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ヒロは1人で目を覚まし、1人で朝食をとった。周りにいた使用人たちは、ハンナでさえもヒロにかける言葉を失い、黙り込んでいた。
朝食を食べ終わると、ヒロはいつものように中庭に向かった。そして、黙々と花の世話を始めた。3月に入ったとはいえ、まだ朝は頬が痛くなるほど寒い。ただ黙って花の世話をするヒロを、後ろからハンナや他のメイド数人が心配そうに眺めていた。
すると、馬車が戻ってきた音がした。中からは、エドが降りてきた。ハンナたちは、はっ、と息を呑む。ヒロは花壇の前でしゃがんでいた体をゆっくりと起こす。申し訳なさそうな顔をしたエドが、ヒロの前に立った。
「ただいま戻りました」
エドはヒロにそう告げる。ヒロはエドを見上げる。
「…昨日は約束したのに、帰れなくて、」
また、馬車が屋敷に来た音がした。中から小太りの男性と、背の非常に高い男性が出てきた。エドは彼らを見て、商工会議所の…、と声を漏らした。
男性2人は愛想のいい顔でエドの前に立った。
「お迎えにあがりました。さあ行きましょう」
「そうか、視察…」
エドは額に手を当てると、ヒロの方を勢いよく見た。
「帰ってから、必ず、ご説明します」
エドはヒロにそう言うと、男性2人に連れられて馬車に乗り込んだ。ヒロはその背中を呆然と見つめた。
「ねえ、どっちだと思う?」
ひそひそとメイド2人が、話しだした。えー、わからない…、どうだろう、と話し合う。ハンナは2人の方を振り向くと、やめてください、奥様の前で!と諌めた。すると2人は口をつぐんだ。
ヒロは目を伏せたあと、書斎に行きます、と声をかけて、屋敷の方へ戻っていった。
商工会議所の人たちと視察へ行ったあと、エドは城に向かった。事務室にはウィルだけがいて、エドはその隣に座った。ウィルはエドの方を見ると、昨日はお疲れ様でした、と声をかけた。エドは、いや…、と返した。
「今のところ、パメラは何も言ってきてないよ。叔父さんもめっちゃ感謝してたし、アンドリュー侯爵はそこまで娘のためにしてもらって申し訳ないって、父さんとアディントン侯爵に謝りに来てたくらい」
「ああ、そう…ならよかった」
「万が一パメラがこれ以上何か言ってきたとしても、応えてやる義理はないよ。ご苦労おかけしました。ありがとう、エド」
「いや、仕事だから気にしないでくれ」
「でも、叔父さんが心配してたよ。こんなことで夫婦仲に亀裂が入ったらどうしよう、なんてさ、あはは」
ウィルはエドの顔を見て笑うのをやめた。そして、エドの顔を覗き込んだ。
「…なんかあった?」
「…」
エドはしばらく固まったあと、ため息をついて、事のあらましを話しはじめた。
エドの話を聞き終わったウィルは、うーん、と声を漏らしながら腕を組んだ。
「パメラとはちゃんと別れたけど、その後の馬車のトラブルで朝帰りか…それは災難だったね」
「…今朝は商工会議所との視察があって、ヒロとろくに話せずに仕事に出てきてしまった」
「まあ、俺もヒロに説明するよ。2人がちゃんと昼間に別れたことの証人としてさ」
ウィルの言葉に、ん、とエドは彼の方を見た。少し考えたあと、眉をひそめて彼の方を見た。
「…後を付いてきてたんだな。やたら細かく当日の予定を確認すると思ったら」
「万が一にも何かあったら困るからさ」
「…」
エドは黙り込んだあと、いや、と頭を振った。
「まずは俺の口からヒロに説明するよ。まだ何も話ができてないんだ」
「そう。…でも、こういうのはこじれる前に第三者を入れたほうがいいよ。早めに俺に…って、俺が説明してもエドを庇ってると取られかねないのか…」
ウィルは考えたあと、考えるのを放棄して、まあがんばれ、と淡々とエドに言った。エドは、なんとかするよ、とため息をつきながら言った。
静かな昼食を終えたヒロは、また書斎にこもり本を読んでいた。しかし、本の内容などろくにはいってこなかった。かといって、他の使用人たちに気を使われたくなくて、ヒロは逃げるように書斎にこもってしまっていた。
夕方になり、ヒロは重い腰を上げて中庭に出た。花の世話を始めたヒロの元へ、ハンナと2人のメイドが、1人の男性を連れてやってきた。ヒロはじょうろを持ったままハンナたちの方を見た。
「奥様、やきもきするまえに、運転手から話を聞きましょう。昨日旦那様を送り迎えした運転手をつれてまいりました」
ハンナはそう言って男性を紹介した。男性は、ええ、とヒロの方を向いて相槌を打った。
「坊ちゃまは、パメラ様とお昼すぎには別れました。その後、帰る途中で馬車の車輪の具合がおかしくなってしまって、街からしばらく出て田舎町に来てしまってたもんですから、どうもしようがなく、坊ちゃまは近くの宿に一泊したんです。本当です、奥様」
