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エドを仕事へ見送った後、ヒロは中庭で耕した花壇を見つめていた。もう3月も中旬になったので、そろそろ買ってあったペチュニアの種をまこう、とヒロは考えた。

まだ何も植えていない花壇の前でしゃがみこみ、もう少し動きやすい服装に着替えてこようか、なんて考えていると、自分に誰かの人影がかかった。顔を上げると、なんとそこには、パメラがいた。


「あっ…」


予想外の訪問客に、ヒロは驚いて立ち上がった。パメラは、前に会った時よりも少し痩せており、顔は憔悴していた。彼女のただならぬ雰囲気にヒロは危険を察知するけれど、これでヒロが逃げ出して、パメラに、失礼な妻がいる、と吹聴されたら困る、と思うと、まだ何もしていない彼女から逃げるわけにもいかなかった。


「お、…お久しぶりです」


ヒロの方を見て何も言わないパメラに、ヒロはおずおずと話し掛けた。パメラは何も答えずに、何も植えていない花壇の隣で咲いているアネモネの花を見つめた。


「…お母様が亡くなったの」


パメラは、花を見つめながらそう呟いた。ヒロは、え、と声を漏らした。


「お葬式に参列するために、一時帰国が許されたの…」

「それは…お悔やみを申し上げます」


ヒロは深々と頭を下げた。パメラはそんなヒロの方など見向きもせずに、ただぼんやりと花を見ていた。


「…母は私にいつも、あなたの生きたいように生きなさいって、無責任に言う人だった。この国の貴族に生まれた女である以上、そんなことできるわけないのに」


パメラは、色のつかない声でそう淡々と述べた。


「美しいんだから、必ずあなたは良い縁談に恵まれる、なんて、くり返し周りから言われてきた。だから私は言われた通り良い縁談を掴み取ったのよ。周りの期待から外れないように、貴族の令嬢として正しく生きてきた。若く綺麗な間に誰か良い家の人に見初めてもらえるように。…でも、そんなものとても窮屈で息苦しかった。わたしだって母の言う通り、好きに生きてみたかった」


ヒロは、話し続けるパメラを見つめる。


「…エドのことは、目立たなかったけれど、家柄が良い上に、顔立ちが他の誰よりも綺麗だったから声をかけた。私のつまらない人生が、彼によって少しは飾られるかなって。…でも、付き合ってみたらこの上ないくらい退屈な男だった。挙句の果てに、父親に怒られるから遊べないなんて言われて、本当に腹が立った。…周りの言いなりになる自分と同じだと思ったから。でも、数年後見かけた彼は、見違えるくらいに華やかな男になっていた。こんな人を逃してしまったのかとは思ったわ。でもそれ以上に、エドが私と別れたことでこんなに変化したことに、周りが作り上げた塀の中だけで生きてきた私がこんなに他者に影響を与えられたことに高揚したの」


パメラはそう言うと空を見上げて不気味に笑った。そして、ヒロを見た。


「そんな高揚感に浸っていた日々の中、いつかエドはもう一度私に復縁を望むんだとそう思っていた。けれど、エドはあなたと結婚して、私は隣国の王子に求婚された。周りは見たことがないほど喜んだわよ、よくやった、って。周りと同じように喜べない私が楽しみにできたのは、心に留まり続ける女性が、とうとう他の男のものになったとき、ましてや王家に嫁ぐと決まった時、エドはどれだけ絶望するだろうって、それだけだった。…でもあの日、エドは絶望なんかしていなかった。私のことなんか忘れて、あなたと幸せになろうとしていた」


パメラはそう言ってヒロの方を冷めた瞳で睨みつける。ヒロは、そんなパメラを固まったまま見つめ返す。


「…あの日、ようやく私は後悔したの。プライドに阻まれていないで、素直に復縁を望めばよかった、って。…そう思えば思うほど、この絶望的な状況が許せなくなる。私を忘れて幸せになろうとするあの男が憎くて憎くてたまらなくなる」


パメラはそう言うと、花壇に足を踏み入れて、中で咲くアネモネを無差別に踏みつけた。どんどん踏まれていく花を傍観しながら、ヒロは恐怖から動けない。ひとしきり踏み終えると、パメラはヒロの方を見た。


「もう結ばれることがないのなら、せめて私を忘れないでほしい、一生」


パメラはそう言うと、服の袖からナイフを取り出した。ヒロは、驚いて声も出なかった。パメラはナイフをヒロに向ける。目が虚ろになる彼女に、ヒロは、ジムが他の人と結婚してしまった日のことを思い出す。もしも、自分の前にエドが現れなかったら、もしかしたら自分は彼女になっていたかもしれないと、ヒロはうっすら感じる。

パメラはヒロを見据える。


「あの日、自分が傷ついたほうがどれだけましだったか、あの人は思い知るんでしょうね」


パメラはそう笑うと、ナイフを持ってヒロに近づいた。ヒロは、慌てて逃げようとするけれど、脚がもつれてしまった。


「(…こんなときに、私は…)」


ヒロは頭が真っ白になる。体はよろよろと倒れて、なんと、ナイフを持つパメラの脚に体当たりをする形になった。パメラは予想外のことによろけ、そのまま何も植えていない花壇に、ヒロと一緒に倒れ込んだ。その拍子に、手に持っていたナイフがパメラから離れて飛んでいく。


