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翌日、守衛たちに見守られながら、ヒロは張り切ってアネモネが植えてあった花壇を耕した。そして、以前耕していたけれど以前の騒動で少し荒れてしまった花壇をまたきれいに整えて、そこにペチュニアの種を植えた。
すべてを終えるとお昼前の時間になっており、ヒロは疲れた体を感じながら一息ついた。空を見上げるときれいに晴れていて、春の暖かい日差しを頬に感じた。大きく深呼吸をすると、胸がすっと爽やかになった。
「(…もしも、エドと一緒に花屋を開いたら…)」
ヒロは目を閉じてそんな想像をする。花に囲まれながらエプロンを付けて店番をするエドを思い浮かべて小さく笑った時、守衛たちがさっと動いた。彼らの視線の先を見ると、なんとマリアがいた。
「えっ?」
予想外の訪問客に、ついヒロは身構える。マリアは、突然失礼、というと、きれいな紙袋をヒロに差し出した。彼女の行動に、守衛がヒロの前に立ちはだかり、彼女から代わりに紙袋を受け取った。マリアは怪訝そうな顔をするが、すぐに何かを察したように、あ…、と声を漏らした。
「そっか、あなた…そうね、そうよね…」
マリアは、少し眉をひそめて心配そうにヒロを見た。そして、何も怪しくないわ、ハンカチよ、と返した。
「前にお借りしたでしょう?それをお返ししに来たのよ」
「あ、ああ…」
守衛が中を確認すると、ヒロに手渡した。ヒロが中を見ると、ハンカチと、それと紅茶の缶が入っていた。
「これ…」
「私の実家の領内の特産品。とっても美味しいんだから。特別に差し上げるわ」
マリアは、ふんっ、と鼻を鳴らしてそう言ったあと、…前はありがとう、と少し恥ずかしそうにし言った。ヒロは目を丸くしたあと、わざわざありがとうございます、とほほ笑んだ。
マリアはそんなヒロを見たあと、心配そうな顔を浮かべて、大丈夫なの?と聞いた。ヒロは、え?と首を傾げた。
「え?じゃないわよ!…その…色々あったじゃない。怪我とか…」
マリアの言葉に、彼女はパメラの件を心配しているのだと気がついたヒロは、なんともありません、とほほ笑んだ。
「ご心配ありがとうございます」
「…気をつけなさいよ!あなた、少しぼんやりとしていらっしゃるようですから!」
マリアはそうヒロに言った。そんな彼女を見て、ヒロは、やっぱりこの人は根っからの悪い人ではないのだと感じる。
柔らかく笑うヒロを見て、マリアは少しだけ呆然とする。
「…あなた、なんだか綺麗になられた?」
「え?」
「前はもっと陰鬱としてたから」
マリアの言葉に目を丸くしたあと、ヒロはゆっくり微笑んだ。
「ありがとうございます」
素直にマリアの言葉を受け取って、ヒロは笑うことができた。マリアはそんなヒロに少し目を見開いたあと、小さく微笑んだ。
「…にしても、泥だらけじゃない。あなたなにをしていたの?」
「あっ、ごめんなさい汚れていて!花壇の整備と、種を植えていました」
「花壇…。あなた、お花が好きなの?」
「はい。庭いじりが趣味なんです」
「へえ…。どおりで綺麗にしているじゃない」
マリアは庭を眺めると、あら、綺麗な花がたくさん咲いているわね、とほほ笑んだ。そんな彼女の横顔を眺めて、ヒロは、それは、と口を開く。
「それは、あなたが幸せだから、そう思えるんですね」
「え?」
マリアはヒロの言葉に頬を染める。マリアは恥ずかしさから口をへの字に曲げると、そ、そろそろ失礼するわ!と言って背中を向けて歩き出した。ヒロは、は、はい、と言うと彼女の背中に軽く会釈をした。
マリアは少し歩いたあと、また振り返り、ヒロの方を見た。
「そのお紅茶、お口にあったのならおっしゃって。また差し上げますから」
「えっ、でも…」
「…以前の失礼のお詫びよ。受け取って」
それでは、と言うと、マリアは去っていった。ヒロは少しの間呆然と立ち尽くしたあと、ゆっくり微笑んだ。
アディントン侯爵の誕生日パーティーの翌日、エドは城からの帰りに、アディントン侯爵に家によるように言いつけられた。
向かう馬車に揺られながら、エドは、何を言われるのやら、と不安に思う。しかし、覚悟は決まっていた。
家のリビングに通されると、メイドがお茶の準備をした。エドの向かい側に、父と母が座っている。
お茶を入れ終えたタイミングで、アディントン侯爵が口を開いた。
「…これから、城での仕事はお前に全部任せようと思う」
「……え?」
父からの意外な言葉に、エドは目を丸くする。
「(…城での仕事に父が一切関わらないということか。見放された…のなら、そもそも仕事自体任せないか。城の仕事が失敗して困るのは父さんのはずだ)」
「家の仕事は、これまでどおり私についてやること。…以上」
アディントン侯爵はそれだけ言うと立ち上がって去っていってしまった。しばらく呆然としていたエドは、少しの間の後、は、はい…とだけ呟いた。
