53
アリスの誕生日パーティーは、アディントン侯爵家領内の、時計台の通りの近くにある舞踏会場で開かれた。スチュアート公爵家の令嬢の誕生日パーティーとあって、錚々たる貴族の面々が参加していた。
ヒロは、エドと一緒に会場へやってきた。豪華絢爛なパーティーに、ヒロは目が回りそうになる。
「(…この中のどこかに、ジムがいる…)」
ヒロはそう思うと緊張で体が凍りそうになる。深呼吸をして心を落ち着かせようとしていると、ヒロの手をエドが優しく握った。ヒロが隣のエドをみあげると、彼は優しく目を細めた。ヒロはそんなエドを見て、小さく微笑む。胸に輝くエメラルドグリーンの宝石を手で触れて、ヒロはまた深呼吸をする。
「あら、本日はお越しいただきありがとうございます」
2人の元へ、アリスとウィルがやってきた。ヒロとエドは、おめでとうございます、とアリスに告げる。アリスはにこにこと微笑む。アリスの格好は主役らしく華やかなドレスを身にまとっており、彼女にとてもよく似合っていた。ヒロはアリスの晴れ姿に、感嘆のため息をつく。
「すごく綺麗…」
「まあ、ありがとうございます」
アリスはにこにこと微笑む。ヒロは、ずっと一緒にいた彼女が20歳の大人の女性へと成長した姿に、友人ながら感動のために目に涙が浮かぶ。
「おめでとう、アリス!」
マーガレットがこちらへやってきた。そしてアリスを見ると、わ!綺麗!と感動した様子で言った。
「アリスがもう20歳だなんて、感慨深いわあ…」
「あっ、私も同じ事思ってた」
ヒロが同調すると、ウィルが、親戚目線じゃん、と突っ込む。するとマーガレットが、もう親戚みたいなものかもね、と笑う。それにヒロは微笑み返す。
「ヒロ?」
ヒロは、息が止まった。時間すら止まったようだった。ヒロはゆっくり声の方を振り向いた。そこには、写真より少し大人になったジムがいた。
「…ジム」
ヒロがぽつりと呟くと、エドが目を丸くして、そしてジムの方を見た。
「で、でた…」
マーガレットが苦々しそうにそう呟いた。アリスはにこにこ笑顔のままである。状況がよくわからないウィルは、え?と周りの人物の顔を見回した。
ジムは、久し振りだね、とヒロに微笑みかけた。ヒロは、どんな顔をしていいかわからずに、苦笑いだけを浮かべる。
「はじめまして、ヒロの夫の、エド・アディントンです」
エドは、外向きの笑顔でジムに微笑みかけた。ジムはヒロの隣にいたエドの方を見ると、ああ…、と声を漏らした。
「はじめまして、ヒロの…友だちの、ジム・ベイカーです」
ジムの詰まった友だちの部分にエドは眉をぴくりとさせたものの、笑顔を浮かべたままジムと向かい合った。マーガレットは、少しはらはらしながら2人の対峙を眺めて、アリスは楽しそうににこにことしていた。
ジムは、ヒロの方を見た。そして、口を開いた。
「結婚したんだってね、噂には聞いていたよ、…おめでとう」
「あ、ありがとう…」
ヒロがまたぎこちなく笑う。するも、ジムの隣に赤ちゃんを抱いた女性がやってきた。
「ジム、アリス様にご挨拶しているの?」
女性は親しげにジムに話しかける。彼女の腕の中にいた赤ちゃんは、ジムを見ると抱っこをしてほしそうに身を乗り出して手を伸ばす。それに慌てる女性。ジムは、愛おしそうに笑いながらその赤ちゃんに手を伸ばし、優しく抱き上げた。
「彼女はダニー。それと、息子のアントニオ」
ジムはヒロにそう紹介した。ダニーは、はじめまして、と明るい笑顔を見せた。その後すぐに、もう、と少し怒ったようにジムの方を見た。
「ご挨拶しに伺うならそう言ってよね!勝手に1人で行っちゃうんだから」
「ごめんごめん…」
