46
「結婚…?」
エドは、目の前の光景と、義兄であるランドルフから発せられた言葉の意味が分からずに固まる。
「きょ、兄妹で、ですか?」
よくわからないままエドが尋ねると、ランドルフは、ふんと鼻を鳴らした。
「俺とヒロに血の繋がりはない。ヒロはスミス侯爵家の実子ではない。両親の親友から引き取った子どもだ」
知らなかった事実に、エドは目を丸くする。エドがヒロの方を見ても、ヒロは目を伏せたままエドの方を見ようとしない。
「(…なるほど、この人の、あの日の剣幕はこういうことか…。ヒロが、好きだったから、だからあれほど怒って…)」
エドは、あの日の理由をに気がつくと、心のなかでため息をついた。そして、ヒロの方を見た。
「…あなたは、それでいいんですか?」
エドの質問に、ヒロは少し肩を揺らすだけで、やはりエドの方を見ない。ランドルフは、また鼻を鳴らした。
「とにかく、決まったことだ。ヒロを迎えに来たのなら、一度帰ってもらおう。まだヒロは君と離れたいようだ」
ランドルフはそうエドに言い放つ。ヒロは、えっ、と顔を上げる。しかし、エドを睨むランドルフを見て、また視線を下げた。
エドは、ヒロの方を見た。
「…あなたはどうですか。まだ実家にいたいですか。…俺と、離れたいですか」
「…」
ヒロはゆっくりエドの方を見た。2人の視線が合ったとき、往生際が悪い、とランドルフが一喝した。
「早く帰ってくれ。しつこいぞ、」
「あら、何の騒ぎかと思えばエドが来ていたの」
ランドルフが、聞こえてきた声に言葉を止めた。母がこちらへやってきた。エドは彼女に気がつくと、お久しぶりです、と頭を下げた。母は、落ち着いた表情でエドを見た。
「エド、わざわざヒロを迎えに来てくれたのね」
「はい。…お騒がせして、申し訳ありません」
「ランドルフ、ほら、そんなに強引にしてないで」
母に言われて、ランドルフはヒロから離れた。ヒロは母の方を見た。母は優しい眼差しでヒロの表情を見た。そして、どうする?とヒロに尋ねた。ヒロは揺れる視線をどうにか落ち着かせようとする。その時に一瞬、エドの方に視線が動いた。すると、母は優しく微笑んだ。
「ここの花壇の様子は確認できたし、もう帰ることにしましょうか?置いてきた花壇のことも、そろそろ気になる頃でしょう」
「母さん…」
ランドルフが母に話しかけるが、母は、ランドルフ、となだめるように声をかけた。
「ヒロとエドの協議期間が終わったらあなたとのことを考える、という話でしょう?あなたの気持ちはよくわかる。でも、あんまりヒロを焦らせないであげて。ただでさえ、昨日決まった話だというのに、心の整理もつかないでしょう」
母は、そういうと顔を伏せるヒロの背中を優しく撫でた。ヒロは、ゆっくりと顔を上げた。そうしたら、胸が痛くなるほど優しい顔をした母が見えた。そんな母の顔に、ヒロは泣きたくなる。すると、ランドルフがため息をついた。
「…もう十分すぎるくらい、ヒロには考える時間があったと思います。これ以上はただの甘えです。いつまでもこんなふうに愚図を言わせることが、ヒロにとって本当に良いことでしょうか」
ランドルフが、そう母に刺々しく言った。ランドルフの正論が、ヒロの胸に深く刺さる。母は、そんなランドルフをまっすぐに見つめる。
「…人の心は、そう簡単には動かない。はいかいいえでは決まらないこともある。ヒロにいたっては特にそう。それを、あなたはどうしてもわかってあげられないかしら?」
「…」
「今でこんな状況なら、もしヒロと結婚することになったら、あなたずっとイライラしてしまうんじゃないかしら?」
「そんなことはありません」
ランドルフはそう断言する。母は心配するような瞳で息子を見つめたあと、とにかく、とエドの方を見た。
「主人は、今日は夜まで帰らないのよ。明日もお仕事があるでしょうから、このまま2人、お帰りになって」
母は、さあ、とヒロとエドに促した。母に押されるまま、納得のいかない顔をしたランドルフを気にしながらも、ヒロはエドと一緒に馬車に乗り込んだ。
帰りの中の馬車は、重い空気だった。ヒロはずっと、膝の上に乗せた手を見つめていた。エドは、何かを言いかけて、そしてやめるのを数回くり返したあと、一切口をつぐんでしまった。
