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アンドリュー侯爵家領にある、大きな音楽ホールの前のカフェにて、男女がオープンテラスのテーブルで紅茶を飲んでいた。
女性の方が、店の時計に目をやった。
「ずいぶん到着が遅いですわね」
「そう?まだ予定時刻の5分すぎだよ」
男性はそう言うと紅茶を一口飲んだ。女性は、そうでしたか、と頬に手を当てた。男性は、隣の女性を見た。
「にしてもアリス、君までついてこなくてよかったのに」
アリスと呼ばれた女性は、あら、と微笑みながら隣に座る男性ーーウィルに微笑んだ。
「エドとパメラを尾行するのなら、こうやって男女ペアでいたほうが悪目立ちいたしませんわ」
「まあ、そうたけどさ…。ヒロに対して罪悪感でもあるのかなって思って。だから、俺と一緒にここにきたの?」
ウィルはちらりとアリスを見る。アリスは目を丸くした後、そうですわね、と頬に手を当てた。
「私があの王子と素直に結婚していれば、このような事態にはなりませんでしたしね。ヒロには悪いことをいたしましたわ」
「まあ、君があの、口ぶりの割に打たれ弱い王子と結婚してたら、毎日泣かせて別の問題が起きてたかもしれないから、どっちのがましかといわれると難しいかも」
「お兄様、来ましたわ」
アリスがウィルに声を掛ける。視線をやると、音楽ホールの停車場に馬車が1台止まった。中から、エドとパメラがおりてきた。美男美女の登場に、周囲は何ごとかとざわつく。その様子に、あーあ、とウィルは声をもらす。
「不倫お忍びデートが目立ちまくってんじゃん」
「パメラは目立ってまんざらでもない顔をしていますわ」
「やだねー。私の男よ顔してるよ」
「さあお兄様、後を追いますわよ」
アリスは立ち上がり、2人の後を追う。ウィルは、控えていたお付きの者に会計を頼むと、アリスの後を追った。
アリスとウィルの席は、エドとパメラの席の二列挟んだ後ろだった。2人は、楽しそうに談笑する2人の様子を眺める。
「何を話しているのでしょう?」
「エドの隣に座ってるの、うちの使用人だから、あとで確認する」
「あら、準備万端ですのね」
「一応、万が一があるといけないからさ」
ウィルは、はあ、とため息をつきながら眼鏡をかけ直す。あの送迎パーティーの日、アディントン侯爵さえ来なければ、ここまでの話にはならなかった。まさか王のご機嫌取りに自分の息子と義理の娘を売るような男だとは…と考えたところでウィルは、いや、そういう男だったかと考え直す。
「…パメラはさ、何が目的なんだろうね」
ウィルは呟く。アリスは、ウィルの横顔を見つめる。そして、そうですわねえ、と頬に手を当てる。
「自分が付き合っていたときは顔だけのつまらない男だったのに、別れた途端、華やかで他の女性から人気のある男に変わってしまったとしたら…惜しいことをした、位は思うのではありませんか?」
「だとしたら、エドが結婚してしまう前に復縁をせまればよかったのに」
「プライドもありますわよ。パメラでしたら他の男性からのお誘いは引く手数多でしたでしょうし、ましてや、自分が振った男に自分からまたお付き合いをなんて、とても言えませんわ。逃した魚は大きくて、そして、自分以外の女性と結婚して幸せそうにしていたら、…彼女には色々と思うところがあったのでは?」
「で、悔しいから嫌がらせでこんなこと?」
「はい」
「はあ…自分は王家と結婚を決めておいて、何を今更…」
ウィルは呆れたようにため息をつく。アリスは、私の想像でしかありませんわよ、と微笑む。ウィルは、君が言うならだいたいその通りのような予感がするよ、とウィルは呟いた。そのとき、演奏の始まりの音が鳴り響き、ウィルとアリスは会話を止めた。
オーケストラの演奏が終わると、エドとパメラは街のレストランへ向かった。ウィルとアリスは、2人からは見えにくい席に座ると、2人の様子を観察した。
2人の様子は常に和やかだった。パメラは終始機嫌が良いようで、ウィルは、もうこれで終わりにしてくれたらいいのに、という希望をいだいていた。
エドとパメラは、レストランでの食事を終えると、次は、その近くのカフェに入った。ウィルとアリスもその後を追った。そして、また2人からは見えにくい位置に座った。