ジムは眉を下げて困ったように笑う。ダニーは、ごめんなさいね、ばたばたしてしまって、と笑う。とても快活な女性のようで、ジムはダニーに頭が上がらないように見えた。
ヒロは、幸せそうな3人の家族を見つめながら、どこか安心する気持ちになった。明るくて元気な、すてきな奥様に、懐いてくれる可愛い子どもに恵まれた、幸せそうなジムを見て、解放された気持ちにすらなった。
「(…これでもう、私はジムのことを好きでなくてもいいのか…)」
ずっと想い続けるといった約束が果たされなかったことに、ヒロは悲しいとは思わなかった。むしろ、その言葉に縛られていたような気すらする。ヒロはやっと、ビルを見て自然に口元が緩んだ。
エドは、夫婦で仲よさげに会話をするジムとダニーを笑顔で見ながら、内心気が気でなかった。得意の外向けの笑顔ですら歪みそうになる。
「(…ヒロに、いつまでも想い続けるとか言っておいて、自分はちゃっかり他の人と幸せになってるじゃないか…!ヒロがどれだけその言葉を信じていたか…!何が魔法だ、こんなの呪いじゃないか、呪いっ!)」
エドは、ヒロのことを恐る恐る見つめた。すると、思いのほかすっきりとした顔の彼女が見えて、エドは目を丸くした。
しばらくジムとダニーと話すと、2人は去っていった。彼らと会話をしている間、ヒロはずっと笑顔でいた。そんなヒロを、エドはどこか心配な気持ちで見つめていた。
「出たわね…」
ジムとダニーが去った後、マーガレットが腕を組んで怖い顔をした。状況が少しずつ読み込めてきたらしいウィルが、ええと、と声を漏らした。
「彼が、ヒロの忘れられない元恋人ってわけね。うわー、修羅場だったんじゃん。エド心臓大丈夫?」
「まあ…」
エドはそう呟くと、変わらずすっきりした顔をするヒロを見た。マーガレットも心配そうにヒロを見た。
「…だ、大丈夫?」
「うん、思ったより…」
ヒロは胸に手を当てる。そのとき、首元に光るネックレスが目に入る。ビル伯爵夫人の顔を思い出して、ヒロは小さく微笑む。
「…そうだ、少しお化粧室に行ってきます。…変に緊張してたから、汗をかいてしまって…」
ヒロが苦笑いをしながらそう言うと、俺もついていきます、とエドがすかさず言った。ヒロは困ったように笑う。
「で、でも、お化粧室に入るのは…」
「男性入室禁止だよ」
ウィルがエドの肩を叩く。するとエドは、じゃあ途中まででも、と諦めずにいう。ヒロは、大丈夫ですよ、と手を振る。
「本当に、大丈夫です」
ヒロは、そう真っすぐにエドに伝える。エドはそんなヒロを見て、…そうですか、と返す。
「…なら、私がついていきましょうか?」
マーガレットが名乗り出るけれど、大丈夫だよ、とヒロは笑って、1人で会場を一度出た。
会場を出て少し廊下を歩いたところに化粧室があった。ヒロはそこで、ジムに会うかもということで緊張してかいた嫌な汗をハンカチで拭いた。軽く化粧を直すと、ふと置いてあった鏡が目に入った。その時にヒロは、随分久し振りに自分の顔をまじまじと見たことに気がついた。
「(…私って、こんな顔だったかな…)」
ヒロは、鏡に映る自分と目を合わせて、そんなことを思う。鏡を見るのが嫌で、自分の顔を見たくなくて、いつも目を伏せてきた。それなのに今、ヒロは驚くほどじっくり自分の顔を見られた。
「…うん、綺麗」
ヒロはそう呟いてみる。それがなんだか可笑しくて、ヒロは1人で吹き出した。笑っている自分が、なかなか愛嬌があるようにヒロには見えて、ヒロはまた口元を緩める。エドが綺麗だと言ってくれた私。好きだと言ってくれた私。
「あなた、なかなか悪くないわよ」
ヒロは自分に向かってそう言うと、少しだけ息をつき、化粧室から出た。
