52
「今週の日曜日、ご予定はありますか?」
夕食の時間、ヒロはエドに尋ねられた。とくにありません、と答えると、では歌劇を観に行きませんか、と誘われた。ヒロは少しだけ目を丸くした。
「歌劇ですか?」
「…陛下が例の件で俺たちのことをすごく気にかけてくださって、これに2人で行ってきなさいとチケットをくださったんです。あなたが歌劇をそんなに好きじゃないのはわかっているんですが、無下にはできず…」
エドが申し訳なさそうにヒロにいう。ヒロはじっとエドを見る。
「あなたは、歌劇が好きなんでしたっけ?」
「俺ですか?俺は、はい、そうです」
「…それなら、行きます、行きたいです」
ヒロの返事に、それなら良かった、とエドは目を細めた。ヒロはそんなエドを見て嬉しい気持ちになると、あの、と続けた。
「演目は何ですか?事前に原作を読んでおきたくて」
「えっと…あ、原作が書斎にあるはずです。探して持っていきます」
「ありがとうございます。内容を知っていたら、言葉は分からなくても楽しめそうですから」
ヒロが意気込むと、エドはまた目を細める。ヒロはそんなエドを見て微笑む。
「(次は楽しみたい…!この人が好きなものの楽しさをわかりたい…!)」
「(…ん?それなら?俺が歌劇を好きだから、それなら行くと言ってくれたのか…?)」
エドがはっとして向かい側のヒロの方を見ると、ヒロは、どうかしましたか、と笑顔で尋ねた。そんなヒロを見るとエドは何も言えず、少しずつ熱くなる頰を感じなら、い、いえ…と濁す。エドを見ながら、ヒロは不思議そうに首を傾げた。
日曜日に、前に連れてきてもらった劇場へ足を運んだ。座席についたヒロとエドは、パンフレットを軽く読みながら開演を待っていた。すると、隣の席に座った2人が、あっ、と声を出した。ヒロが顔を上げると、そこにはマリアとレオンがいた。ヒロもエドと目を丸くして2人を見上げた。マリアは驚いた顔をしたあと、ふんっ、とそっぽを向いたけれど、指定された座席がヒロの隣だったため、渋々腰を掛けた。ヒロは、お、お久しぶりです…、とおずおずと頭を下げた。マリアは、ヒロを一瞥すると、あんなこと言われて、よく話しかけてこられるわね、と刺々しく言った。ヒロはそんなマリアに目をまるくした後、苦笑いを浮かべた。マリア、と嗜めるように言ったエドは、ヒロの肩を叩き、俺と席をかわりましょう、と言った。ヒロはエドに言われるがままエドと席を交代した。するとマリアが嬉しそうにエドの方を見上げた。それを見たレオンが、駄目だ!と憤慨した様子でマリアの方へ身を乗り出した。
「マリア、僕と席をかわって!こんなやつの隣なんて、何をされるかわからないよ!」
「しないよ」
エドが呆れたように返すが、レオンは強引にマリアと席を代わった。マリアはそんなレオンを見て、もう、ヤキモチ妬きなんだから、と小さく笑った。だってマリア…、とレオンは甘えたようにマリアの方を向く。仲睦まじいようすの2人に、ヒロとエドは、えっ、と声をもらす。驚いた2人を見たレオンが、ふふん、と鼻を鳴らしたあと、ヒロの方を見た。
「礼を言うよ、ヒロ。君がエドを繋ぎ止めてくれていたから、マリアが諦めて僕と向き合ってくれたんだ。君程度でそんなことができるなんて思ってもなかったから、びっくりだよ」
ははっ、と失礼をかましながら笑うレオンに、ヒロは苦笑いを浮かべるしかない。するとエドが冷めた瞳と表情で隣のレオンを睨みつける。それに、レオンは、ひっ、と小さく声を上げる。
「俺の妻に失礼なことを言うな。訂正しろ、今すぐ」
「ご、ごめんなさい…」
「い、いいんです、気にしていませんから…」
ヒロがレオンを詰めるエドの腕を引く。エドはヒロの方を見て、駄目です、とヒロに言う。睨みを利かせるエドと縮こまるレオンに、ヒロは、せ、席をかわりましょうか、ね、とエドを引っ張って、もといた場所に座った。怯んだレオンはなるべくエドから遠ざかりたいようで、マリアと席を変わっており、結局全員最初と同じ席に戻った。
「(…結局こうなってしまった…)」
