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いつも夕方には中庭に出るヒロが、今日はずっと部屋にいたので、心配したハンナがヒロの部屋を訪れた。
ヒロは部屋でお茶を飲みながら本を読んでいた。そんなヒロを見て、今朝とはまた違う雰囲気を感じ取ったハンナは少し考え込んだあと、奥様、と呼びかけた。
「中庭には出られないんですか?」
「さ、寒いので…」
「そうですか。…もうすぐ旦那様が帰ってこられますし、お出迎えいたしませんか?」
「あ…」
「今朝はお顔を合わせられませんでしたし」
「…」
「……やっぱり、何かあったんですね」
ハンナの眼光が鋭くなる。その視線から逃れるようにヒロは目線を彼女からそらす。ハンナは、じいっとヒロを穴が空くほど見つめながら、小さくため息をついた。
「奥様、ご自分のお気持ちを胸の奥に秘めすぎると、伝えられることも伝えられなくなります。言わなくて良いことももちろんございますけれど、旦那さまと夫婦としてやっていく上では、多少はさらけ出さなければいけないこともあるかと存じます」
「…」
「こう言われたから嬉しくて、こう言われたから悲しかった。そういう感情を共有したら、もしお互い何か誤解をしていたらそれが解消に向かうかと思います。せっかく旦那様が向き合おうとしてくださっているのに、奥様が逃げ腰では何も進展いたしません」
ハンナに図星を突かれて、ヒロは言葉を失う。息が詰まりそうになったときに、ヒロは伏せたままのジムの写真に視線を移す。
「わ、私は…」
何かを言いかけたとき、逃げるようにジムの写真立てに視線をやるヒロの前に、ジムを遮るようにハンナが立った。
「今は、元恋人のことは良いのです」
「で、でも、」
「奥様、この状況で元恋人のことを持ち出すのは、それは旦那様と向き合うことへの逃げでしかありません」
「…」
ヒロが何も言えずに黙り込んだとき、窓の外からエドが帰宅する姿が見えた。ハンナがそれに気が付き、あっ、と声を漏らしたあと、さあ行きましょう、とヒロを急かした。しかしヒロは、どんどん顔を赤くすると、いや、無理です…と消え入りそうな声で返した。そんなヒロの様子に、ハンナはきょとんとする。
「(…このご様子、…喧嘩したわけではないのだろうか…)」
「…ごめんなさい、ご容赦を…」
ヒロは、本で顔を隠すと、ハンナから隠れるように机に伏してしまった。ハンナはそんなヒロに小さく息をついたあと、それでは、私だけ旦那様にご挨拶してまいります、と言うと部屋から出ていった。
なんともぎこちない空気の中での、ヒロとエドの夕食が終わった。ヒロはいつも通り部屋に戻り、寝る支度をハンナと一緒に整えた。
エドの部屋と繋がる扉の前でまごまごしていたヒロの背中を、ハンナが容赦なく押してエドの部屋に押し込んでしまった。
ヒロは、心の準備が整わないままエドの部屋に足を踏み入れた。顔を上げると、ソファーに座って本を読むエドがいた。エドはヒロの方を見ると、本を閉じてテーブルの上に置いた。ヒロは、目線を泳がせたあと、こんばんは…と蚊の鳴くような声を出した。エドはそんなヒロを見て少し目を丸くすると、はい、と返した。エドに自分の顔を見られることが耐えられず、ヒロはぎこちない様子でいつも寝ているベッドのスペースに腰を下ろした。
「(綺麗だなんて、人からほとんど言われてこなかったから、どうしたらいいのかわからない…)」
お世辞にしたって、あんなにたくさん人がいる前で言われたことが、ヒロには恥ずかしくてたまらなかった。
見ていた人たちが、こんな女のどこが綺麗なのかと、笑っていたかもしれない。ヒロは、顔を伏せたい気持ちになりながら、はやく寝てしまいたいと思う。
ベッドの向かいに置いてあるソファーに座ったままだったエドは、そんなヒロのことをじっと見ていた。エドに見られていることに気が付きながら、ヒロは顔が上げられずに固まる。ヒロは耐えきれず、目線を下にしたまま、あの…と口を開いた。
「ね、寝ませんか…」
「やっぱり、あなたはとても綺麗です」
エドはまじまじとヒロを見てそう告げる。そんなエドに、ヒロはぎょっとして視線を上げる。エドと目が合った瞬間、堪えきれずにヒロは赤い顔を両手で覆った。
「……もう見ないでください…」
