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よく晴れた、3月直前の早春の暖かい日差しがあふれる日に、ヒロはエドと一緒に屋敷から馬車で1時間ほどで着く山の麓に訪れた。

外に降り立つと、そこには一面の花畑が広がっていた。ヒロはその光景に目を輝かせると、吸い寄せられるようにそちらへ向かった。ヒロは目移りさせながら花を眺めて歩く。その後ろを、ゆっくりとエドが追いかける。花畑の中、以前エドが選んだワンピースを翻しながら、ヒロは浮ついた気持ちで歩いていく。

しばらくの間花畑の中を夢中になって歩き続けたヒロは、自分ひとりで楽しんでいたことに気が付き、後ろを振り向いた。


「これは、すごいですね…!」


ヒロは少し興奮しながら、後ろにいたエドに話しかける。エドは、ヒロを見て目を細める。


「あなたに喜んでもらえてよかった」


花畑の中で立つエドに、ヒロは目を奪われる。春の少し強い風が吹いたとき、自分の髪と同じように、エドの髪も揺れる。それを少しの間、ぼんやりと眺めてしまったヒロは、はっとすると、花に視線を移した。心臓の音をごまかしたくて、ヒロは早口で話し始めた。


「…昔、マーガレットとアリスと、野原にハイキングに出かけたんです。またいつか行きたいねって、話していました。でもなかなか機会がなくって、残念に思っていたんです」

「そうなんですか」


エドはそう返した後、少し黙り、そして、いえ、知っていました、と返した。ヒロは、えっ、と声を漏らすとエドの方を見上げた。エドはバツの悪そうな顔をしたあと、困ったように笑った。


「アリスから情報を仕入れていました」

「アリスから?」

「あなたが、何なら喜んでくれるのか、考えていたので」


あと驚かせようと思って、と続けるエドに、ヒロは目を丸くする。そして少しずつ頬を赤くすると、そうだったんですか、とエドから視線をそらした。

また風が吹いて、花や服が揺れる。ヒロは、あの、と口を開く。


「最初のお出かけのことなら、私、本当に嬉しかったんですよ」


ヒロはそうエドに話す。エドは、わ、わかってます、と、しかし少し苦々しそうに返す。その後、すこしずつ優しい表情に戻していく。


「…でも俺は、あなたが好きなもので喜んでいる姿が見たいから。だから、俺はあなたの好きなものがもっと知りたい。教えてください」


エドは優しい瞳でヒロを見つめてそう言う。ヒロは、胸の奥がざわつくのを感じた。心臓が痛いほど揺れて、苦しいほど熱い。ヒロは息苦しさに目を伏せる。


「(…でも、私は好かれやしない、誰にも)」


繰り返されてきた言葉が、こんなところでもぶり返す。傷つきたくない。自分なんかと下げておけば、それ以上傷つかなくて済む。ジムと恋に落ちて、その穴に自分一人だけが取り残されても、そこにずっと引きこもって、傷つかずに生きていけるずるい術を求めていた。その穴にずっといれば安全だとわかっている。それなのに今、狂おしいほど、目の前の人の傍へ、落ちた穴から這いずり出てでも行きたい。


「好きなもの…」


自分の好きなもの。それを考えたときに、ヒロの瞳にエドが映る。ヒロは視線が泳ぐけれど、それでも、エドの方をなんとかみつめる。


「私が好きなものは…」


ヒロがそう言いかけたとき、また強い風が吹いた。砂ぼこりを巻き上げるような風が当たったとき、ヒロは目に違和感がして目を閉じた。


「大丈夫ですか?」


エドがヒロの方に慌てて近づいた。ヒロは異物感がして目を開けることが出来ずに、はい…、と答えつつ両目を擦る。そんなヒロに、駄目ですよ、とエドが止める。


「こすると目を傷つけますよ。涙で流したほうがいいです」

「涙ですか…」


ヒロは開かない目に困惑しつつ、しかし、自然に涙が目から溢れるのを感じて、これでいいのだろうか、と頬を伝う涙を指でこする。エドはハンカチを取り出すと、ヒロの顔を覗き込んで涙を拭う。