早いところ会場に戻ろうと足を進めていると、前方に1人の男性が立っているのが見えた。そこにいたのは、ジムだった。
「あ…」
ヒロは足が止まる。ジムはヒロと目が合うと、ゆっくりヒロの方へ歩いてきた。
「…エド・アディントンと結婚したって本当だったんだね。何かの冗談かと思っていたよ。君も君で、彼の妻であることに何の疑問も持たず、呑気に笑ってさ。はたから見たらおかしな光景だったよ」
ジムはヒロの前まで来ると足をとめて、ヒロの方を見下ろした。昔と変わらないジムの視線に、ヒロは目線が泳ぐ。
「(…ジムって、こんな嫌な圧を出していたかな…)」
ヒロは、また背中に嫌な汗が伝うのを感じる。エドと出会ってから、エドのあの優しい視線ばかり浴びてきたから、このジムの目線が威圧的なものであったことにヒロは今になって気がつく。記憶の中にある優しいジムが、どんどんヒロの中で不確かなものになっていく。
ジムは不機嫌そうに顔をしかめる。
「ヒロ、君は騙されている。遊ばれている。あのエド・アディントンが、君みたいな女性と真面目に結婚するわけがないじゃないか」
ジムは半笑いでヒロにそう告げる。ヒロは恐る恐るジムの方へ視線を上げる。ジムはヒロと目を合わせると、はあ、と大きなため息をついた。
「僕は君を心配して言っているんだよ?大好きな君に不幸になってほしくないだけだ」
「じ、ジム…」
「これまでも忠告したじゃないか。君は容姿が人より劣る。人より鈍臭い。誰も君なんか本気で選ばないよ」
ヒロは頭の中がどんどん真っ白になっていくのを感じる。出会った頃は、彼はそんなことヒロに言わなかった。鈍臭いとも、醜いとも言わなかった。それでも、付き合うにつれてどんどんヒロを貶める発言をするようになった。出会った頃の優しいジムの印象が強かったヒロは、彼の発言がヒロを思って言うものだと信じて疑わなかった。
「落ち着いて考えてごらんよ。僕の言う通りだろ?これまでだって、そうだったじゃないか」
ジムの言葉がヒロの頭に響く。脚が震えて、目がチカチカとする。それでもヒロは、エドを信じたいと思った。
「やめて!!」
そう叫ぶと、ヒロは両手で耳を塞いだ。ジムは、あのヒロが大きな声を出したことに目を丸くしていた。
「ヒロ?どうしてしまったんだよ、君らしくないよ」
ジムはまた半笑いでヒロに言う。ヒロは眉をひそめてジムから後退り、距離をとる。
「あんな男に、君が相手にされるわけがないじゃないか。浮かれたら馬鹿を見るよ、ヒロ。変わらないでくれよ、俺の好きだった君からさ」
ジムの言葉が、ヒロの心臓を殴りつける。ヒロは更に強い力で耳を塞ごうとする。
「ヒロ!」
会場の方から、エドがヒロの方へ駆け寄るのが見えた。ヒロはエドの姿に安堵するけれど、先ほど言われたジムの言葉に心が揺らぐ。
「(どうして私は、こんなにもジムの言葉に揺らされる…)」
ヒロは動揺して頭が真っ白になり、エドに背を向けるとその場から逃げ出した。
「ヒロ!待って!」
エドはヒロの背中にそう声をかけるけれど、ヒロは止まらない。エドはジムの前に来ると、鋭い視線で睨みつけた。
「彼女に何を言ったんですか」
エドがジムに詰め寄ると、ジムは、ええ?とエドに少しおびえたように首を傾げた。
「大したことじゃありませんよ」
「本当にそうだとしたら、彼女はあんな顔をしません」
「……忠告しただけですよ、゛友人として゛、ね」
「……」
エドはジムを見据える。先ほどヒロと向かい合っていたときの勢いを無くしているジムは、エドの冷たい視線に少しおびえる。
「…彼女の言葉の端々から察していました。あなたのかけた言葉を、彼女は真実のように受け入れて、そして苦しめられてきた。そんな彼女を、ずっと俺は見てきました」