ヒロは、じっと見てくるマリアの視線を見返して、苦笑いを浮かべた。マリアは、そんなヒロを見たあと、ふんっ、とそっぽを向いてしまった。
「…やっぱり、席をかわりましょう」
心配そうな顔をしたエドがヒロに言った。ヒロは、まだおびえるレオンをちらりと見たあと、大丈夫ですよ、とエドに微笑んだ。エドはしかし心配の顔をやめず、さっきのことも、忘れましょう、とヒロに言った。ヒロはエドの方を見て、レオンに言われたことにさほど傷ついていない自分がいることに気がつく。いつも、何か傷つけられようとしたら、心にふたをしてしまうのに、今は何を言われても、動じない自分がいた。
「…ありがとうございます、でも、大丈夫です」
「でも、」
「あなたが違うって、そう言ってくれるから、だから大丈夫です」
ヒロはそう言って目を細める。どんなに周りに否定をされても、隣にいるこの人が肯定してくれる。その事実に、強くなれる自分がいることにヒロは気がつく。結局、絶対的な正解なんてものはどこにもなくて、それなら信じたいものを信じたいと、ヒロは思う。目の前の人が自分を綺麗だと言ってくれる、好きだと言ってくれる。その言葉を、自分の中での真実だと思いたい。たとえ世界が嘲笑したとしても、馬鹿にしたとしても、それでも。
「(…いや、綺麗とかは、うん、まだ受け入れるのは…)」
自分で思って自分で照れてしまうヒロは、自分の手と手を合わせて、なんとなく落ち着かない気持を誤魔化す。
エドは少し目を見開いたあと、はい、と頷いた。ヒロが微笑み返したとき、上演開始のブザーが鳴った。
舞台の幕が下りたとき、ヒロは感動して目が潤んでいた。会場の拍手が止んだあと、隣に座るエドにヒロは、すごく感動しました…!と素直に告げた。そんなヒロを見て、それはよかったです、とエドはうれしそうに返した。
ヒロは指で涙を拭いつつ、これまでは食わず嫌いだっただけかもしれない、なんて心の中で呟く。ふと隣を見ると、顔中涙まみれになったマリアがいた。ヒロが驚いて固まったままマリアを見ていると、その視線に気がついたマリアが、ぎっとヒロを睨み、何見てんのよ!と鼻が詰まった声で言った。
ヒロは慌てて自分のハンカチを探して、マリアに差し出した。マリアは、いらないわよ!持ってるから!と言って自分のハンカチをさがした。しかし、どうやら忘れてきたらしく、ヒロの方をまた見ると、借りてあげるんだから!と言ってヒロの手からハンカチを取って涙を拭きはじめた。
「よ、よかったですよね、私も感動しました」
ヒロが恐る恐るマリアに話しかけると、マリアは涙を拭きながらちらりとヒロを見た。そして、ふんっ、と鼻を鳴らすと席を立った。
「これ、洗ってお返しするから!」
マリアはそう言うと、ぷいっとヒロから視線を逸らして去っていった。その背中を、レオンが慌てて追いかけていく。ヒロとエドは、2人の背中を少しの間呆然と見つめた。
「(…悪い人ではない、のかな…)」
ヒロは涙を拭くマリアを思い出しながらそんなことを思う。あの日の彼女に言われた言葉も、エドを好きなあまりに出た言葉だと気がつけば、自分自身は傷つけられたわけじゃないと思える。ヒロはマリアの背中を見つめて小さく微笑む。
「…騒がしい2人でしたね」
エドがそう苦々しい顔で呟く。ヒロはそんなエドを見たあと、でも、印象がかわりました、と微笑んだ。エドは不思議そうに、そうですか?と首を傾げた。ヒロはそんなエドを見て、はい、と笑った。エドはヒロを見てやはり不思議そうな顔をしたあと、しかしヒロにつられるように笑った。
この日は、アリスの家に、いつもの3人が集まった。アリスの家の中庭に置いてあるガーデンテーブルに座り、綺麗に世話のされた庭を眺めながらお茶をしていた。ヒロはふらふらと椅子から立ち上がると、綺麗に咲いている花を見つめた。そんなヒロの背中を見つめながら、マーガレットは微笑む。アリスはにこにこと微笑むと口を開いた。
「無事、お二人が仲直りできたみたいで安心しましたわ」