視界を自分の手で遮断すると、荒くなっていた呼吸を少しずつ抑えることが出来た。綺麗だと言われて嬉しくて、でもそんなわけがないとも思って、こんな顔が綺麗だなんて周りから笑われるとも思って、複雑な感情が絡まりあう。
いつも周りから貶されてきた。周りの綺麗な人たちと比較されて、いつも自分は劣るのだと言われてきた。自分は周りから選ばれる価値のない人間だった。そんなことを他人から言われて何度も傷つきたくないから、自分は価値がなくて当然だと自分から口にした。自分で自分を貶めて、透明にして、いないものにしていた。ただただ、もうこれ以上、傷付きたくなかったから。
エドは、ソファーから立ち上がると、ヒロの前でしゃがんだ。そして、ヒロの顔を覆う手を両手で優しく握ると、ゆっくり下ろした。ヒロの顔がまた外に晒される。エドのきれいな瞳に、自分の醜い顔が映るのが見えて、ヒロは、額に汗をかきながら、顔を俯けた。
「…みないでください」
「なぜ?こんなに綺麗なのに」
「そんなわけがない」
「どうして?」
「…そう、言われてきたからです」
ヒロは、消えそうな声でそう言った。エドはそんなヒロを、優しい瞳で見つめる。
「きっと、これまであなたは、運悪く、あなたのことを不当に悪く言う人に出会い続けていただけです」
エドはそう話し始めた。ヒロは、顔を俯けたまま、え、と声を漏らした。
「あなたが不運でいてくれたから、今、こうやって俺はあなたに出会えたんだと思います。…でも、そんなことを言うと、俺はあなたのこれまでの不運を喜んでいることになってしまう」
エドは、ヒロの手を握ったまま、うん…と考え込んでしまった。ヒロはゆっくりと顔を上げて、エドの方を見た。顔を上げたヒロに気がついたエドは、ヒロと目が合うと、優しく目を細めた。
「やっと俺の方を見てくれた」
エドにそう言われて、ヒロはまた視線を泳がせる。エドは、ヒロの瞳を見つめたまま、繋いだ手を握り直す。
「俺はどうしたって、あなたの不運を喜ぶしかない。だからこれからは、これまであなたが傷つけられた分、それ以上に、俺があなたに綺麗だと伝えたい」
エドの言葉に、ヒロは喉の奥が震える。自分の手に力が入って震えたとき、エドがまたヒロの手を優しく握った。ヒロは呼吸をくり返したあと、私は、と呟いた。
「私は、綺麗なんかじゃない。鏡もまともに見られなくなるくらい、ずっと、そう、言われ続けてきたから」
「この世界に何人人間がいると思っているんですか。中にはそういう心ないことを言う奴もいます。でも、あなたのことを良く言う人だってたくさんいるんです」
エドはそう言うと、いや…、とまた考え込む。ヒロがそんなエドを見つめる。
「あなたをよく言う人がたくさんいたら困る…特に男…」
「えっ?」
「やっぱり俺だけでいいか…いや、それも独りよがりか…」
エドは、うん…、とまた考え込んでしまった。そんなエドをきょとんとした顔で見つめていたヒロは、堪えきれずに、小さく吹き出してしまった。くすくすと笑うヒロを見て、エドもゆっくり微笑んだ。
2人して少しの間小さく笑った後、なんとなく気恥ずかしい沈黙が訪れた。エドは、ヒロの手を握ったまま黙り込む。
「(…抱きしめたい)」
エドはヒロの瞳をじっと見つめる。
ヒロはエドの瞳を見つめ返した後、恥ずかしさに目を伏せる。
「(…抱きつきたいな)」
ヒロはそんなことを心の中で思う。しかし、そんなことをする自分を想像したら、恥ずかしさに体が震える。
2人の間に沈黙が流れ続ける。
「(…女の人からそういうのって、やっぱりはしたないと思われるのかな…)」
「(かといって、彼女に前みたいな顔をさせたら嫌だ…)」
「(でも、心がうずうずする…もぞもぞする…)」
「(かといって、…こんな好機もうないかもしれない)」
「…」
「…」
「(…エドはどう思っているんだろう)」
「(…ヒロはどう思っているんだろう)」
しばらくの沈黙の後、2人同時に、あの、と話し始めた。2人は目を合わせると、お互いがどうぞ、と言った。その後、少しの沈黙がまた訪れた。
沈黙を破るように、エドが、あの、とまた話し始めた。
「…あの、…寝ましょうか…」
「あっ、そ、そうですよね、そうしましょう…」
ヒロはそう言うと、取り繕うように笑った。エドは、今世紀最大の、そうじゃないだろ俺、を心の中で噛み締めた後、ベッドの上に乗り、いつもの位置に体を横たえた。