屋敷に到着すると、ハンナたちがヒロの姿を見て目を丸くした。ハンナは、おかえりなさいませ、と嬉しそうにヒロに話しかけたけれど、浮かない表情のヒロとエドを見ると、仲直りはしていないのか、と察した。
ハンナは空気を変えようと、そろそろお夕食にいたしましょうか、とエドとヒロに促した。しかし、ヒロは頭を振った。
「…食欲がないんです」
ヒロの言葉に、聞いていた使用人たちが衝撃を受けた。3食必ず食べる彼女の言葉に、驚きを隠せないようだった。ハンナは、部屋に戻ろうとするヒロを追いかけながら、奥様、と声をかけた。
「お加減でもよろしくありませんか?奥様が食べられそうなものをお持ちいたしましょうか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
ハンナは、そんなヒロを見つめて、その後は何も言わず、部屋に戻るヒロに付き添った。
翌日、ヒロはお昼前まで起きてこなかった。ハンナが何度も部屋に様子を見にいったけれど、ヒロは起き上がる様子がなく、彼女のただならぬ様子に無理やり起こすわけにもいかず、ハンナは仕方なくヒロが自発的に起きてくるまで待っていた。
ようやくヒロが起きてきたのは、昼食の時間だった。ヒロは黙々と出された昼食を取り、そのまま中庭に出た。
ただぼんやりと、ヒロはしゃがみこんで中庭で花を見ていた。すると、馬車が到着する音がした。視線を上げると、マーガレットとアリスがやってくるのが見えた。ヒロは2人の姿に呆然とした。マーガレットは、あれ、とヒロの顔を見て首を傾げた。
「どうしたの?驚いた顔をして…って、なに、なんで兵士がこんなに周りにいるの…?!」
「そ、そっか…今日は、約束の日だったね…」
ヒロはようやく思い出して、そう呟いた。マーガレットは、やだ、忘れてたの?と笑うけれど、呆然とするヒロを見て笑うのをやめた。
「…どうしたの?顔色が悪いけれど」
「……」
ヒロは、しゃがみこんだまま2人を見上げて、そしてゆっくり目を伏せた。アリスはそんなヒロの様子を見て、あの、と口を開いた。
「差し出がましいようですけれど、あの日、エドは、」
「…もし、エドと結婚しないことになったら、私、お兄様と結婚することになったの」
ヒロは、そうぽつりともらした。マーガレットは、その言葉に、え…、と声をもらす。アリスは、ヒロの方を見て、まあ、と呟いた。
「一体どうしてそんなことに?」
「…昨日、実家に帰ったら、エドとうまくやれないなら、離婚してお兄様と結婚したほうがいいっていう話になって…。お兄様も、ずっと私のことを好いてくださっていたみたい。知らなかったけれど…」
ヒロは、どんどん顔色を悪くしていく。マーガレットは、そんなヒロを見つめながら、唇を強く噛んだ。
「…ヒロはどうするの?エドと結婚するの?…ランドルフお兄様と結婚するの?」
「……わからない、わからないよ…」
ヒロは、膝に顔を埋める。そしてもう一度、わからない…と消え入りそうな声を漏らした。
「このまま離婚して家にいるわけにはいかない、家に迷惑はかけられない。お兄様のことだって、長い間ずっと兄として慕っていた人をそんなふうには見られない。お兄様も、妹をかわいがる気持ちをきっと履き違えていらっしゃるだけよ。エドのことだって…」
ヒロは、息が詰まる。パメラと楽しそうに話すエドの顔が浮かぶ。ヒロは、エドのことだって…、と声を絞り出す。
「ジムのことを忘れられない私なんかが、好きだなんて言えない…」
ヒロの言葉に、マーガレットが、なら、と話しかける。
「それはつまり、あなたはエドが好きなんじゃない。ならそれで良いじゃない。ジムなんかそのうち忘れられるわよ」
「…それだけじゃないの」
「他に何があるのよ」
「他の女の人とエドが出かけて、そのまま次の朝まで帰らなかった」
マーガレットは、言葉を詰まらせる。ヒロは、肩で息をする。マーガレットは、それは、と言葉を続けた。
「浮気されたから、だから許せないってこと?好きになったから、だから許せなくなったの?」