体に土がついたパメラは、しかしそんなことは気にせずにナイフを取りに行こうとする。しかし、同じく土をかぶるヒロが、パメラの腕を力のかぎり引っ張った。そして、彼女を自分の胸の中に抱きしめた。


「もしも、前のあの人が好きなのだというのなら、それは幻想。あの人は以前、自分を削ってそう振る舞っていた。本来、あんな人は存在しない」


ヒロは彼女を抱きしめながら伝える。パメラは、ヒロの腕の中で目を見開く。


「もうこれ以上、こんなところにいなくていい。これ以上自分を傷つけなくてもいい。あなたを愛してくれる人がどこかに必ずいる。あなたが綺麗に咲ける場所がどこかに必ずある」


土の匂いを感じながら、ヒロはパメラを通して昔の自分に伝える。

すると、どうしたんですか!というパメラの声がした。


「な、何の騒ぎですか…?」


ハンナが慌ててこちらにきた。すると、土の中に倒れ込むヒロと見知らぬ女性の姿に驚き、落ちているナイフにさらに驚く。ハンナは慌ててナイフを確保し、だれか、だれか!!と声を上げる。そして、ヒロの方へ必死の形相で向かった。

パメラは、ヒロの手を振り払うと、ヒロを突き飛ばした。ヒロは倒された体を頭だけ起こしてパメラを見上げる。


「綺麗事なんか聞きたくない」


パメラはそう言うと、そのままこの場から立ち去った。ハンナの助けを求める声を聞きつけた屋敷の守衛や他の使用人が来る頃には、パメラはこの屋敷からいなくなっていた。

花壇の上で呆然としたまま倒れるヒロを、慌ててハンナが起こした。そして、ヒロの無事を確認すると、彼女は膝から崩れ落ちた。







パメラがヒロのもとに刃物を持ってやってきた話は、すぐに国王にまで上がった。パメラが隣国では良い妻として問題なく振る舞っていたこと、そして、アディントン侯爵が大ごとにしないと申し出たことにより、この件は不問となった。

アンドリュー侯爵家は、この一件で高めていた評判を落とすこととなった。一方、この一件について大変寛容に対応したアディントン侯爵家は更に評価を上げることになった。


国王との謁見の後、王の部屋から出てきたアディントン侯爵は、ご機嫌な様子で歩く。先ほどの謁見でも、アディントン侯爵はひどく国王から感謝をのべられたためである。そして、そんなアディントン侯爵の少し後ろを、暗い表情のエドが歩く。


「信じられないほどうまくいったな」


アディントン侯爵は、機嫌が良いあまり、歌うように朗らかに、エドにそう言った。エドは、暗い顔をゆっくり上げて、前方を歩く父の横顔を見た。


「ヒロも良妻だな。彼女のおかげでこんなにうまくいったと言っても過言ではない。…欲を言えば、傷の一つでも負ってくれればもっと良かったんだがな」


アディントン侯爵は、冗談のつもりで言ったのかどうなのか、とにかく、高らかにそういった。エドはそんな男の横顔を、憎しみすら浮かべた表情で睨みつけた。


「…もしも」


エドが口を開いた。上機嫌のアディントン侯爵は、どうした?のエドの方を振り向いた。


「もしもヒロに万が一のことがあって、国や家のためにその件が不問にされたとしたら、俺はどんな報いを受けてでも報復しに行ったでしょう」


そう言ったエドの眼差しに、アディントン侯爵は目を少し開く。

その時、別の貴族の男性がアディントン侯爵に仕事の話で声をかけた。アディントン侯爵はエドから視線をそらして、彼と話しはじめた。エドはアディントン侯爵を一瞥すると、彼を置いて歩き出した。












ヒロのもとへ、ビル伯爵夫人がやってきた。近日中にヒロがネックレスを返しに夫人の元へ行く約束をしていたのだけれど、例の件でヒロを心配して彼女の方から会いに来てくれたのだ。

