくる。
ハンナの淹れたお茶を一口飲んだマーガレットが、じっとヒロを見た。ヒロは、マーガレットの視線に首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ…エドの悪い噂がじゃんじゃん流れてきて、あの男既婚者のくせになにやってんのよ、ヒロは大丈夫なの?!って心配してここにきたのに、当の本人は結婚前よりツヤツヤの肌でピカピカの笑顔をしているものだから…」
マーガレットは複雑な顔でヒロを見る。ヒロは、ああ…と苦笑いを浮かべる。
「エドのことは、結婚する前から知っていたし。別に」
「でっ、でも、夫があんなに他の女の人と遊んでていいの?悔しくないの?」
「悔しい…?別に…」
きょとんとするヒロに、マーガレットはがくりとする。アリスはそんな2人をにこにことしながら見つめる。
「まあ、ヒロが良いなら良いじゃないですか。既婚者なのに他の女と遊ぶ男も、男が既婚者と知って遊ぶ女も、程度がしれていますしね」
おっとりとした笑顔で凄いことをさらりと言ってのけるアリスに、ヒロとマーガレットは固まる。
ヒロは、ま、まあ、と苦笑いを漏らす。
「エドがそういう人だから、私は今穏やかに過ごせているんだと思うの」
「ど、どういうこと?」
マーガレットが怪訝な顔をする。ヒロは目を細める。
「どんなに離れていても、僕の心は君にある。遠くから君のことを愛し続けるよ、いつまでも…。そう言ってくれたジムのことを、ここでなら思い続けられるの」
「えっ、まだそんなこと信じてるの…」
「マーガレット、ヒロは本気なんですから」
アリスが、ドン引きするマーガレットをたしなめる。ヒロは、2人の様子に不服な気持ちになるけれど、同時に仕方ないとも思う。なぜならば、彼女たちはジムのことを何も知らないからだ。優しくて素敵で、ヒロが心から好きになれて、そして、ヒロのことを好きになってくれるこの世界でたった1人の男性なのだということを。
マーガレットは、そんなヒロを心配そうに見つめる。
「ねえ、それでヒロは本当に幸せなのかな。結婚相手は自分以外の女性と遊んでいて、好きな人は他の人と結婚してしまっていて。本当に本当に、ヒロはそれでいいの?」
マーガレットの言葉に、ヒロは間髪を入れずに、もちろん、と返す。マーガレットは、そんなヒロに口を継ぐむ。アリスは、2人の顔をニコニコしながら見ていた。
ヒロはそんなことより見て、この花壇、と2人に自慢気に披露しだした。まだ話題転換できないマーガレットと、わあすごいですわ、と素直に感心してくれるアリスに、ヒロはにこりと微笑んだ。
「なんだか、お弁当を用意したくなりますね」
アリスの言葉に、昔3人で近くの野原にハイキングへ行ったことをヒロは思い出す。ヒロは微笑んで、確かに、と返す。
「またみんなでハイキングに行きたいな」
「まあ、素敵ですわ。私もそう思います」
「ねえ、まって、まって、私はまださっきの話題から抜け出せないんですけれども…!」
混乱するマーガレットを置いて、ヒロとアリスはあの頃の懐かしい思い出話を始めた。
エドは、城の事務室で出来上がった書類の最終確認をしていた。父親に言われた仕事で、あちらはエドにできて当然だと思っているため、ミスは絶対にできない。エドは必死に作り上げた書類に間違いはないか、矛盾はないかを目を皿にして探す。そんなエドの背中を誰かがぽんと叩いた。エドが振り向くと、ウィルがいた。
「ああ、君か」
「よ、遊び人」
ウィルはエドの隣の椅子に座ると、眼鏡を掛け直してから、机の上に自分の仕事を広げた。またどこからか噂を仕入れてきたんだな、とさして気にもとめずに思ったエドは、視線を書類に戻すと、どうも、と返した。ウィルは横目でエドを見た。
「こういうのは結婚したら落ち着くのが普通だろ」
「俺を普通の男と一緒にしないでくれ」
「さすが、男前は言うことが違うね」
「そうだな」
軽く返したエドは、一箇所のミスを見つけて小さくため息をつきながら髪をかきあげ、間違えた所をまた考え直しだす。ウィルは、エドの書類をちらりと見ると、わあ、と気のない声を上げた。
「もうそんなことやらされてんの?鬼だね、エドの父上って」
一瞬見ただけで書類の内容を察してしまうウィルに、エドは彼と出会って何度目かの絶望をした。ウィルは、学年は違えどその優秀さは学校中に知れ渡っていた。しかし、彼はいつも飄々としていた。熱心に勉強をする様子も、勉強ができる素振りも一切見せないし感じさせないのに、さらりと学年で一番の成績を取っていってしまうのだ。誰よりも遅く残って勉強をするエドとは真逆だった。彼は天才であり、エドとは違う人種だった。そのことにエドは、何度も何度も絶望した。
「彼にとってはできて当然のことなんだよ。それを裏切ることはできない」
エドは、できて当然、という顔をする父親の顔を思い出す。彼はいつもそうだった。エドが幼い頃からずっと、周りの人間と違って優秀なアディントン侯爵家の跡取りならこれくらいできて普通で褒める価値もなく、できなければできないなんてとんでもない落ちこぼれなんだとエドを責めた。だからエドは、幼少期から今までずっと、できて当然のラインに立てるように血のにじむような努力をしてきた。
