5
結婚式が終わり、着替えを終えたヒロは、この屋敷のメイドに連れられて自室に向かった。屋敷の中では、たくさんの使用人たちが、結婚式の後片付けのために忙しなく動いている。
すると、廊下の向こうからアディントン侯爵夫妻がやってきた。彼らはヒロを見ると笑顔でこちらへやってきた。
「あら、ヒロ。とっても綺麗だったわ」
アディントン侯爵夫人が、ヒロに微笑みかける。ヒロは、笑顔を返して、深々とお辞儀をした。
「今日からどうぞ、よろしくお願いいたします」
「ああ、これからエドと2人、しっかりね」
アディントン侯爵はそう言うと、さあいこうか、と夫人の肩を抱いた。ヒロは、どこへ、と思いながら二人の背中を見つめる。すると、父さん、母さん、というエドの声がした。エドは2人の後を追いかけた。2人はエドを見ると立ち止まった。エドは両親の顔を見た。
「もう行くんですか」
「ああ」
「ああ嬉しい。ずっと楽しみにしていたのよ、あの新居に住むの」
夫人の新居という言葉に、ヒロは、えっ、と声を漏らす。ヒロの驚いた顔に、夫妻は顔を見合わせた後エドの方を見た。
「おい、言ってなかったのか?」
「伝える機会がなくて」
「私たち、今日から引っ越すのよ。この家は新婚の2人でゆっくり使ってね」
アディントン夫人はそう言うと、私たちも2人きりのほうが気が楽だしね、と夫と目を合わせた。アディントン侯爵は、夫人を愛おしそうに見つめる。ヒロは、ぽかんと2人を見る。
「(…仲いいな…)」
「それじゃあ、本当にもう行くぞ。…ああそうだエド、前の件、しっかりできているんだろうな」
アディントン侯爵が、エドにそう問う。エドは、はい、の淀みなく答える。
「できています」
「当然だ。さあ、行こうか」
アディントン侯爵は夫人の肩を抱いたまま、扉の方へ歩き出した。仲の良さげな2人はこの屋敷から出ていってしまった。
「(…アディントン侯爵たちとも一緒に住むんだと思っていたのに…)」
義理の両親がいないなら気を使わなくてもいい。がしかし、この男と2人だけ(使用人はたくさんいるけれど)というのも、なんとも居心地が悪そうに思えた。ヒロは、ゆっくりエドの方を見た。エドはヒロの方を見ると、特に色のつかない瞳をヒロに見せた。これまでの社交的な笑顔の消えた彼の表情は氷のように冷たくて、ヒロは緊張して体が凍ってしまう。
「一応、生活のルールの話をしましょう」
ヒロが年上だから一応敬語を使っているのだろうが、エドからは敬意の念は何も伝わらなかった。
「食事は別、部屋はもちろん寝室も別。俺の仕事の送りも出迎えも結構です。俺たちは同居している他人ですから、プライベートにはお互い口出ししないようにしましょう」
淡々と、エドの口からここでの生活のルールが説明される。ヒロは黙ってエドの説明を聞いた。
「以上です。何か質問はありますか」
エドは無表情でヒロの方を見た。ヒロは、いいえ、と頭を振った。エドは、それでは、とヒロに言うと、無言でヒロの横を通り過ぎて、使用人を連れて自室に向かった。
「お、奥様……」
あまりにも冷淡なエドの態度に、ヒロを自室へ案内しようとしていた使用人は、なんと声をかけてもいいのかわからないような顔をする。ヒロは、彼の姿が見えなくなったあと、こみ上げる喜びから、やった!と小さくガッツポーズをした。そんなヒロに、使用人はきょとんとした。ヒロは使用人と目が合うと、少し頬を染めて、あ、あは、と苦笑いを漏らした。
「ご、ごめんなさい、なんでもありません…」
「(…あんな冷たいこと言われて、やった、とは…)」
使用人はえ、ええっと、それではご案内致します、というと、ヒロを連れて歩き出した。
ヒロが連れらてきたのは、エドの部屋から3つほど部屋を挟んだ、屋敷の一番隅の部屋だった。ヒロは、通された部屋を見渡した。広い部屋に大きなベッド、本棚に小さな棚、ソファーにテーブル、ドレッサー。そのどれもが家のものとは違い、ヒロは胸がドキドキとした。部屋の隅にヒロがスミス家から持ってきた荷物が積まれており、今から荷解きいたしますね、と使用人がヒロに告げた。
「申し遅れました。私、ハンナと申します。これから奥様の身の回りのお世話をさせていただきます。どうぞお願い致します」
