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その日の夜、ヒロは自分の部屋で1人で寝ることにした。いつもは口うるさいハンナも今日は何も言わず、ヒロが寝る準備を終えると静かに部屋から去った。

ベッドの上に両ひざを立てて、ヒロはそこに顔を埋めてしばらくの間じっとしていた。春の夜の中で、しんと静かな時間が流れる。

ヒロはゆっくりと顔を上げて、サイドテーブルに、伏せられたままのジムの写真を見た。ヒロはサイドテーブルの側まで行くと、ゆっくり、ジムの写真を上げた。久しぶりに見るジムの顔は、昔と変わらずに優しい笑顔を浮かべていた。その表情をみたら、ヒロは安心して瞳から一粒の涙がこぼれた。


「…ずっと、これまでのように、あなただけを好きでいたら良かった」


ヒロはそんなことを呟く。最初から分かりきっていたことだったのに、なぜ自分は、落ちた穴から出ようなんて思ってしまったのか。

ジムだけを好きなままでいられたら、今だって傷つかずに済んだ。自分とは関係ないことだと、普段と変わらない穏やかな気持ちで眠りにつけたのに。


「(…なんで私は、こんなふうに落胆できるんだ…。私だって、ジムのことを忘れていない。一途でなんていないくせに。なんで)」


自分の狡さにヒロは嫌気がする。自分がジムのことも頭の中から消せないというのなら、エドが他の女性のところへ心が動いても承諾するのが筋ではないのだろうか。どうにも自分はどっちつかずで、愚図で、そんな自分があいも変わらずヒロは嫌いだった。

夫婦としてやっていけるかの試用期間も、あと1ヶ月を切ってしまった。ヒロは目からこぼれ落ちる涙を指でぬぐう。


「(…こんな気持ちで、夫婦になんてなれるのだろうか。…だからって、実家に他人の私が帰るところなんてない)」


ヒロは重いため息をついて、それからジムを見た。笑顔のジムを涙のあふれる瞳で見つめる。


「なんで、…なんで他の人と結婚してしまったの…私じゃないの……」


そんな気持ちを吐露すれば、ヒロはまた目から涙がこぼれた。ジムがいなくなってしばらくは、1人で部屋の中で、そんなことを思ってずっと泣いていた。ようやくそんな気持ちも落ち着いていたというのに、その感情がなぜか今ぶり返す。

あなたがあの幸せな日々の延長線上で、私のそばに居続けてくれていたなら、そうしたらこんな思いにはならなかった、きっと。そんな存在しない未来を渇望して虚しくなる。ヒロはまた涙をぬぐうと、自分のひざに顔を埋めた。












翌朝、ヒロが目覚めたのは普段より1時間以上遅い時間だった。部屋には、ヒロが起きるまで待っていたらしいハンナがいた。ヒロが起きたのを確認すると、ハンナはいつもの顔で、おはようございます、と挨拶をした。ヒロは眠たい目をこすりながら、おはようございます、と返した。


「お着替えいたしましょう」

「はい、…あの、」

「旦那様はもう出られましたよ」


ハンナの言葉に、ヒロの胸には安心と一緒に不安が押し寄せる。ハンナはヒロに微笑みかけると、今日もいいお天気ですね、と話し掛けた。ヒロは、はい、とぎこちなく彼女に返した。








エドが城の事務室に向かうと、アディントン侯爵とスチュアート公爵がいた。エドが彼らに挨拶をすると、ああ、とスチュアート公爵が親しげな笑みを浮かべた。


「前はどうもありがとう。お疲れ様でした」

「いえ」

「喜べ、エド。陛下から、パーシー王子初の会議出席のための、事前の説明役にお前をお選びいただいた」


アディントン侯爵が珍しく嬉しそうに話した。エドは、え、と呟く。

パーシー王子とは、現国王の第一子で、慣習どうりであれば次期国王となる人物である。王子が初めて会議に出席するのにむけて、その会議内容の説明を事前にする、家庭教師のような役割にエドが抜擢されたのだという。