エドはジムの方をまっすぐに見つめて口を開く。ジムは、エドの視線にたじろぐ。
「もうこれ以上彼女を呪うな。彼女は綺麗だ」
エドはそう言うと、ヒロを追いかけて走り出した。
「でも、君もよくそんな男を招待したよね。修羅場になるのわかってんじゃん」
ウィルが呆れたようにアリスに言う。マーガレットは、仕方がないじゃないですか、とウィルに言う。
「家の関係で、呼ばないわけにはいかなかったんでしょう?」
「え?そうなの?」
ウィルがきょとんとした顔をする。マーガレットはそんなウィルに、え、と声を漏らした後、アリスの方を見た。アリスは変わらずににこにこしている。そんなアリスに何かを察したマーガレットは、眉をひそめる。
「…わざと呼んだわけね?」
「ふふ、思い出の中だけですと、過度に美化されてしまいますから、そろそろ実物を見たほうが良い頃かと思いまして」
頬に手を当ててマーガレットは微笑む。ウィルはそんなアリスに、相変わらず怖い女だな、と呟く。アリスはそんなウィルの言葉にも、にこにこ笑顔のままである。
マーガレットはそんなアリスにため息をついた後、でも、そうかもしれないわね、と呟いた。
「ジムって昔からヒロには威圧的で、変だとは思ってたのよ。ヒロに言ってもいまいち伝わらないし、ヒロの好きな人のことをあんまりとやかく言うと悪いし…」
「あら、マーガレットはお二人が付き合っていた頃からそこそこヒロにお伝えしてましたよ?まあまあきつい言葉で」
「それはアリスもそうじゃない」
「(…ヒロってなんでこの2人と仲良くできるんだろう…)」
ウィルは、気の強い2人を順番に見ながら首を傾げる。その後、でも、と呟く。
「彼はそんなに圧強い感じの人に見えなかったけど。むしろ奥さんにへこへこしてたじゃん」
「口答えしない人には上からの態度になれる、ってタイプでしょ?…結局あの人って、ヒロが好きっていうよりかは、ああいう大人しい女の子をコントロールして楽しんでただけなんじゃないかしら。だから容易に、ヒロを置いて別の人と結婚してしまえた」
マーガレットはそう言い終わると、ぎりぎりと苛立ちを隠せない顔をした。ウィルは、えー、まじ、と呟く。
「あの感じだとめっちゃいい旦那さんに見えたけど。わかんないもんだね」
「あの奥様とご一緒だと良い旦那さまになれているのなら、あの夫婦はそれで上手くいくんじゃないでしょうか」
ふふ、とアリスは微笑む。マーガレットは腕を組むと、もうヒロには金輪際近づいてほしくないけど、と呟いた。
「…で、ヒロと、ヒロを探しに行くっていったエドは?」
ウィルが尋ねると、アリスとマーガレットは2人で顔を見合わせて黙った。アリスは周りを見て、あら、と微笑んだ。
「奥様とお子様はいらっしゃるのに、ジムの姿がありませんわね」
「……」
マーガレットは顔を引き攣らせる。ウィルは、なるほど、と手を叩いた。
「修羅場だな」
「ですわね」
「…なんでそんなに楽しそうなのよこの兄妹…」
マーガレットはため息をついた後、あーもうヒロ…、と心配そうな声を漏らした。
パーティー会場から逃げ出したヒロは、気がついたら時計台の前にやってきていた。大きな時計台を見上げると、修理をしていた職人達が、時計台の周りを囲う足場を取り外す作業をしていた。
「(…もう、修理は終わったんだ…)」
ヒロは、取り残された気持ちで時計台を見上げる。辺りはもう薄暗くなっている。通りを歩く人の姿はほとんどない。ヒロは静かな中で、じっと時計台を見つめる。
「ヒロ…」
息を切らしたエドが、ヒロのそばにやってきた。ヒロはエドの方を振り向いて、あっ…と声を漏らした。
