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スミス家とアディントン家の婚約については、トントン拍子に話が進んだ。親同士が結婚式の日付までどんどん決めていく横で、ヒロは鼻歌を歌いながら中庭の花壇に水をやっていた。

ジムが他の人と結婚してしまってからずっと、あんなにジム以外の人との結婚に乗り気じゃなかったヒロの突然の心変わりは、ヒロの両親にとって嬉しい驚きだった。実際にお会いしたけれど、ご本人はもちろんご両親もとても良さそうな方たちでよかった、と安心した笑顔で話し合う両親の向かい側で、ヒロは笑顔のままでいた。


「(…お互いがお互いを愛する必要のない結婚だとわかったから…とは言えない)」


ヒロは、両親への隠し事に内心どきどきとしていたけれど、それでも、自分の新たな居場所のためならば黙っているしかなかった。

結婚相手になるエドにはこれからも自分ではない恋人が居続ける。こんなにもヒロが、夫以外の男を思い続けるのに罪悪感の沸かない結婚が他にあるだろうか。


「ご機嫌だな」


後ろから声がして、顔だけ振り向くと仕事から帰ってきたらしいランドルフが立っていた。ヒロはジョウロを持ったまま、おかえりなさい、と体ごとランドルフを振り返って微笑む。すると、ジョウロの中に入った水が、ヒロのスカートの裾にかかってしまう。ヒロは、あっ!と声をこぼす。少し目を丸くしたランドルフが、眉を下げて目を細めたあと、ヒロの前に歩いてくると、しゃがみこんだ。そして、ヒロのスカートの濡れた部分を自分のハンカチで拭いた。


「相変わらず、ぐずだな」


そう小さく笑ってくれる兄に、今までならば苦笑いでありがとうございますと甘えられていたはずのヒロなのに、他人の彼にそんなことをさせてしまうのに躊躇してしまい、顔が引きつる。


「す、すみません…。着替えますからお気になさらないでください…」


ヒロはスカートを自分の手ではたくと、拭いてくれる彼の手から逃れた。ヒロの今までと違う拒絶するような行動に、ランドルフは目を丸くしてヒロを見上げる。ヒロは居心地悪そうにランドルフから目をそらす。綺麗に咲いている花たちが風に揺れる。ランドルフは目を伏せた後、中腰になりヒロと視線を合わせた。


「…父さん達は彼の噂を知らないだろうし、噂だけであんなに大きな家との縁談に俺はケチを付けられない。でも、お前が嫌だと言えば断れる話でもあるんだ」


ランドルフの優しい声がする。ヒロははっとしてランドルフの方を見る。普段と変わらない優しい兄の顔を見たとき、幼い頃の記憶がよみがえる。昔から頭が良くてしっかりしている兄と、引っ込み思案でなんにも上手くいかない妹。他人に埋もれてしまうような妹でも、兄は絶対に見放さなかった。何度も転んでは泣く妹に、懲りずに手を差し出し続けてくれた。


「(でももし、本当は血がつながっていないって、わかっていたとしたら…)」


本当の家族ではないと分かった途端、優しさの根拠がヒロの中で迷子になる。彼にはもう、こんな自分に親切でいる理由はないのだ。それは両親たちも同じ事。この家にはもう、他人の自分の居場所はない。

ヒロは、ランドルフに笑顔を見せる。


「私、嫌ではないんです」


ヒロは、笑顔でランドルフに告げる。ランドルフは、そんなヒロを心配そうに見つめる。ヒロは、ランドルフから数歩後ずさった。


「着替えてまいります、失礼いたします」


ヒロはジョウロを地面に置くと、ランドルフを置いて歩き出した。






結婚式の招待状を送り終わったある日、マーガレットとアリスがヒロの部屋へやってきた。マーガレットは、半信半疑の顔でヒロの顔をまじまじと見た。


「あんなこと言ってたのに、まさか本当に結婚してしまうなんて…」

「本当よね。自分でもびっくりしてる」


ヒロは紅茶の入ったカップを持ちながら苦笑いを漏らす。マーガレットは、ずいっと近づきヒロの目を心配そうに見る。


「ねえ、本当にいいの?あのアディントン侯爵家のエドよ?つい先日だって、某ご令嬢とパーティーで親しげにしていたって噂よ」

「結婚は家同士でするものでしょう?そこは割り切ることにしたの」


すんと返すヒロに、マーガレットが、そんな…と目を丸くする。


「それはそうだけれど…」

「でも、思い切りましたわよね、あんなに結婚に後ろ向きでいらしたのに」


アリスは、本棚に変わらずに飾られるジムの写真をちらりと見たあと、ヒロの方を見た。ヒロは少し黙ったあと、私、と話し始めた。


「私、この家の本当の子どもじゃなかったみたいなの」


ヒロの言葉に、2人の友人は口をつぐんだ。ヒロは、深刻な雰囲気にしてしまってごめんなさいね、でも、2人には話しておこうって、と苦笑いを漏らした。


「だから私、ここに甘えて居続けられないの」

「…でも私、ヒロのご両親なら、ヒロが嫌だって言うのなら、咎めないと思う。だって、これまでもそうだったじゃない」


マーガレットが、じっとヒロの目を見つめる。ヒロは、マーガレットの大きくてきれいな瞳を見つめ返す。相変わらず、この子はたくさんの人に愛されてきた顔をしている、とヒロは思う。例え何にもなかったとしても自分が必要とされるのだと、無償の愛を信じることができる、素直で綺麗な女性だと、ヒロは彼女がとてつもなく眩しく思える。

