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ビル伯爵家で開かれたパーティーの翌日、ヒロはいつもどおりエドと一緒に目覚めて、朝食をとり、エドを見送った。今日は帰りが遅くなりそうだという旨をエドから伝えられると、わかりました、とヒロは答えた。
出かける直前、ヒロは、今日はアリスの家に行くんでしたよね、とエドに尋ねられた。一瞬そのことを忘れていたヒロは、少しだけ動揺しながら、はいそうです、と答えた。気をつけて行ってきてください、とだけ言うと、エドは馬車に乗り込んだ。
「(…うっかりしていた…アリスとの約束をど忘れするだなんて…)」
中庭で花の世話をしながら、ヒロはそんなことを考える。昨日のパーティーから、自分は、普通を取り繕うけれど、全然普通でいられなかった。
昨日マリアに叩きつけられた言葉たちが、ずっとヒロの頭の中でくり返し響き渡っていた。また思い出して、ヒロは作業する手が止まる。
「(…こんなふうに言われるなんて、これまでの自分ならば容易に想像できていたのに。…浮かれていた。だから、無駄に傷ついた)」
ヒロは、鼻の奥がつんと痛むのを感じた。溢れそうになる涙を、なんとか引っ込める。自分は、エドと夫婦になれるのかもしれないなんて、思い上がっていたのだ。出会ったときから、住む世界の違う人だとわかっていた。それなのになぜ、自分はエドの好意を信じようなどと思ってしまったのか。傷つくのはいつも、舞い上がって思いあがった自分だというのに。
「(…パメラならよかった、か…)」
中庭での作業を終えたヒロは、ハンナたちメイドと一緒に洗濯物を干しに向かっていた。ヒロは少し考えた後、ねえ、とハンナに話し掛けた。ハンナは振り向き、はい、と笑顔を浮かべた。
「パメラ、って聞いたことある?」
「パメラ?…うーん、私はちょっと…、あっ、あの、聞いてもいいですか?」
ハンナは即座にそばにいた他のメイドに尋ねてしまった。デジャヴを感じながら、ヒロはしまった…と思いつつ、またどんどん話がメイド達の中で広がっていくのを眺めていた。
すると、パメラを知る者が現れた。彼女はヒロのそばに来ると、旦那様の元恋人です、とヒロに告げた。
「(元婚約者の次は、元恋人…)」
「学生時代にお付き合いされていた方かと存じますけれど、旦那様は家を離れて全寮制の学校に通われていましたから、そこまで詳しくはわからないです」
「そ、そうなんですか、ありがとうございます…」
ヒロは話してくれたメイドにお礼を言う。すると、ハンナと目を合わせた彼女は、あの、とヒロに話し掛けた。
「旦那様と何かありました?」
「え?」
「旦那様と奥様、昨日帰ってきてから、なんだかぎこちなくって」
ハンナの言葉に、ヒロは固まる。ヒロは少し黙ったあと、苦笑いを浮かべて、そんなことないですよ、と頭を振る。ハンナたちはまた顔を合わせると、ならいいんですけれど…、と呟く。ヒロは、ごまかすように微笑むと、今日も寒いですね、と話し始めた。
アリスの住む、スチュアート公爵の屋敷にヒロは向かった。応接室に通されて、ヒロはアリスと話を始めた。すると、しばらくしてウィルが顔を出した。
「いらっしゃい、ヒロ」
ウィルはそう言うとアリスの隣に座った。アリスは、あら、お兄様、と微笑んだ。ヒロは、お邪魔してます、とウィルに頭を下げた。
「あれ、もう1人の子は?喧嘩したの?」
「ふふ、違いますわ。マーガレットは急に家の用事ができて来られなくなってしまいましたの」
「ああそう」
ウィルは、使用人が準備したお茶に口をつけた。ヒロは、ウィルを見つめながら、そういえばこの人はエドと一緒に学校に通っていたんだった、ということを思い出す。
ヒロは少しだけ迷ったあと、意を決して、あの、とウィルに話し掛けた。
「ウィルって、エドと同じ学校に通っていらしたんですよね?」
「うん。学年は俺のほうが2つ上だけど」
「…パメラ、って方、御存知ですか?」
「パメラ?うん、知ってるよ。どうして?」
ウィルが、じっとヒロを見つめる。ヒロは戸惑った後、昨日、ビル伯爵のパーティーで、マリアからその人の名前を聞いて…と返した。すると、ウィルとアリスはお互い顔を見合わせた。そして、ヒロに聞こえる音量でお互いヒソヒソ話を始めた。
「でたよ、やっぱりマリアがヒロに意地悪してきたよ。意味深に知らない女の名前だして牽制してきてるよ」
「ご自分がエドと結婚できないからひがんでいらっしゃるのかしら?」
「それに加えて、エドなら結婚してもこれまで通り遊んでくれそうと思っていたのに、存外冷たくされて、八つ当たりしちゃったんじゃない?」
「まあ、私の思っていた通り、彼女やっぱり怖いですわ」
「俺には君のほうが怖いけどね」
「あ、あの…」
ヒロは困惑しながら2人を見つめた。ウィルは、ごめんごめん、と謝る気もなく繰り返す。
「そうそうパメラね、えーっとね、学生時代のエドの恋人だよ。パメラ・アンドリュー。アンドリュー侯爵家のご令嬢。俺の知る限り、エドの初めての恋人じゃないかな?でも、俺が卒業したあとの話だから、俺はそこまで詳しくないんだよね」
「あら、その時に初めての恋人ができただなんて、なんだかこれまでのエドのイメージではありませんわね。もっと女性をとっかえひっかえしていそうなものですけれど」