ヒロは恐る恐る瞳を開ける。すると、すこしずつ目が開くことに気が付き、あっ、と声を漏らした。


「だ、だいじょうぶ…大丈夫そうです」

「ならよかった」


ヒロは目線を上げてそう嬉しそうに言う。すると、目の前にいた安心したような顔のエドと視線が合った。お互い固まったまま、数回瞬きをした。


「…」

「…」


綺麗な花畑の中で、なんとも気まずい沈黙が二人の間を漂う。お互いすこしずつ頬を染めながら黙り込んでしまった。

ヒロが耐えきれずに視線を落とすと、エドの手がヒロの肩に優しく置かれた。ヒロがはっとして視線を上げると、真剣な顔をしたエドと目が合った。そして、エドの顔がゆっくりヒロに近づいてきた。ヒロはそれに気がつくと、自然と瞳を閉じた。緊張から、ヒロは手に汗をかく。唇が触れそうになったとき、また風が吹いた。その拍子に、ヒロは、くしゅんっ!とくしゃみをした。その衝動でヒロの頭がエドの肩にすっぽり埋まった。


「…」

「…」


ヒロは、エドの肩に顔を埋めた形で体が硬直した。そして、申し訳ない気持ちで、…ごめんなさい…と謝った。


「(ここで…ここでくしゃみをするのか私は…!)」

「…いえ」


エドはそう言うと、肩に置いていた手を、ヒロの背中に回した。そして、優しくヒロを抱きしめた。エドの体温や匂いにつつまれて、ヒロは目を丸くして固まる。


「今日はここまでで」


エドはヒロの耳元でそう言うと、ゆっくり体を離した。そして、ヒロを見て目を細めた。ヒロはそんなエドを見上げながら、また赤くなる頬を感じる。私はこの人が好きなんだと、そんなことを思いながら。











「あれ、今日は縁談相手との食事会じゃなかった?」


スチュアート公爵邸のリビングにて、ソファーに座ってお茶を飲みながら本を読むアリスを見たウィルが尋ねる。アリスは本から視線を上げると、なくなりましたわ、と微笑んだ。ウィルが、なくなった?と首をかしげる。


「ええ。お父様がお断りをされたみたいです。顔合わせのときに少しお話がかみ合わないなと思っていたので、有り難いですわ」

「…どうせまた、相手を言い負かしちゃったんじゃないの?」


ウィルは苦笑いをしながらアリスの向かい側に座った。スチュアート公爵家との縁談を断れる貴族などこの国には存在しないため、いろいろと察した父から縁談の断りを入れてあげたのだろう。ウィルは、はあ、とため息をついた。


「君も来月には20歳だろ?そろそろ身を固めないとさすがに社会的にまずいのでは?」

「あら、お兄様はもう22歳でいらっしゃるのに、ご結婚はよろしいので?」

「この国では、女性の結婚年齢の方がうるさく言われるんだよ…って、これは君を敵に回すな」


にこにこ笑顔のアリスに、俺の意見じゃないから、この国の社会通念だから、とウィルは慌てて付け足す。

ウィルは話題を変えるために、そうだ、と口を開く。


「そうだ、ヒロのこと、助かったよ。エドがまたお礼に来たいって」

「あら、結構ですわ。大したことなんてしておりませんもの」

「にしても、ヒロが喜ぶのはハイキングかあ。そりゃあ、エドのこれまでの経験上思いつかないわけだわ」

「ふふ、女たらしだと散々言われていましたけど、存外大したことございませんのね」

「…街で見る歌劇より山でするハイキングが楽しいご令嬢もなかなかいないだろ」


ウィルの言葉に、ふふ、とアリスが頬に手を当てて微笑む。


「ご結婚されると伺ったときは、正反対に見えるお2人のお話が合うのか、とても不思議でしたけれど、意外と似ているところがあるのかもしれませんわね」


アリスの言葉に、似てるとこ?とウィルが首をかしげる。アリスは、はい、と微笑む。


「お互いがお互いのことを、どうしてこんなに自分のことを卑下しているんだろうと不思議に思っていらっしゃる。お互いを通して鏡を見るように、お2人ならば、自分自身にしている誤解を解きあえるんじゃないかって、私は思っております」


そう言ったアリスの顔を見つめて、ウィルは小さく息をつく。


「自分にしている誤解、ねえ…」


ウィルはそう言いながら、昔のエドを思い出す。いつもどこか不安そうで、所在ない顔をした少年のことを。少し会わない間に華やかな雰囲気になり、女性関係が派手になり、性格も自信ありげな様子に変わったけれど、その内側は昔よりもさらに自分のことが信じられなくなっていた青年のことを。そして、最近のエドのことも思い出す。どこな憑き物が取れたような、柔らかくなった彼のことを。

ウィルは小さく微笑むと、俺さ、と腕を組んだ。


「…俺、ヒロがあんなに自分のことを下げて、誤解しているのは、そばにいる君があんまりにも美人すぎるからだと思うんだ。こんな美人がいつもそばにいたら、だいたいの人は自信をなくすでしょう。比較対象が君になっちゃうんだもの」