ハンナは深々とヒロに頭を下げた。茶色の長い髪を2本のおさげにした、16、7歳くらいの女性だった。頬にはそばかすがあり、にこりと笑った顔がとても可愛らしくて優しそうで、この人が世話をしてくれる人でよかったと、ヒロがそう思えるような人だった。
「奥様、どうぞお休みください。今からお茶をお持ち致します」
ハンナがソファーにヒロを促した。しかしヒロは、いいんです、と頭を振った。
「私も荷解きをします」
「ええっ、でも奥様、お疲れでしょう。そういったことは私がいたしますので…」
「でも私、どきどきしてじっとしていられないんです」
ヒロは、笑みをこぼしながら荷物を一つずつ開け始めた。ハンナはそんなヒロの背中をぽかんと見つめる。
「(…旦那様にあんなに冷たくされて、どうしてこの人はこんなに楽しそうなのかしら…)」
「あら、こんなもの持ってきていたかしら」
ヒロは、箱から出てきた変わった色のストールを取り出して、そしてハンナに広げてみせた。ハンナは、そのストールとヒロの笑顔に、つられて笑った。ヒロはハンナの笑顔を見るとまた笑みを深くした。
「(ここが私のお城だ。私はもう結婚したから、誰にも何も文句を言われないし、旦那にも何も言われることがない。静かに、ここで立ち止まれる)」
ヒロは、荷物の中をどんどん出していく。すると、中から、ジムと2人で撮った写真の入った写真立てが出てきた。15、6歳くらいのときだっただろうか。2人とも今よりも幼くて、そして、無邪気に笑っている。ヒロは、写真の中のジムに微笑みかける。
「(…ジム、私はここで生きていく。あなたが言ってくれたように、あなたのことを私も愛しながら)」
ヒロは、写真を胸に抱きしめた後、ベッドのそばのサイドテーブルの上に置いた。
ヒロはハンナと笑いながら、荷解きを続けた。
朝、ヒロはいつも起きる時間よりも少し早く目を覚ました。ヒロは起き上がり、カーテンを開けた。この部屋からは中庭が見えた。天気のいい今日は、朝の太陽の日差しがきらきらと輝き、心地よい眩しさを放っている。もうすぐ夏本番になる今日は暑くなりそうだ。ヒロは居てもたってもいられなくなり、寝巻きのまま部屋から出た。
ヒロは中庭に出てくると、綺麗に手入れされた庭を見渡した。季節の色とりどりの花が咲いており、庭でお茶を飲めるスペースが準備されており、さらには薔薇のアーチまである。ヒロは少し中庭を歩いたとき、花を育てられそうなスペースを見つけた。何も植えてない花壇がそこそこのスペース空いていたのだ。こんなに手入れされた庭なのだから、なにかを植える予定ではあったのだろう。ヒロはその花壇の前にしゃがみ込むと、茶色い土を指で触った。ここに何を植えよう、どんな花を咲かせよう、そんなことをかんがえるとわくわくした。
「(…エドの許可は取ってあるし、ここでお花を育てよう)」
今日早速種苗店に行こうかしら、とヒロは頬に手を当てながら微笑む。すると、背後から、あれ、という声がした。振り向くと、これから仕事へいくところらしいエドがいた。エドは、寝巻きのまま花壇の前にしゃがむヒロを見かけると、怪訝そうな顔をした。ヒロは、自分の恰好を思い出すと慌てて立ち上がり、苦笑いを浮かべた。
「行ってらっしゃいませ」
ヒロがそう言うと、エドは無表情のまま、昨日言いましたけど、と言った。
「わざわざ挨拶は結構です」
エドはヒロを突き放すように言う。ヒロはそんなエドをぽかんと見つめた後、でも、と笑った。
「せっかく顔を合わせたのに、何も言わないわけにはいきません。わざわざあなたをお見送りには来ませんけど。それに、呼び止めたのはそちらでしょう」
ヒロの言い返しに、今度はエドがぽかんとした。エドは、不機嫌そうにヒロから視線をそらした後、行ってきます、と言うとヒロの横をすたすたと通り過ぎた。ヒロは、その背中にお辞儀をする。
「(あんなにカリカリしなくても良いのに)」
ヒロは、不思議そうにエドの背中を見つめる。それにしても、自分のこの心の余裕はなんだろう、とヒロは自分で自分が分からなくなる。相手に好かれることがないと分かりきっているから、だから好かれようとあくせくする必要がないからだろうか。お互い無関心でいるように決めたから気が楽なのだろうか。