運転手はそうヒロに伝えた。ヒロは、彼の言葉に、胸の奥に詰まっていた空気を、はあ、と吐き出した。ヒロは胸に手を当てて、どきどきと脈打つ鼓動を感じた。
「…そうなんですか…」
ヒロは、安心から頬が少しずつ熱くなるのを感じた。ハンナは、良かったですね、とヒロの背中を撫でた。ヒロは、ハンナの瞳をみて、はい、と嬉しそうに頷いた。
しかし、2人のメイドが怪しむように運転手の方を見た。
「…でも、なんだか変ですよね」
「ですよね。あのう、馬車の調子はいつもきちんとみているんですよね?もちろんその日も」
「ああ、もちろん」
メイドに不躾に尋ねられて、運転手はむすっとした顔で答える。メイドは、だったら、と続けた。
「なんだか変ですよね。そんなに遠い距離じゃないのに、ちゃんと管理していたはずの馬車が壊れるなんて。しかも帰り道に」
「なんだか都合いいですよね」
メイド2人は顔を見合わせて、ねえ、と言い合う。そんな2人に、オレだって突然で驚いたけど、と運転手は狼狽えながら答える。ヒロは、3人のやりとりにまた体が硬直する。そんなヒロをみて、やめてください、とハンナが止めた。
「なぜ奥様の不安を煽るようなことを言うんですか」
「だって、…こんなにお優しい奥様が旦那様に騙されているとしたらあんまりですもの」
「こういうものは繰り返されますし」
2人は、心配している顔をしてハンナの方を見る。ハンナは呆れたように、だからって…と手を腰に当てる。
すると、エドの馬車が屋敷に帰ってくるのが見えた。ヒロたちは緊張してエドの登場を待った。馬車から降りてきたエドは、ヒロに気がつくと、急いでヒロのところへ来た。
ヒロは、目の前に来たエドをみて、運転手の言葉を信じたい気持ちと、メイドたちの考える怪しい点に心が揺れる気持ちで、頭が混乱した。
真剣にヒロを見つめるエドの瞳を見ていられずに目線を下げた時、ヒロは、エドの片手に5つほどの傷跡がついているのがみえた。なにやら、爪かなにかで引っかかれたような跡だった。その傷には、ハンナやメイドたちも気付いたようで、メイド2人は同時に、あっ!と声を上げた。
「…旦那様のあの傷!」
メイドたち2人がはエドの方を見て声を上げると、お互い向き合い、指を絡めあうようにして手をつないだ。そして、片方の手が爪を立てるようにもう片方の手を握った。
「この傷はつまり…」
「男女のそういう最中の…こういう…こういうことですか…!」
2人は手をつないで確認すると、はっ、と息を呑んだ。ハンナが、ちょっと!と2人の手を引き離した。
「もういい加減にしてください!」
「だって旦那様、限りなく黒です…」
「でも、こういう時手に爪を立てるかしら?」
「背中も調べたらあるかも…だめよこれ以上は…!」
「そういえばあの運転手、旦那様が赤ちゃんの頃からいる方ですよ。…何かあったとしたら旦那様の肩を持つに決まってます」
メイド2人にじっと見つめられて、運転手は、えっ!と動揺する。そして、オレはウソなんかつかねえ!と慌てて否定した。しかしメイド2人は訝しげに見つめる。
ヒロは、一連のやりとりを見たあと、また体が硬直した。エドは慌てて、違います!とヒロに言った。ヒロは動揺しながら、目を泳がせた。震える唇で、なら、と呟いた。
「その傷は…」
「えっ?こ、これは、…うっ…パメラが…」
エドの言葉に、今度はハンナまでも息を呑んだ。エドは、いや、でも違う!と慌てて否定した。メイド2人はヒロの隣に立ち、エドから庇うようにした。
「…奥様、取りあえずお部屋に入りましょう」
「お寒いですから、早く」
ヒロはメイド2人に連れられるがまま歩き出した。エドが連れて行かれるヒロを、待ってください、と引き止めようとしたのを、すっとハンナが間に割って入った。
「旦那様、少しだけお時間を置きましょう」
ハンナは真剣にエドの方を見つめた。エドは、でも、と言った。
「俺に話をさせてくれ。まだ何も話せていない」
「…奥様は昨日、冷え切った庭でずっと、暗くなってもずっと、旦那様を待っておられましたよ」
ハンナの言葉に、エドは返答に窮する。ハンナは、エドに頭を下げた。
「一使用人が出すぎたことをしているのは承知しております。けれど、奥様には少しだけ、心を整理するお時間が必要かと思います。今はきっと、旦那様がなにをおっしゃられても、冷静に聞くことができないかと思いますから」
ハンナはまた深々とお辞儀をすると、ヒロの後を追いかけた。立ち尽くすエドに、申し訳ありません坊ちゃま、と運転手が頭を下げた。
「オレも正直に話したんですが、車輪が壊れたのが不自然だって、…そう言われちゃオレも言いようがなくて…でも、壊れたものは仕方ないってのに…」
「…いや、ありがとう、彼女に説明してくれて。…あとは俺が何とかする」
「なんとか…なりますか?」
「…なる…はず」
エドはそう返した後、はあ、とため息をついた。