ウィルの言葉に、あら、とアリスはにこにこと微笑む。


「そうおっしゃるのなら、エドがあんなに卑屈なのは、そばにいるお兄様が優秀すぎるからじゃありませんこと?」

「いやいや、エドを屈折させたのはあの圧の強い鬼父だから」

「なら、ヒロのことだって、外見のことだけでとやかく言う下品な外野のせいですわ」


ウィルは淡々とした表情で、そして、アリスはにこにこの笑顔で、そのまま2人は見つめ合う。


「…君は本当に気が強いな。少しは折れないと、結婚相手がいつまでたっても現れないぞ」

「まあ、結婚して子をなすことこそが女の最大の務めであるこの国で育った男性はおっしゃることが違いますわ」

「何か誤解している。俺は別に結婚なんかしなくていいと思ってる。でも、社会通念上、君が生きにくくならないか心配しているんだよ」

「でしたら、お兄様も早くお相手を見つけなさったらどうですか?この国の女は1人では結婚できないのですから、社会通念によって生きにくくされる女性を1人でも多くお救いくださいな。そんな国を作り上げた王族の1人として」


にこにこ笑顔のアリスに完敗したウィルは、はい…、と小さく俯いた。アリスは、窓の外を見た。


「良いお天気ですわね。今日はお花がきれいに見えているでしょうね」


アリスはそう言って微笑んだ。ウィルも窓の外を見ると、そうだね、と目を細めた。








ヒロとエドが馬車の方に戻ると、ハンナと馬車の運転手が、敷物を敷いており、そこにはバスケットがのせられていた。


「あっ、旦那様、奥様、そろそろランチにいたしましょうか」


ハンナがそう言って微笑む。ヒロが、はい、と頷くと、エドが、え、と声を漏らした。


「昼食を持ってきたんですか?」

「はい。ハンナと一緒に作りました」


ヒロは敷物の上にあるバスケットの前に座った。エドは、ヒロの言葉に、えっ、とさらに声を漏らす。


「…あなたが、つくった…」

「はい」


ヒロは、朝から頑張りましたよね、とハンナに微笑みかける。ハンナは、はい、と笑顔で返す。その2人の様子に、エドは背中に嫌な汗が伝う。


「(…クッキーを丸焦げにさせるこの人が、作った…)」


エドは戦々恐々とする。固まるエドに、どうぞ旦那様もこちらへ、とハンナが促す。エドは、あ、ああ…、と少し狼狽えながら返事をして、恐る恐るヒロの隣に座る。

ヒロはバスケットの蓋に手を伸ばし、お口に合うといいのですが…、と少し恥ずかしそうに目を伏せる。そんなヒロのことを、エドは素直に可愛いと思うものの、その可愛さが彼にはひどく辛かった。


「(…でも、ジムという男は、炭のようなクッキーを美味しいと食べた…)」


そんな事実を思い出せば、エドは腹をくくるしか無かった。ヒロの手が、バスケットの蓋を開ける。エドは覚悟を決める。


「(ど、どんなものでも食べる…食べてみせる…)」


そう誓ったエドの目に飛び込んできたのは、彩り鮮やかなサンドイッチだった。


「あれ…」


予想外にも普通に美味しそうな食事に、エドは拍子抜ける。ヒロは、オムレツのサンドイッチもありますよ、とエドに勧める。エドは、ありがとうございます、と小さく微笑む。


「(…前にした話を、覚えていてくれたのか…)」


エドは、嬉しい気持ちでオムレツのサンドイッチを手に取る。ヒロにじっと見られていることに気がついたエドは、いただきます、と言うと一口サンドイッチを食べた。ふんわりとした食感に、優しい甘さのオムレツの味に、エドは目を丸くしてヒロの方を見た。


「美味しいです、とっても」

「ああ、よかった」


ヒロは安心したように微笑む。そんなヒロをほほ笑ましそうにハンナと運転手がみつめる。

エドはもう一口食べながら、ならなぜクッキーは炭になるんだ…、という疑問が深まった。


「(…しかし、ジムと張り合えなかったことが少し悔しい)」

「やっぱり、美味しく作ったものを美味しいと言ってもらいたいですから」


ヒロはそう言って嬉しそうに目を細める。エドは、ヒロの表情に目を奪われたあと、ジムへの悔しさが吹き飛んだような心持ちで、はい、と頷いた。


「すごく美味しいです」


そうヒロに伝えるエドに、嬉しいです、とヒロは微笑んだ。ヒロを見つめるエドは、彼女につられるように口元をゆるめた。

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