ふふ、と口元に手を当てるアリスに、マーガレットは、う、と声をもらす。
「アリスには心配かけたわよね、ごめんなさい」
「あら、心配なんてしていませんでしたわ」
アリスの言葉に、ヒロとマーガレットは、え、と声をもらす。アリスは頬に手を当てて、だって、と口を開く。
「必ずまたこうやって集まれるって、そう思っていましたから」
アリスにそういわれて、ヒロとマーガレットは顔を見合わせて、そして笑った。
「そのヒロの様子ですと、エドとも仲直りできましたのね?」
「はい、お陰様で」
ヒロは立ち上がると、ご迷惑をおかけしました、と2人に頭を下げた。マーガレット、ほんとよ!と笑う。ヒロは、本当にごめんなさい!とまた頭を下げる。
「…でも私、これからはきちんと、エドの方を見ようと思う。信じようと思う。信じたいって、そう思えるから」
ヒロの表情を見て、マーガレットとアリスはゆっくり微笑む。マーガレットは、それなら、とヒロの方を見る。
「ジムからはようやく解放されるってわけね?」
「えっ、そ、それは、おいおい…」
「なにそれえ!エドを好きになるってことはそういうことでしょう?!」
「で、でも、忘れるっていうのも難しくて…」
口籠るヒロの方を見て、マーガレットは小さくため息をつく。
「まあ、…ジムってなんかヒロには威圧的っていうか、物言いが偉そうだったから、ヒロ、思い込まされてるのよ」
「え?」
マーガレットの言葉に、ヒロは少し固まる。マーガレットは、気づいてないの?と呆れたようにいう。マーガレットに言われた意味が分からずに混乱するヒロに、そうでしたわ、とアリスが両手を合わせて微笑んだ。
「来週私の20歳の誕生日パーティーを開かせていただきますけれど、招待状は届きましたでしょうか?」
アリスの言葉に、ヒロとマーガレットは頷く。マーガレットが、でも、と呟く。
「どうして会場がアディントン家領の舞踏会場なの?」
「前回お父様のお誕生会をスチュアート公爵邸でしたばかりですから、あまりにも時期が直近すぎて見栄えがないかと思って。かといって、家の舞踏会場が改修工事中でして、ほかに大きな会場といえば、アディントン侯爵家領のものでしたから」
「なるほどねー」
マーガレットは、楽しみにしてるわ、とアリスに微笑む。アリスはマーガレットに微笑み返したあと、ヒロの方を見た。
「それで、ヒロには申し訳ないんですが…」
「え?どうしたの?」
「家の関係で、どうしてもベイカー侯爵家の方々をお呼びしなくてはならなくって…」
アリスの言葉に、ヒロは固まる。目をまるくしたマーガレットが、それって…と呟く。
「それって、ジムが来るってこと…?」
「はい、今回ばかりはどうしようもなくって…」
「…」
ヒロは小さく深呼吸をする。そして、アリスの方を見て、もちろん大丈夫、と告げた。マーガレットは心配そうに、でも、とヒロの方を見る。
「大丈夫、だと思う、きっと」
ヒロはそうアリスに言うと、ゆっくり微笑んだ。そんなヒロを、アリスはにこにこの笑顔で見つめ返す。マーガレットは、不安そうにヒロとアリスを交互に見ていた。
その日、エドは夕食の時間には帰ってこなかった。
寝る前にエドが帰ってきた音がしたため、ヒロはドアをノックして、返事のあとエドの部屋に入った。
「ただいま帰りました」
仕事帰りのエドは、ヒロの顔を見ると安心したように笑った。そんなエドに笑い返すと、ヒロは、あの、と話しはじめた。
「来週、アリスの20歳の誕生日パーティーですよね」
「ああ、そうだった。着ていく服の準備をしておかないといけませんね」
「はい。その、あの、そのパーティーに、」
ヒロは言いかけて、急に言葉が止まってしまった。エドはヒロの異変に気がつくと、ヒロの方に近づき、ヒロの瞳を見た。
「…何かありましたか?」
優しいエドの声に、ヒロは安心する。ヒロは深呼吸をして、あの、と続ける。
「それに、ジムも来るみたいなんです」
エドがヒロの目を見たまま硬直した。ヒロは、アリスが気遣ってくれたんですが、家の関係でどうしても呼ばなくてはいけないらしく…と続ける。エドはそんなヒロの言葉を聞きながら、少しだけ首を傾げる。