しばらくエドとパメラは談笑していた。ウィルは、ちらりと店の時計を見た。時刻は3時で、そろそろお開きになるだろう、とウィルは考えた。
「何を話しているんでしょうか」
アリスは、ケーキにフォークをさしながら尋ねた。ウィルは、さあ、と返した。
「まあ、さっきのレストランもだけど、この店のウェイターも何人かうちの家の者だから、怪しい話してたら即俺の耳に入るけど」
「まあさすが、ぬかりないですわねお兄様」
ウィルは、パメラの隣で笑顔を浮かべるエドを見ながら、後もう少しだぞ、と小さなエールを心の中で送った。
カフェにて、エドは店の時計を見た。時刻は3時過ぎ。そろそろ解散してもいい頃合いだろうと彼は踏んだ。
パメラの要望した1日は、エドから見たらパーフェクトと言ってもいいほど順調に、そして和やかに過ぎた。前の様子から、パメラが何を言い出すか内心冷や冷やしていたけれど、彼女は終始穏やかだった。エドは、紅茶を一口飲むとソーサーの上に置いた。
「今日はありがとう、楽しかったよ」
エドはそう言ってパメラに微笑む。パメラは、エドに微笑み返す。エドは、このまま帰れそうだな、と読むと、そろそろ行こうか、とパメラに声をかけた。
「嫌よ」
パメラは笑顔でそう言った。エドは笑顔のまま、そうきたか、と心の中で思った。
「まだ、心残りに思うことでも?」
「今からこのまま、私の家に来て」
パメラは、そう妖艶な笑みを浮かべてエドを見つめた。エドは、そんなパメラに笑顔を浮かべたまま口を開く。
「これ以上というのなら、俺の仕事の範疇を超える」
俺はもう失礼するよ、とエドは言うと、会計のためにウェイターを探した。すると、そんなエドの手の上に、パメラが自身の手を重ねた。そして、笑みを深めてエドを見つめた。
「あなたの可愛い奥様、お名前はなんでしたっけ?」
「…」
「あの方、よく1人でお庭に出ていらっしゃるのね。使用人がそばにいたとしても、若い女の子1人だけみたい」
「……君は何が言いたいんだ」
「奥様に何かされたくなければ、私の言うことを聞きなさい。私を抱いて、一生あの奥様に罪悪感を抱いたまま生きて。この日の私のことを何度も思い出して、何度も何度も苛まれたら良い」
パメラは、エドの手に爪を立てた。パメラの長い爪によって、エドの手に傷がつく。エドは、それには怯まずにパメラの目を見る。
「…君は、俺にどうしてほしいんだ」
エドは、心配の気持ちも含んだ瞳でパメラを見つめた。パメラは、そんなエドに動揺する顔を見せた。そして、眉をひそめてエドを睨んだ。
「私のいないところで、他の女と幸せにならないで。傷としてでもいい、私のことを忘れないで」
パメラは、手の力をさらに込める。エドは、そんなパメラの手に視線をうつすと、自分の上に重ねるパメラの手に、そっと自分の手を重ねた。パメラは、はっとすると、込めていた力を抜いた。
「そんなことをしたって、君は傷つくだけだ」
エドは、パメラの手を握った。パメラは震える唇をかみしめた。エドは、パメラの瞳をまっすぐに見つめた。パメラは、そんなエドにはっと息を呑む。
「学生時代の君はもっと幸せそうだった。今はひどく不幸そうに見える。もし俺に心残りがあるのなら、それが原因だというのなら、そんなもの早く捨ててしまったほうがいい。どうしたって俺は、君が望むような男にはなれない。それは君が一番よくわかっているはずだ。何を期待しているのかわからないけれど、君が求めるものを、俺は持ってはいない。そして俺も、君にはもう何も思っていない」
エドはそう言うと、パメラの手を冷たく払った。そして、ウェイターを呼ぶと、会計をする場所に向かおうと立ち上がった。
「君を送る馬車は呼んでおく。…さようなら」
エドはそう言うと、呆然とするパメラを置いてカフェを出た。パメラは、しばらく黙ったまま座り込んでいた。
エドは、待たせていた馬車に乗り込んだ。時刻は3時半。今から帰れば、ヒロとの約束の時間には余裕で間に合う。
「(…最後は喧嘩腰になってしまったな…)」
エドは苦々しい顔をしながら椅子に背中をもたれさせる。もし父がこのことを知ったら何というだろうか。愛人を何人も抱える彼ならば、それくらい受け入れろと言うだろうか。さすがに、隣国の王子の婚約者に手を出すのは…という常識はあるだろうか。