ウィルが卒業したあとの話となれば、エドが15歳以降のときに恋人ができたということになる。ウィルが、ほんとだよね、と笑う。
「今のエドのイメージならそうかもね。でもエドって、もともとすっげー暗くて、勉強しかしてない奴だったよ」
「そ、そうなんですか…?」
ヒロは想像がつかずに目を丸くする。ウィルは、ほんとほんと、と小さく笑う。
「初めてエドに出会ったのって、学校の図書館でさ。いつみてもエドがいて、死んだ顔で図書館が閉まるまで勉強してるから、学校一の天才だった俺がみかねて声をかけて、勉強を教えてあげたら、すぐに懐いたんだよね。いやー、あの頃は素直だったな」
ウィルが、うんうん、と頷く。アリスが、あら、と口元に手を当てて微笑んだ。ウィルが、まあさ、と続ける。
「もちろん当時から顔は良かったけど、如何せん暗かったから、そこまで騒がれてない印象だったな。その男が、学校のマドンナだったパメラと付き合ったって聞いたときはびっくりしたな。一体どんな手を使ったのやら」
「パメラという方は、マドンナだったんですか?」
アリスが尋ねると、そうだよ、とウィルが返す。
「容姿端麗で、かつ才女で、性格も社交的でいつも周りに人がいたな。その美貌と才能を見初められて、来月には隣国の第3王子のところへ嫁いでいくことが決まってる」
ヒロは、ウィルの話を聞きながら、そ、そうなんですか…と呟いた。ウィルは、実はさ、とヒロの目を見た。
「ヒロに頼みたいことがあって、今お茶会に参加させてもらってたんだよね」
「頼みたいことですか?」
「そ。エドに、パメラと別れた理由を聞いて欲しいんだよ。ヒロに聞かれたら素直に答えるだろうから」
ウィルの頼みに、ヒロは瞬きを繰り返す。アリスが、あら、と頬に手を当てる。
「なぜそんなことをお兄様は知りたいんですか?」
「パメラには、国益のために外国に嫁いでもらう。かつ、本来ならアリスが嫁ぐはずだった結婚がおじゃんになったから、その代わりにパメラに嫁いでもらうことになったから、王家としては結構彼女に感謝しなきゃーって感じなわけ」
ウィルの言葉に、まあ、とアリスが微笑む。ウィルはそんなアリスに溜息をつく。
「まあ、じゃないよ。隣国の王子泣かせちゃうなんて前代未聞だよ」
「私はただ、彼が傲慢な口ぶりでご自身のご意見をお話になる中、多くの矛盾点がございましたから、そちらを恐れながら指摘させていただいただけですわ」
「ほんと怖いんだけどこの妹。…アンドリュー家もパメラ本人も乗り気の婚姻とはいえ、こういう経緯があるから謝意は示さないといけない。そんな中、彼女の結婚を祝うパーティーを来週に開くように準備をしていたら、つい先日彼女から、必ずエド・アディントンとその妻を参加させろってお達しが来たんだよね」
ウィルの言葉に、ヒロは固まる。アリスが口元に手を当てて、まあ、と微笑む。
「それは…何かありますわね」
「でしょ?」
「な、なにか…」
ヒロは呆然としながら呟く。ウィルは腕を組む。
「彼女もエドに未練があるのか、別れたときになにかあって彼を見返したいのか…。それを事前に知っておきたくてさ。何せ、パメラと付き合ってからなんだ、エドがあんなふうになってしまったのは。…当日なにかあると困るから。お願いできるかな、ヒロ」
ウィルに頼まれて、ヒロは目を伏せる。自分なんかが、そこまでエドに踏み込んでいいのかがわからない。その上、彼女がエドを変えてしまったということもヒロに衝撃を与えた。そんな女性との過去の話に、自分が足を踏み入れていい訳がないとしか、ヒロには思えなかった。
困惑しているヒロを見つめていたアリスが、笑顔で頬に手を当てた。
「まあ、なんだか好きな人の元恋人のことを探るなんて、なんだかとってもドキドキしてしまいますわね」
アリスの言葉に、ヒロは固まる。アリスはそんなヒロを見て、あら、と微笑む。
「まだ確信はしていらっしゃらないの?」
「す、好き…」
ヒロはその言葉の後すぐに、マリアの言葉が思い出されて胸が重くなる。自分なんか似つかわしくないと思えば息が詰まりそうで、ヒロは言葉を失う。そんなヒロを見たウィルが、やめろよ、とアリスに溜息をつく。
「せっかくヒロに聞いてもらおうと思ったのに、アリスが変な茶々入れるから聞いてくれなさそうになっちゃっただろ」
「まあ」
「あの、私…」
「あー、いいよ、ごめんね、俺の仕事だから俺が聞くよ。ヒロは気にしないで」
まあ俺は、当時のエドが勉強しかしてないから、恋人にするにはつまんねー男だからフラれたと踏んでるけどさ、とウィルが呟く。そんなウィルに、アリスがにこにこと微笑む。
ウィルが、目を伏せるヒロの方を見ると、小さく口元を緩めた。
「それじゃあ、俺は退散するね。お邪魔しました」
「いいえ」
アリスは、去っていくウィルの背中に軽く手を振る。ヒロは、そんなウィルに小さく頭を下げた。
すると、アリスが、あっ、と声をもらした。
「そうだ、明日、私お城へ行きますの」
「お城?」
「はい。叔父様が久しぶりに私とお茶がしたいっておっしゃるから、そのお付き合いで。よろしかったらヒロも行きませんか?」
「(叔父様…?)ええと、私もいいのかな?」
「もちろん」
アリスはにこにこと微笑む。ヒロは、一人で家にいても気が滅入るだろうと考えて、それじゃあお邪魔しようかな、と返した。