スチュアート公爵は、兄さんからの、エドへのお礼のつもりだと思うよ、とエドに話し掛けた。エドは、お礼…と呟いた。


「パーシー王子との関係づくりは、今後の立ち回りでも重要だしね。それに、パーシー王子とエドは年も一緒だし、同い年の人に教えられたら、あの勉強嫌いの王子も、プライドを刺激されてちゃんとやるでしょ、って考えらしいよ。王子、エドを敵対視してるからよけいにいいんじゃないかなあ」

「(…そうか、俺王子に嫌われてるんだったな…)」

「次の会議が来週だから…とりあえず2日間はめっちゃ忙しくなるけど大丈夫?」

「だい……」


エドは、忙しくなる、という言葉にはっとする。つまり、今週はろくに家に帰れないだろうことを言われている。ということは、ヒロに誤解を解く時間もとれないということになる。

固まるエドを心配そうにスチュアート公爵が覗き込んだ時、アディントン侯爵が、当然大丈夫です、と答えた。


「もちろんお受けいたします。どうぞ息子を王子の勉学のお役に立ててください」


アディントン侯爵が返事をすると、え、ああ…、としかしスチュアート公爵は不安そうにエドの顔を見る。エドは、はい、わかりました、と絞り出すように声を出した。











遅い朝ごはんを取った後、ヒロはいつものように中庭に向かった。すると、ヒロの周りになぜか屋敷の守衛が2人常について歩いていた。ヒロはよくわからずにハンナを見上げる。ハンナは、詳しくは聞いていませんけれど、最近物騒だからだそうです、とだけ答えた。ヒロは、はあ、とだけつぶやくと、不思議そうに彼らを見上げて、それからなんともやりにくい気持ちで作業を再開した。

その後、ヒロは急いで出かける準備をした。午後にビル伯爵夫人のもとへ、ネックレスを返す約束をしていたからである。

ヒロはクローゼットからハンナと服をえらんだ。ヒロは手前にある、エドに選んでもらったワンピースを避けて、実家から持ってきたいつもの服を手に取った。

落ち着いたデザインの服に、ヒロは心が落ち着くのを感じた。


「(うん、こっちのほうが私に似つかわしい)」


ヒロはハンナに服を着せてもらいながらそんなことを考える。心が変に揺れることもない。浮足立つことも、その最中に転んでけがをすることもない。準備を終えたヒロは、すんとした顔で部屋から出た。








ビル伯爵の屋敷について、ヒロは応接室に通された。ソファーに座って待っていると、笑顔の夫人が入ってきた。ヒロは彼女にお辞儀をすると、笑顔を見せた。夫人はそのヒロをみて一瞬表情を固くした後、柔らかい笑顔を見せた。

2人は向かい合って座ると、一度用意されたお茶を飲んだ。他愛ない話を少しだけしたあと、ヒロはネックレスの入った箱を取り出して、夫人の方に置いた。


「素敵なネックレスを、ありがとうございました」

「つけていったのね。何のパーティーに?」


夫人に笑顔で尋ねられて、ヒロは一瞬言葉を失った。少しの間黙ったあと、…エドの前の恋人が、結婚して他国へ嫁いでいくので、その送迎会です…と答えた。夫人は、まあ、と口元に手を当てた。


「それは…大変だったわね。でも、なぜそんなパーティーに出ることになったの?」

「…その方が、エドと私には出てほしいって、そうおっしゃったようで」

「へえ…」


夫人は目を丸くしたあと、ゆっくり口を開いた。


「で、あなたのその様子だと、負けてきたのね?」


夫人は優しくヒロに尋ねた。ヒロは目を伏せて頷いた。夫人はそんなヒロを見て優しく微笑んだ。


「お話しなさって。気持ちを心に閉じ込めてしまうのは、とてもつらくて、自分を傷つけることだから」

「…」


ヒロは黙り込んだあと、パーティーの後の日に、と話し始めた。


「その方が、後日エドと2人であうことを望んだんです。その方のご機嫌をとる必要が、仕事としてあって、だから仕事として、エドはそれを受けました。2人で何をするのか、どこへ行くのか、彼から事前に説明をしてもらいました。当日の夕飯の時間までには帰るって、約束もしてもらいました。…でも、帰ってこなかったんです」