困惑するエドに、母が微笑んだ。
「あの人、あなたに昨日言われてからずいぶん落ち込んじゃったみたい」
「お、落ち込んだ…?」
「ずっと素直に自分の言う事を聞いてくれてたエドが、初めて自分に反抗してきて、…それがだいぶ応えたみたい。色々考え直してみたいよ。笑っちゃうわよね、あんなに横柄な態度だった人が」
ああいう人って意外と打たれ弱いのかしら、と母は笑う。エドは目を丸くしたまま呆然とする。
くすくす、と微笑む母に、エドはさらに困惑する。
母はそんなエドを見つめると目を細めた。
「…あの日、私も考え直したのよ。私もずっと、あの人を含む周りから言われ続けて思い込んできた理不尽なことがたくさんあった。それをエドやヒロにも押しつけようとしてた。自分だって苦しめられてきたくせに、なんだか滑稽よね」
「…母さん」
「家柄しか見ていなかったけれど、ヒロがあなたのお嫁さんになってくれてよかったって、そう思えた。昨日のあなたを見たから」
母はそう優しく微笑むと、あっ、と声を漏らして厳しい顔を作った。
「浮気は絶対に駄目よ!私はお義母様から家のために許せと言われてきたけれど、私は絶対に許しませんからね!」
母はそう強くエドに言った。エドはそんな母に少し驚いたあと、まっすぐな瞳で、しません、と宣言した。そんなエドに、母はまた優しく目を細めた。
「…そうだ、来年はあなたの20歳の誕生日じゃない。パーティーを開かなくっちゃ!」
「…もうですか?来年の話じゃないですか」
「とびっきり豪華にしなくちゃだもの。準備期間はいくらあっても足りないわ。楽しみね!」
そう微笑む母に、エドはずいぶん久し振りに母親の前で素直に笑った。
夕方、エドが家に帰ると、中庭の椅子に座って休憩しているヒロがいた。あの日の後、そのまま荒れていた花壇が綺麗に整備されているのがエドの目に見えた。
エドに気がついた守衛が、彼に挨拶をした。それにより、ヒロがはっとエドの方を見た。そして、おかえりなさいませ、と言うと椅子から立ち上がった。エドはヒロの方を見て優しく微笑んだ。
「ただいま帰りました。…これはまた、ずいぶん張り切りましたね」
「はい!なんだかやる気がみなぎってきて…!」
目を輝かせるヒロに、花屋のことか、とエドは察する。エドは期待に満ちあふれるヒロの瞳を見て、大変言いにくいのですが、と苦笑いを漏らした。
「勘当はとりあえずなさそうでした。またこれからもアディントン家の人間として働きます」
「あっ…そ、そうですか。もちろん、ご両親から勘当されない方が良いに決まっています、よかったです!」
ヒロは一瞬残念そうな顔をしたあと、すぐに安心したような顔をした。そんなヒロを見て、エドは微笑む。
「ずっと父に言えなかったことを、ようやく言えました。あなたがいてくれたからです。ありがとうございます」
エドはそうヒロにお礼を言った。ヒロはエドの目を見て微笑む。エドはヒロの瞳を見つめてゆっくり目を細める。
「これから解放されていきたいと思います。あなたとこんなふうに、笑って生きていきたいから」
「…はい!」
ヒロはエドに笑顔を見せる。そんなヒロを見て笑みを深めたあと、エドは花壇の方に視線を移した。
「何を植えたんですか?前に教えていただいたのに、忘れてしまいました」
「ペチュニアです。色々な色の花が咲くので、楽しみにしていてください」
ヒロは花壇を見つめながら微笑む。そんなヒロの横顔を見つめながら、やっぱりこの人が自分の中で一番綺麗だと、エドは改めて思う。
エドは、そうだ、と声を漏らしてから口を開いた。
「あなたは20歳の誕生日パーティーは、どれくらいの規模のものを開きましたか?」
「え?」
「来年俺が20歳になるので、そのパーティーの準備をすると母が…。あんまり盛大すぎても気恥ずかしいし、かといって小規模すぎたら家の威厳にかかわるし…」
そう言ってエドは考え込む。ヒロは少し黙ったあと、開いてません、と返した。意外なヒロの返事に、エドは、えっ…、と目を見開いて声を漏らした。ヒロは苦笑いを浮かべながら、実は…、と口を開いた。
「20歳になったころ、結婚やら引っ越しやらでばたばたして。…しかも、その頃実子じゃないと知らされたので、両親は開くことを提案したくれたんですが、何となく引け目を感じて断ってしまい、そのままずるずるときて今…という感じです」
あ、あはは…、とまた苦笑いをするヒロを、エドは真っ直ぐに見つめた。そして少しの間考えたあと、それなら、と口を開いた。
「それなら、開きましょう。あなたの20歳のお祝いですから」
「えっ?い、いまさら、ですか?」
「遅すぎることはありません。俺が企画しますから」
少年のように目を輝かせるエドを見て、ヒロは少し呆然としたあと、ありがとうございます、と微笑んだ。