アリスは、ヒロとマーガレットを順番に見つめたあと、にこりと微笑んだ。


「ヒロの良いようにしたら良いんだと思います。ヒロの生きやすいところで、ヒロが綺麗に咲けるのなら。あんまり外野がとやかく言いすぎてはいけませんわ」


アリスは、マーガレットを宥めるように優しく声を掛ける。マーガレットはアリスの方を見たあと、少し不服そうに口をつぐんだ。アリスはそんなマーガレットを見て優しく微笑んだあと、ヒロの方を見た。


「私たち、ヒロの結婚式をとっても楽しみにしていますわ」


アリスの言葉に、ありがとう、とヒロは返した。








結婚式の前日、ヒロはまた家の中庭の花壇に来ていた。ジョウロで花たちに水をやり、最後のお別れをする。

初めての顔合わせ以来、エドとは会うどころか連絡すらなかった。両親は政略結婚とはいえさすがに不可解に思っていたけれど、特にそんなことは気にせずご機嫌に過ごすヒロを見て、深くは問わなかった。


「今日も綺麗ね」


ヒロはジョウロを地面においてから、腰を曲げて花たちを近くで見つめる。昔、ジムとよく静かに花を見ていた。綺麗だね、と花に微笑むジムの横顔を思い出し、ヒロはゆっくり微笑む。


「(これから新しい場所で、何も憚られることなく、ジムとの思い出と生きていける)」


ヒロは、ゆっくり深呼吸をする。家を出る支度はもう済んでおり、その荷物の中に、ジムとの写真ももちろん入っている。新しい場所で、エドの妻という誰にも何も文句を言われない立場で、静かにジムのことを日がな一日思い続ける。そんな生活を想像して、ヒロは胸が高鳴る。


「あらヒロ、こんなところにいたのね」


母の声がしてヒロは振り返った。母はヒロの隣に立って、花壇を見つめる。


「まあ、ヒロがちゃんと世話をしているから、とっても綺麗に咲いているわね。ヒロは本当にお花が好きね」


母はそう言うと、ヒロの方を見て優しく目を細める。ヒロはほほ笑み返す。


「この花壇、この家の方が後は育ててくださるようで安心しています」

「ええ、きちんと面倒を見るわ、大丈夫よ。…そういば、結婚のことで忙しくって、大切なあなたの20歳の誕生日パーティーを開けていなかったわ。近い内に開きましょうね」


ヒロは、優しい母の表情に、大切にしてもらえた嬉しさが湧き上がるけれど、それを必死に宥める。他人の私にはもう、彼女にそんなことをしてもらえる価値も理由もない。

ヒロは微笑むと、頭を振った。


「…しばらく新婚生活でばたばたしますし、私はもうアディントン侯爵家の人間になりますから、あちらの意向に沿います。そういうのはしない家なのかもしれませんし」


ヒロの言葉に、目を丸くした母は言葉を失い、しばらく固まったあと、無理やりな笑顔を作って、そうよね、と言った。


「あなたはもうこの家の子どもじゃない、そう、そうよね、そうなのね…」


自分に言い聞かせるように繰り返す母に気が付かないまま、ヒロは母と向き合った。


「今日まで大切に育てていただいて、ありがとうございました」


ヒロはそう言うと、深々とお辞儀をした。そして、顔を上げると母と目を合わせて微笑んだ。母は、そんなヒロに目を丸くすると、やめてよ、改まっちゃって、と笑った。少しの間笑っていた母だったけれど、どんどんその瞳に涙をためていった。彼女の、ヒロとは違う黒い髪が風に揺らされる。母はヒロの方をまっすぐに見ると、彼女に手を伸ばして、娘を胸の中に抱きしめた。


「本当に、大切に大切に育てました」


母は、ヒロに優しく頬ずりをする。ヒロは、母に身を任せる。涙をこぼす母は、一度大きく息をつくと、ヒロの頬に自分の頬をくっつけたまま空を見上げた。


「だから、嫁いだ先でもどうか、大切に大切にされてください。あなたならきっと大丈夫。こんなにかわいくって、愛おしいのだから」


母は、心からそう祈る。ヒロは、目を伏せて、自分を育ててくれた女性の背中に手を回す。


「(他人の私を、今日まで育ててくれて、本当にありがとうございました)」


そう心の中で返すヒロには、母の涙が見えなかった。ヒロは明日、この家を出ていく。

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