ヒロはそう言うと、小さく深呼吸をした。夫人はまっすぐにヒロの目を見ていた。


「…馬車の運転手からは、2人は何もなかったって話を聞きましたけれど、…他の使用人たちからその説明には怪しい点があるって。…エド自身にも不可解な点があって、…私、話を聞くのが怖くなって、彼から話も聞けずに逃げてしまいました」

「…そう」


夫人はヒロの目を見て軽く頷いた。ヒロは、膝の上に置いた手に少し力を込めた。


「自分にだって、好きな人が他にいるのに、…こんなにどっちつかずなのに、なぜ私はエドの行動に傷つくんだろうと思ったら、自分で自分がいやになりました」


ヒロは、言い終わるとまた深呼吸をした。夫人はしばらく黙ったままヒロを見つめると、そうねえ、と微笑んだ。


「一度、エドから離れたらどうかしら」

「離れる?」

「そんな状態で、同じ家にいたら気が滅入ってしまうもの。例えばご実家とか」

「実家…」


私もよく帰ったものよ、血相を変えたあの人が何度も迎えに来たわ、と笑う夫人を、ヒロは見つめる。しかし、いえ、と頭を振る。


「実家には、帰れないんです」

「あらどうして?スミス侯爵家のご夫妻でしょう?とっても感じのいい方よ?」

「……私は本当の娘じゃないんです。血の繋がりがない、もらわれてきた子どもなんです。迷惑をかけられない」


ヒロはそう言うと、夫人の目を見て苦笑いを返した。夫人はヒロの瞳を見つめ返すと、それは、と口を開いた。


「スミス夫妻からずっと、実の子供じゃないからと冷たくされていたの?」

「…そういうわけではありません」

「ならどうして?きっとあなたを大切に、可愛がって育ててこられたはずよ」

「血の繋がらない私を、可愛がる理由がないので…」

「どうして。私は血の繋がりどころか、育ててすらないのに、あなたのことをもう可愛いと思っているわ」


夫人は優しくヒロを見つめる。ヒロはそんな夫人に目を丸くする。夫人はヒロを見つめて、ゆっくりと口を開く。


「一度落ち着いて、余計なことは考えず、ちゃんとご両親のお顔をご覧になってみて。お声に耳を傾けてみて。どんな顔をして、どんな声色で、何を言っているのかを、心で感じなさってみて。そうしたら、きっとまた違う見え方がするわ」

「…」

「実はね、つい先日、スミス侯爵ご夫妻とお会いすることがあってね。お2人がヒロとずいぶん久しく会ってないって仰るものだから、今日ヒロと私が約束をしているとお伝えしたのよ。そうしたらご夫妻、おなじときにいらっしゃるって」

「えっ?」

「もうみえるはずよ。…大丈夫。心に蓋をしないで」


夫人がそういったあと、応接室の扉が開き、入ってきた使用人が、スミス侯爵と夫人がいらっしゃいました、と伝えた。








応接室に、懐かしい2人がやってきた。笑顔の両親は、ビル伯爵夫人に挨拶をしたあと、ヒロに会うやいなや、ヒロを抱きしめた。


「久しぶりね。全然連絡をよこさないけれど、便りがないのはいいたより、と思っていたから」


母はそう言って微笑む。ヒロは苦笑いを漏らして、ばたばたとしていて…と濁した。


「元気にしているのか?エドとは仲良くしている?」


父がヒロに尋ねた。ヒロは、ええもちろん、と淀みなく答えた。父は、そうか、とうれしそうに目を細めた。しかし、横で見ていた母は、少しだけヒロの顔を見たあと、ねえ、と話し掛けた。


「…一度、あなたの残していった花壇を見に来てよ。どんなふうになっているか気にならない?」


母の言葉に、ヒロは、えっ、と声をもらす。すると夫人が、まあ、と両手を合わせた。


「それはいいじゃない。そうしたらどう?」

「でも、」


ヒロは言葉を濁した。夫人に言われた通り、2人の顔を見たいけれど、まっすぐに見つめられない。そんなヒロを見た夫人は、ええ決まり、と話を進めてしまった。母は、ヒロに微笑んだ。


「旦那様の許可は取っておいてね」

「あら、エドなら駄目なんて言いやしませんよ」


夫人が口元に手を当てて微笑む。それに、母は微笑み返す。ヒロは、この展開に頭がついていかないまま、おずおずと頷いた。


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