「(…どちらにしろ、父に何か言われるより、ヒロを裏切るほうがつらい)」
エドは、そう思うと、自分のした判断を肯定できていることに気がつく。父の機嫌がなによりだったはずの自分が、ということに、エドは自分のことなのに驚く。
「(…早く帰りたい)」
エドは、ヒロの顔を思い出してそんなことを思う。
そのとき、馬車が急に止まった。運転手が、あれ、と言いながら降りる。何ごとかと、エドも馬車から降り立った。
「どうした?」
「…車輪の調子がおかしいんです」
変だな…今朝は大丈夫だったのに…、と運転手は首をかしげる。エドは、えっ、と声をもらす。
「直るのか?」
「職人を呼ばないとだめです。…でも、街からだいぶ離れてしまったし、…ここから歩いて街へ戻るころには店も閉まってるだろうし…」
街から遠く離れた田舎道で立ちすくみ、運転手が考え込む。エドは、嫌な予感が頭をよぎる。運転手は、あっ、とうれしそうな声を上げる。
「あそこに宿があります!とりあえず坊ちゃまは、今夜はあちらでお休みください」
「い、いや、困る、俺は帰らないといけないんだ。馬だけ貸してくれ」
「乗馬用の道具なんて持ってきてません。無茶言わないでください、明日の午前中にはここから帰れるようにいたしますから」
運転手は、宿の方へ向かう。エドはその背中を見つめながら、頭が真っ白になっていくのを感じた。
パメラは、エドが用意した馬車にゆっくり乗り込むと、自分の屋敷までの道をぼんやり窓から眺めた。
「(…別れてから1年後、久しぶりにあの人を見かけた時、驚くほど変わっていた。…あの人を逃して惜しく思った気持ちと同じくらい、高揚した。私のことが心の中にずっとあって、だから彼は変わったんだって。女をとっかえひっかえしているのだって、私の傷を埋めるためだって、そう思っていた)」
パメラは、膝の上に置いた手に力を込めた。
「(…それなのに、…私以外の女と幸せになろうとしている。私を忘れて、のうのうと……)」
パメラは、気持ちを落ち着かせようと息を吐いた。そして、口元を緩めながら窓の外を見た。
「朝帰りになる言い訳は、きちんと奥様にできるのかしら?」
ふふ、とパメラは微笑むと、窓から視線を移して瞳を閉じた。
ウィルとアリスは、パメラが店を出たのを見送ると、そのしばらく後に席を立った。2人は帰りの馬車に乗り込むと、お互い一息ついた。
「とりあえず、無事終わりましたわね」
「最後険悪に終わったけどね」
「これを理由に、また別の何かを要求されたらどうなさいますの?」
「さすがにもう飲まないよ。叔父さんからアンドリュー侯爵に、めっ、してもらう」
ウィルは、はあ、と安堵のため息をついた後、窓の外を見た。
「思ってたより闇深いね、パメラ」
「傷としてでもいいから私を忘れないで、だなんて、とってもいじらしいじゃありませんか」
「どこが」
ウィルは、寒気を感じたような顔をした。アリスは、ふふ、と口元に手をあてて微笑んだ。
「まあ、エドがどえらいのに好かれてしまっている、ということは確かですわね」
「ほんとだよね。…パメラがこれで諦めたらいいけれど」
「ふふ、本当ですわね」
「まあ、今夜はゆっくりヒロと美味しい夕飯でも食べてくれよ、エド」
ウィルはそんなことを小さくつぶやいた。アリスはそんなウィルににこにこと微笑んだ。
夕暮れが過ぎて、辺りが暗くなってきた頃、ヒロは中庭のガーデンテーブルで花壇を眺めていた。そんなヒロのそばに、ハンナが近づいた。
「奥様、さすがに冷えてきましたから、家の中でお待ち致しましょう」
ヒロはハンナの方を振り向いて、いいえ、と頭を振った。
「ここで待つって、約束しましたから」
ヒロはそうハンナに微笑む。ハンナはヒロの笑顔に微笑みで返すけれど、少し訝しげな視線でどんどん暗くなっていく辺りを見渡す。
ヒロは、また花壇の方に視線を移した。色とりどりのアネモネの花の中で、紫色の花が揺れているのがヒロの目に入る。
「(…帰ってくる、きっと)」
ヒロはそう心の中で呟く。アネモネの花が優しく揺れるのを、ヒロは目を細めて見つめる。
その日、エドはこの家に帰っては来なかった。