「(ま、いっか。どうでも)」
ヒロは、また花壇の方に向き直ると、今日買いに行く種のことを考えた。
朝の着替えのとき、ヒロがハンナに種苗店のことを聞けば、今日向かいましょうか、と言ってくれた。ヒロは楽しみでぽわぽわした気持ちで食堂に向かった。食堂にはヒロの朝ごはんが用意されており、焼けたパンのいい匂いが漂っていた。食堂の窓からは朝日が差し込み、まぶしさに目を細めるとまた胸がどきどきとした。
「…美味しい」
ヒロはパンを一口食べて感動した。サラダやゆで卵なども美味しい美味しいといちいち感動するヒロを、控えていたハンナ以外の使用人たちは、だんだん微笑ましそうに見つめるようになった。
食後のコーヒーを飲みながら、ヒロはまた美味しい、と呟く。コーヒーを淹れた使用人が、そんなヒロを見て嬉しそうに微笑む。
「とっても嬉しいです。坊ちゃま…旦那様は何も言ってくださいませんから」
「そうなんですか?こんなに美味しいのに…」
ヒロは不思議そうに首を傾げるけれど、まああの男がそんなこと言いそうにないかと思い返す。
「…前の旦那様と奥様がこのお屋敷から去られてしまって、私たちさみしく思っていましたから、奥様のような方が来てくださって、嬉しいです」
そう言って微笑む使用人に、ヒロはつられて微笑む。
「(新しい人たちだから心配していたけれど、優しい人ばかりでよかった…)」
街の種苗店へ向かう馬車に揺られながら、ヒロはそんな事を考える。もともと人見知りなヒロだけれど、結婚して、自分の居場所を見つけた今、余裕から心が大きくなっていたからか、初対面の使用人たちにも笑顔で接することができるようになっていた。
「(それもこれも、エドのおかげね)」
ヒロは窓から景色を眺めながら小さく微笑む。すると、窓から前に見た大きな時計台が見えた。
「あの、あれって何ですか?」
ヒロは、付き添いのハンナに話しかけた。ハンナはヒロの指さした方を見ると、ああ、と口を開いた。
「あれは、街の時計台です。この街のモニュメントの一つです。時間になると大きな鐘の音が鳴るんですよ。でも今、壊れているんです。いつ修理されるのか、誰にも分からないんです」
「そうなの…」
「帰りに寄りますか?」
「いいの?」
ヒロが目を輝かせると、もちろんです、とハンナは笑った。
種苗店について、気になる花の種を購入した後、ヒロは時計台に連れて行ってもらった。さまざまなお店が立ち並ぶ通りの中にある大きな広場にその時計台はあった。広場には噴水もあり、街の人たちがのんびりと散歩を楽しんでいる。
ヒロは大きな時計台を見上げた。時計台の針は8時を指したまま止まっている。
「すごい、立派な時計台ですね…」
「はい。修理してもらえたらもっと良いんですけれど…」
ハンナは残念そうに時計台を見上げる。ヒロは、真っ青な空にそびえ立つ壊れた時計台をじっと見つめる。
「(…動かなくてもいい、きっとまだ、動かなくても)」
ヒロはそんなことを心のなかでつぶやく。静かな公園にふく風を受けながら、ヒロはしばらくの間時計を眺めていた。
その日、ヒロは花壇に花の種を植えた。夢中になっていたらすぐにお昼の時間になった。水をやっている最中にハンナに声をかけられたヒロは、振り向いた拍子に自分の足に水をかけてしまった。また愚図なことをしてしまった、と焦るヒロだったが、可笑しそうに笑ってくれるハンナをみたら、つられて笑うことが出来た。
美味しいお昼ご飯を食べた後は、読書をしたり屋敷の中を探索したり、自由に過ごした。この屋敷はしんと静かで、ヒロは昨日来たばかりなのにそこが気に入った。
そうこうしている間に夕飯の時間になった。ヒロはまた感動しながら食べた。それからシャワーを浴びて寝間着に着替えた。サイドテーブルに置いたランプに明かりをつけて、ベッドに腰掛けて本をキリの良いところまで読んだら、明かりを消した。そして、サイドテーブルに置いてある写真の中のジムをヒロは見つめた。
「ここの生活、とっても楽しい。私、幸せよ」
そう言ってジムに微笑むと、ヒロは眠りについた。
その日の夜、エドはこの屋敷に帰ってこなかった。