「はー、ストレスから女遊びかあ。駄目なパターンじゃん」
「ちょっと黙ってくれ。時間がないんだ」
エドがそうウィルに言うと、さすがにウィルは黙った。ウィルは、真剣に書類とにらめっこをするエドをちらりと見ると、小さく息をついて、自分の仕事にとりかかった。
パブリックスクールの図書館へ、日曜日の午前にマーガレットは訪れた。この学校の卒業生である彼女は、許可さえ取れば自由に出入りできるようになっている。
マーガレットが図書館の中に入ると、周りの生徒達は彼女に視線を集めた。在校生じゃない人間が珍しいのはもちろんあるが、それよりも、彼女があまりにも可憐で可愛らしいから、周りはどうしても視線が行ってしまうのである。広く透き通るような肌、薄桃色の頬に、形のいい唇に鼻、大きなくつぶらな瞳。それら全てがバランスよく、彼女の小さな顔に並べられている。マーガレットは、周りの視線など慣れたものであり、それらには気にせずとある人物を探す。マーガレットはその人物を見つけると、その人の斜め前の席に座った。その人物は、本を熱心に読んでいたが、視線を感じたのか顔を上げると、マーガレットに気がついて少し目を丸くした。
「ああ、マーガレットか」
静かな図書館の中で、小声でその人物は彼女の名前を呼んだ。マーガレットは頬を赤く染めて軽く会釈をした。
「こんにちは、ランドルフお兄様…」
しばらく本を読んだあと、マーガレットとランドルフは2人で校内のカフェテリアに向かった。お互い紅茶を頼んで席に着いた。
「今週も来ていたんだな」
ランドルフがカップを持ち上げながらマーガレットに話した。マーガレットは黙ってこくりと頷いた。
「家にはない本ばかりだから、卒業したのに休みの日はつい来てしまう」
「わ、私も、です」
マーガレットはぽつりぽつりと話す。ランドルフを前にして何をどんなふうに話したらいいのか、マーガレットは探しあぐねている。嫌われたくない、好かれたい、そう思えば思うほど、どんな態度を取ればいいのか彼女はわからなくなるのだ。
「…そうだ、先日、ヒロに会いに行きました」
「……ヒロに」
ランドルフがわかりやすく表情を変える。ヒロの話を聞きたそうな、しかし、結婚してしまった彼女の話は聞きたくないような、そんな複雑な顔をしている。
そんなランドルフを見ることは、マーガレットには辛いけれど、しかし、ランドルフの気を引ける話題が、マーガレットにはヒロの話しかなかったのだ。
「3ヶ月ぶりだったので、日が暮れるまで話してしまいました」
「そうか、ヒロは元気だったか?」
「元気…」
マーガレットは固まる。元気にはしていた。確かに、これまで見たことがないほど彼女は元気にしていた。しかし、あの状況が健全な状態なのかと言われるとマーガレットには認めがたかった。
マーガレットが黙り込んでしまうと、ランドルフが心配そうにマーガレットの目を見た。
その瞳に、マーガレットの胸は高鳴る。幼い頃の自分に向けられた、あの日のランドルフを思い出す。
幼い頃、マーガレットは親に連れられて向かったパーティーで、そこに来ていた同じくらいの年頃の貴族の男子たちに容姿をからかわれた。変な顔、似合わない髪形。そう言って彼らは集団で面白おかしそうにマーガレットを嘲笑した。今思えばマーガレットの気を引きたくて彼らはそうしてたのだけれど、幼いマーガレットが傷つくには十分な言動だった。小さな頃から勝ち気だった彼女は、負けたくなくて言い返せば、面白がって更に彼らはマーガレットを傷つけた。たまらなくなってマーガレットが俯いたとき、自分の前に誰かが立った。自分より4つ年上のランドルフが、男子たちを簡単に追い払った。体の大きなランドルフに言われると、男子たちは散るように逃げていった。ランドルフは振り返るとしゃがみ込み、目に涙をためるマーガレットに視線を合わせた。
「もう大丈夫だ」
涙をためるマーガレットを、心配そうな瞳が見つめる。自分をからかう同い年の少年たちと違い、ぶっきらぼうながら落ち着いた様子の優しいランドルフに、マーガレットはその日から恋に落ちていた。
「(…でも、ランドルフお兄様は、ヒロのことがずっと…)」
マーガレットは、向かい合うランドルフから目を伏せる。彼が、妹であるヒロのことを好きだというのは、ランドルフに恋をするマーガレットには明白だった。そして、自分と血の繋がりがないとわかってすぐに、アディントン侯爵家のエドとヒロが結婚してしまったことに対して、非常に後悔をしていることも。
マーガレットは視線を上げてゆるく微笑むと、元気すぎるくらい元気でした、と返した。そんなマーガレットに、ランドルフは安心した表情のあとすぐに、エドとうまくいっているのだという予想に落胆した顔をした。そんなランドルフをみていられなくて、マーガレットは目を伏せた。
2人は少しだけ会話をしたあと、すぐに別れた。マーガレットは、重いため息をついて図書館を後にした。