「…ごめんなさい、私、こんなところまで、飛び出して…」
ヒロは、目の前に来たエドに謝る。エドは、そんなヒロを見つめて、いえ、と頭を振った。
「あなたが無事に見つかったなら、それで良いんです」
エドはそう言うと、乱れた呼吸を整えるように一度深呼吸をした。そして、ヒロの目を見た。
「…もう家に帰りましょうか。彼に会うことが、耐えられなかったんでしょう?」
エドはそうヒロに尋ねる。ヒロはしばらくエドを見つめて黙った後、違うんです、と頭を振った。
「幸せそうなあの人を見たとき、私、安心したんです。私はもう、あの人を好きでいなくて良いんだって、解放された気すらしました。このままあなたのことを真っ直ぐに好きになれる、信じられるって。…自分でも驚いています。でも、…でも、彼と2人で話したら、昔みたいなことを言われたら、…また私は、自分が、あなたが信じられなくなった。ごめんなさい、こんな自分が、自分でも嫌いです、大嫌いです」
ヒロは、目を伏せると震える腕を自分の手でさすった。ジムの言葉を真に受けてしまう自分がいる。信じ切ってしまう自分がいる。かつて、彼は自分のすべてだった。選ばれたことのない自分をわざわざ選んでくれたたった1人の男の人だった。その記憶が、嬉しかった思い出が、ヒロの頭や心からこびりついて取れない、
エドは、真剣にヒロの話を聞いた後、一度目を伏せた。それから、真っ直ぐにヒロの方を見た。そして、震える腕を擦るヒロの手を、ゆっくり握った。ヒロは伏せた目をゆっくりエドの方に向けた。
「俺は、あなたにかけられた魔法を解きたい。でも俺は、魔法使いなんかじゃないから、ただのなんでもない男だから、だからすごく長い時間がかかるかもしれない。それでも、一生をかけてでも、あなたのその魔法を解かせてほしいんです。あなたに、あなたがとても綺麗だと気づいてもらえるように。この世界に、あなたを愛する男が他にもいるんだと知ってもらえるように。いつか魔法が解けたあなたの笑顔のそばにいる権利を、どうか俺にください」
ヒロは、エドの瞳を見つめて息を呑む。何かを言いたくても、言葉が何も出てこず、ただただ、喉の奥がきゅっと締まる。それでも、胸の奥から熱い何かがこみ上げて苦しくなる。気がついたら、ヒロの瞳から涙が溢れていた。頬に一粒、また一粒と涙が伝う。
エドはハンカチを取り出すと、ヒロの涙を優しくぬぐった。ヒロは、その手を両手で握った。そして、自分の眉間にその手を当てた。
「ありがとう…」
ヒロは、涙で震える声でやっとそう伝えられた。エドはそんなヒロを優しい瞳で見つめた後、ヒロの手からそっと逃れると、ヒロを自分の腕の中に抱き留めた。ヒロはその腕に安心した気持ちで収まる。エドの背中に手を回して、肩に顔を埋める。
ずっと自分のいるべき場所がなかった。世界から自分は拒絶されていて、それは他者から愛されるに値しない自分が悪いのだと、そう思いこんでいた。
「(…私はここにいてもいいんだ)」
ヒロはそんなことを、心の底から安心した気持ちで思う。怖くても、顔を上げてみたら、周りを見渡してみれば、自分を受け入れてくれる人がいる、世界がある。そこへ一歩、足を踏み出したい。未知の世界だとしても、それでも。
その時、6時を知らせる時計の鐘が鳴り響いた。ヒロとエドは、聞こえたその音に、同時に顔を上げて時計台を見上げた。
「…とうとう直ったのか…」
エドはぽつりと呟く。ヒロは少しだけエドから体を離すと、もう一度時計を見上げる。そして、本当ですね、と言うと小さく微笑んだ。
エドはもう帰ろうと言ったけれど、アリスたちに迷惑をかけたくなくて、ヒロは会場に戻った。ヒロの姿を見ると、マーガレットが心配した顔で近づいてきた。