「(…スチュアート公爵家とベイカー侯爵家にそんなに親交があったか…?…俺が知らないだけか)」
「ですからその、一応、お伝えをと思って…」
ヒロはそうエドに言った。エドはそんなヒロを見て、口元を緩めた。
「…参加しないでおくんですか?」
「いっ、いえ、します!アリスのおめでたい日ですし、それに…」
ヒロは少しだけ目を伏せたあと、それに、と続ける。
「あなたがいてくれたら、ジムに会える気がするから。ジムが別の人と幸せになっていても、あの約束を守ってくれていたとしても。悲しくなっても、申し訳なくなっても。おめでとうと言わなくてはいけなくても、ごめんなさいと言わなくてはいけなくても、それでも」
ヒロはそう言い終わると深呼吸をした。自分が、ジムとのことを片付けたいと思っていることに気がつく。何度も何度も顔を出す記憶の中の優しいジムを、過去のものにしたいと、そう願う自分がいることに。
エドはヒロの瞳を見つめた後、あの、と口を開いた。ヒロはエドの瞳を見た。エドは大真面目に、抱きしめてもいいですか、と尋ねた。ヒロは、少し驚いた後、は、はい!と言うと両手を広げた。エドはそんなヒロを優しく包み込む。ヒロはおずおずとエドの背中に手を回す。
「(男に二言はない…。とはいえ、もしもこの人がジムのところへ行くことにしたら…。もしかして、前の送迎パーティーのとき、ヒロはこんなふうに思っていたのだろうか)」
「(…この人のことだけを、好きになりたい。もう忘れたい)」
「(俺は彼女に、自分の気持ちを伝えきれているのだろうか)」
「(そして、自信を持って伝えたい。後ろめたい思いなどせず。あなたが好きだと)」
ヒロとエドは、ゆっくりお互いの体を離した。そして、目と目を合わせた。
「…きっと、素敵なパーティーでしょうね」
エドの言葉に、ヒロは、はい、と頷く。エドはそんなヒロに目を細めた後、寝る準備をします、と言ってシャワールームに向かった。ヒロはその背中をすこしぼんやりと眺めた。
ヒロは、ビル伯爵邸に向かった。応接室に通されると、ビル伯爵夫人が笑顔でヒロを迎えた。
「あらいらっしゃい。その顔は、…うまくいったのかしら?」
「はい。お騒がせしました」
ヒロは夫人に頭を下げて、エドのことはヒロの勘違いだったこと、それと、仲直りができたことを告げた。夫人は安心したように、そう、よかった、と微笑んだ。
「夫人に教えていただいた通り、きちんと顔を見てみました。声を聞いてみました。怖くても、それでも、…やっぱり私は、あの人のことが好きだって、そう思ったから」
ヒロはそう言えた。ヒロを見て夫人は優しく目を細める。
「初めて会ったときとは、違う人を見ているみたい。どこか心もとなくて、不安そうだったのに」
「私が、ですか?」
「ええ。自信が見えるわ。今日着ている服もとっても素敵だわ」
夫人は、ヒロが着てきた、前にエドに選んでもらったワンピースを見てそう微笑む。ヒロは自分の服を見たあと、ありがとうございます、と目を細めた。
「その、それで、厚かましいお願いだとはわかっているのですが…、また、あのネックレスをかしていただけないでしょうか」
ヒロの言葉に、夫人は笑みを深める。
「もちろんよ。…ということは、また何かあるのね?」
「…友人のアリス…アリス・スチュアートの20歳の誕生日パーティーが開かれるんです」
「あら、あちらのお嬢様、もうそんなに大きくなられたのね」
「そこに、…私の好きな人が、くるんです」
ヒロの話を、夫人は真っすぐに聞く。そして、ゆっくり微笑んだ。
「他の人と人生を歩きだしたその人のことを、私はきちんと諦めたい。忘れたい。私は、エドのことが好きな自分が、今までずっと俯いてきた自分よりも、好きだから」
「…きっと大丈夫。あなたとエドなら、きっと」
夫人はそう言うと、優しい目でヒロを見た。ヒロは夫人の目を見て、ありがとうございます、と頭を下げた。