「…それもある。でも、それ以上に、あの人が私への気持ちをなくしたことが耐えられない。でも、私なんかに、ジムを忘れられない私なんかにそんな権利はないから、だから、どうしたらいいのかわからない。自分がどこへ行ったらいいのか、もうわからない…」
ヒロは、また深呼吸をくり返して、呼吸を整えようとした。アリスがヒロに近づくと、ヒロの背中を擦った。アリスがヒロに、あのですね、と話しかける。しかしそれを遮るように、いい加減にして、とマーガレットが言い放った。
「あなた、一度だってエドに好きだって言ったことがあるの?」
「…ない、そんなこと、言えない…」
「どうして?向こうが好きだと言っていた時に言わないから、だから心が離れてしまったんじゃないの?」
「そんなこと、私には言えない。私なんかが…」
「…いつもなによ、私なんか私なんかって、自分のことを下げに下げて、どうなりたいの?同情されたいの?別に、言えばよかったじゃない。伝えたらよかったじゃない。向こうがあなたを好きだと言っているのに、言えない言えないってあなたが逃げたから、だからこうなってしまったのよ。このままじゃ、誰と結婚したって同じ轍を踏み続けるだけよ」
マーガレットのまっすぐな瞳に、ヒロは胸がえぐられる。相変わらず美しい人だ。出会ったころからずっと。たくさんの人に愛されて、受け入れられてきた顔をしている。こんなにそばにいたのに、自分とはまるで違う人生を歩んできた彼女の顔を、ヒロは眩しくてまともに見られない。
「…違う。…こんなに美しくて、たくさんの人に愛されてきたあなたには、私の気持ちなんかわからない…、わかりっこない。あなたみたいに生まれてこられていたらこんな思いしなくてすんだって、何度思わされたことか、」
ヒロはすぐに、こんな言葉を吐いてしまったことを後悔した。確かにヒロは、いつも彼女たちと比べられて、そして、劣る方にされてきた。それによって傷つけられてきた。でも、自分を傷つけるのは比べる方であって、美しい彼女たちではないと、わかっていたはずなのに、それなのに、ついそんなことを口走ってしまった。ヒロは申し訳ない気持ちでマーガレットの目を見た。
「あの、ごめんなさい、私…」
「……私はずっと、あなたになりたかった。あなたみたいに、ランドルフお兄様に守ってもらえるような、そんな人になりたかった。ランドルフお兄様に好かれるあなたみたいになりたかった。他人から綺麗だと言われる回数が多いから何だっていうの?たった一人の人にも振り向いてもらえないのに!」
マーガレットの言葉に、ヒロは言葉を失う。マーガレットは、ヒロの方を見つめて、必死の顔で口を開く。
「あなたが言ってるのだって、そんなの、…そんなの、自分がただ傷つきたくないだけ!そうやって逃げ回るから、だから、…だからランドルフお兄様が傷つけられる!好きだと伝えられてるのに信じられない?ただの勘違い?そんなの、…そんなの相手のことをばかにしているわ!」
マーガレットは、大きな瞳にどんどん涙をためていく。ヒロは、そんなマーガレットを驚いた瞳で見上げる。
「ランドルフお兄様をこれ以上振り回さないで…。あの人はいつも、妹のあなたのことを目で追いかけていた。かなわない恋とわかっていてもずっとよ。気が付かなかったなんて、妹への親愛と勘違いしているだなんて、そんなことよく言えたものよ。…ようやく叶う芽が出たと思っているお兄様のこと、好きになれそうにないならはっきりそう伝えてあげて!自分が傷つかないためだけに逃げないで!」
マーガレットはそう言うと、目に涙をためたまま、ヒロに背中を向けて走り出した。アリスは立ち上がると、マーガレット…、と彼女の名前を呼んだ。
ヒロは、マーガレットの涙を見たことに動揺して、しゃがんだ態勢からそのまま尻もちをついた。アリスは、困ったように頬に手を当てたあと、ヒロの方を見た。
「…マーガレットも、ランドルフお兄様のことを想うあまりでた言葉かと思います。どうか、深刻にとらえすぎないように…」
アリスはそう言うと、同じ馬車に乗り合わせてここまで来たマーガレットを追いかけた。ヒロは、しばらく呆然とその場に座り込んでしまった。