「よかった!帰ってきた…!」
マーガレットはそう言うとヒロに抱きついて頬ずりをした。ヒロが、心配をおかけしました、と謝ると、ほんとよ!とマーガレットがヒロの目を見て言った。
「よかった、帰っていらしたんですね」
アリスはにこにことヒロに言う。ヒロは本当にごめんなさい、と謝る。ウィルは、物言いたげにアリスの方をじっとみる。
「(こうなるとわかってたくせに、怖い女…)」
「大丈夫ですか?」
子どもを抱いた心配そうな顔をしたダニーが、ジムと一緒にこちらへ来た。
「ジムから聞きましたよ、体調が悪かったって…。その、…ジムと昔お付き合いしていた方だから、勝手に気になってしまって…」
ごめんなさい、まどろっこしいのは苦手で…!とダニーは言うと、ヒロの顔をまじまじと見て、心から心配する様子で話しかけてきた。ダニーが自分とジムの関係を知っていたことに驚きつつ、ヒロはそんな彼女を見つめて、大丈夫です、と微笑む。そんなヒロとダニーを見ながら、ジムはバツの悪そうな顔をする。
エドは、ジムとダニーの方を見た。
「お二人は、幸せですか?」
エドの質問に、ダニーは目を丸くした後、屈託無く微笑んだ。居心地の悪そうなジムも、彼女につられて笑う。
「はい、とっても!」
そう言って、ダニーは腕に抱いた子どもにほおずりをする。そんな様子も、ヒロは笑顔で見つめられる。エドは、そうですか、と微笑む。
「俺たちはまだ結婚したばかりで、でも必ず幸せになります。俺が彼女を幸せにします」
エドはそう言うと、ヒロの肩を抱いた。ダニーは、まっ!と顔をほころばせながら、やだ!素敵!と声を漏らした。そしてジムの背中を軽く叩いて、なんだかにやけちゃうわね、と笑った。ジムは何かを言いたそうな顔をヒロに向けるけれど、ダニーにそう同意を求められて、そうだね、と笑顔で返した。ダニーはじっとヒロを見つめると、小さく微笑んだ。
「…今日、あなたにご挨拶するの、私躊躇してたんです。経緯が経緯だから…。でも、あなたの姿をみて、大丈夫そうだなって。だってとっても、幸せそうだったから」
ダニーはそう言うとまた屈託無く笑う。ヒロはそんな彼女を少し呆然と見つめる。ダニーはジムを小突くと、私達も負けてられないわね、と冗談めかして言う。
「さあ、そろそろ行きましょうか」
ほらいくわよ、とダニーはジムを急かす。ジムは、う、うん…、と返すと、ダニーと一緒に去っていった。その背中を、ヒロは見つめる。
「…なんていうか、豪傑な奥様ね」
マーガレットは目を丸くしてそう呟く。ウィルは、あの人になら永遠に頭上がらなさそうだな、と声をもらす。ヒロは小さく微笑んだ後、エドの方を見た。エドはヒロと目を合わせると口元を緩めた。
マーガレットはヒロとエドを順番に見ると、口角を上げた。
「なによお、心配して損しちゃった」
マーガレットは拗ねたように言うと、くすくすと笑った。ヒロは、えっ、と声を漏らして恥ずかしい気持ちで目を泳がせた。アリスは、そんな2人を見てにこにこと微笑む。
エドとウィルは、そんな3人を見て小さく微笑む。ウィルはエドを小突いた。エドは怪訝そうにウィルを見た。
「…なんだよ」
「これで諸々の障害はなくなったのかな?」
「…どうだろうな」
エドはぽつりと呟いたあと、でも、と続ける。
「でもこれから、何かあっても、何がなくても、大丈夫なんだと思う」
エドはそう言うと、3人の輪の中で笑うヒロを見つめて微笑む。ウィルは目を丸くした後、ああそう、と返す。
「それはどうも、ご馳走様です」
「…聞いといてなんだよその反応は」
そうため息をついたエドを、ウィルはもう一度小突いて、そして笑った。