ビル伯爵夫人は、応接室にやってくると、ヒロの顔を見て、まあまあまあ、と心配そうに眉を下げた。


「お怪我はなかったの?」

「はい、なんともないんです」


ヒロは笑ってそう答える。ビル伯爵夫人は、しかし心配そうにヒロを見つめる。

夫人はヒロの向かいに座って、そしてまたヒロの方を見た。


「何もなかったからといって、何も良いことはないわよね。怖かったでしょう?今だって、また誰かが来やしないか恐ろしいでしょうに…」

「守衛の方をしばらくつけていただくことになったので、それは安心しています」

「そう…」

「私より、エドの方が落ち込んでしまって」


ヒロは目を伏せる。夫人はそんなヒロを見て、小さく微笑む。


「…その様子だと、2人の関係は良い方向へ向かっているのかしら」


夫人の言葉にヒロは目線を上げる。そして、借りていたネックレスの箱を彼女の方へ渡した。


「貸していただいたネックレスのおかげで、頑張れました。これからもっと、きちんと向きっていきたいです」


ヒロの瞳に、夫人は笑みを深める。


「あなたにはもう、これは必要ないわ」


夫人は、ヒロからネックレスを受け取った。ヒロは、本当にありがとうございました、と頭を下げた。夫人は、ヒロに微笑みかける。


「でも、またいつでも、お話を聞かせていただけたら嬉しいわ」


そうキュートに微笑む夫人に、ヒロはつられて笑う。そして、ありがとうございます、またお言葉に甘えさせてください、と返した。









ビル伯爵夫人と別れたヒロは、夫人を見送った帰りであることを口実に、守衛たちと中庭を歩いた。あの事件から、エドから屋敷を出ない方が良いと言われてしまい、中庭にも出てこられなかった。

ヒロは、以前アネモネの花が咲いていた花壇を見つめる。そこにはもう花はない。パメラによって折られてしまったため、使用人たちが片付けてしまったのだ。ヒロはその花壇と、春の花を植えるために置いてあったけれど、パメラの騒動で少し荒れてしまった花壇を順番に見た。


「…またきっと、花は育つ」


ヒロはそうつぶやく。守衛は、周りを警戒しながら、奥様そろそろ戻りましょう、とヒロを急かす。ヒロは、またこんな生活に戻ってしまったと思いながら、返事をして立ち上がった。








その日、ヒロは夕食の時間に帰ってきたエドと食事を取った。あの日からずっとエドは表情が暗い。食事中も、ヒロと普通に会話をしているように見えて、ふとした時に表情が曇ってしまう。


寝る準備を終えたヒロはエドの部屋に向かった。エドも寝る支度を終えており、ソファーに座って窓の外を眺めていた。エドはヒロに気がつくと、小さくほほ笑んだ。ヒロもほほ笑み返すと、エドの隣りに座った。


「今日はどうでしたか?何も変なことはありませんでしたか?」

「はい。ビル伯爵夫人がいらしてくださいました」

「そうでしたね。お元気そうでしたか」

「はい。とても心配をしてくださいました」

「そうですか…」


エドは、ヒロの言葉にまた顔を曇らせる。ヒロはそんなエドを見ると、あの、と口を開いた。


「私、今は守衛の方もつけていただいておりますし、安心しています。不安で夜も眠れないとか、そんなこともありません」

「そうですか…」

「だからあんまり、自分を責めるような顔はしないでください。あなたが悪いわけではないんですから」


ヒロの言葉に、エドは少し目を見開く。その後、いえ、と頭を振る。


「…俺のせいであなたを危険に晒したも同然です。俺の過去の報いなんです…」

「…でも、お話を伺う限り、あなたがパメラに何かしたわけではないんですよね」

「それは…」

「例えば、あなたがものすごく女性を良いように使い捨てて、滅茶苦茶に別れを告げたなら、その報いが来るかもしれません。でも、今回のことは違います」


ヒロはきっぱりそう告げる。そしてヒロは、それに、と続ける。


「マーガレットがよくされていたことを思い出します。見た目が華やかだからって近づいてきた人を、傷つけないように対応したら、その人に好きになられて逆上されているところを。私は見た目が美しい人が羨ましたかったけど、そういう人はそういう人の苦労があるんだなって。今回もそういう類だと思います」


…でも、アリスが逆上されているところはみたことがないな、なんでだろう…と呟くヒロに、エドは目を丸くする。ヒロはエドの目を真っ直ぐに見る。


「私が今1番つらいのは、あなたが思い悩んでいることです。どうかこれ以上、自分で自分を責めないでください。あなたのせいじゃないのですから」


エドはヒロと目線を合わせた後、すぐに目を伏せた。


「あの日、あなたがパメラに襲われたと聞いた日、もしあのままあなたを失っていたらと、そう思ったら、怖くてたまらなかった」


エドは目を伏せたまま、そうヒロに返す。ヒロはそんなエドを見つめて、眉を下げる。そして、あの、と口を開く。


「…あの日、私、パメラから逃げようとした時に脚がもつれて転んでしまったんです」

「え?」

「そうしたら、倒れ込んだ拍子にパメラを押し倒してしまって、結果的にそれで無傷で済んだんだと思います。普段からこういう愚図に嫌気がしてたのに、まさかそれに助けられるなんてって、自分の性分に感謝する日が来るとは思いませんでした」


あ、愚図じゃなくて筋力不足でした、とヒロが小さく笑うと、エドもつられるように小さく笑った。そんなエドを見て、ヒロは安心したように笑った。


「だから多分、ちょっとやそっとのことなら、私は平気なんだと思います。そんな自信があります。大丈夫です、そんなに簡単にいなくなりません」


ヒロはそう言うと、エドのことを抱きしめた。エドは、ヒロの腕の中で目を丸くする。


「大丈夫、きっと絶対に、大丈夫です」


ヒロは優しくそう伝える。エドは目をゆっくり閉じると、ヒロの背中に手を伸ばした。ヒロはそんなエドに気がつくと、さらに優しく力を込めて、エドを包んだ。

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