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スチュアート公爵の誕生日パーティーのあった日の夜は、ヒロとエドはどこかお互いよそよそしく接していた。特に話さずに、就寝の挨拶だけするとすぐに電気を消して眠ってしまった。
翌日、いつも通り2人は朝食を一緒にとった。ヒロはエドを見送って、それから花の世話を始めた。
花の世話を終えると、ヒロは洗濯物を干し始めた。冷たい風を頬に感じながら、使用人たちと洗濯物をどんどん干していく。
ヒロは、そばに来たハンナの方をちらりと見て、あの、と話し掛けた。なんですか?とハンナは洗濯物を干す手を止めてヒロの方を見た。
「あの、…マリア、って女性を知っている?」
「マリア?」
ハンナはきょとんとして首を傾げた。
「ごめんなさい、私はよく…」
「そうなのね」
「……旦那様の浮気相手ですか?」
ハンナの目が鋭くなる。ヒロはぎくりとして、恐る恐るハンナの方を見た。
「いえ、あの…元婚約者の方だって…」
「ああ、なんだ、驚きました…。元婚約者ですか…。私、このお屋敷に来てまだ1年経つかどうかなので…あ、ねえ」
ハンナはそばに来た使用人に、マリア様って御存知?と尋ねる。ヒロは、話が大きくなることを恐れてあわてるが、マリア様?知ってる?とどんどん話題は広まってしまった。
使用人同士で聞きあう中で、とうとうマリアを知る人物が現れた。彼女が言うには、マリアはオリバー伯爵家の令嬢で、親同士が仲が良かったため、幼い頃からエドと顔見知りだったのだという。両家の親の間で、2人を婚約者にするかという話が上がったけれど、そんな話もすぐに立ち消えたのだそう。そもそも、マリアは既に、レオ・タイラーという子爵家の子息と婚約しているのだという。
ヒロはその話を聞き、自分の中のもやもやが少し晴れるのを感じた。少しずつ表情がやわらぐヒロを見たハンナが、にやにやと口元を緩めた。
「奥様、それはもう、気になりますよね。当然です。旦那様の元婚約者だなんて」
「えっ、えっ…」
「旦那様に直接お聞きになればいいのに」
「…」
ヒロは目を丸くして固まった後、苦笑いを浮かべた。
「私に聞く権利なんて、ないのかなって」
「聞く権利、ですか?」
「こんなに中途半端な態度でいて、そのくせ、前の婚約者のことだなんて…」
そう言ったヒロに、奥様!とハンナが声を張る。ヒロは、えっ、と驚きながら声を漏らす。
「旦那様に聞いたらいいんです。気にしているとお伝えしたらいいんです。きっと、旦那様はお喜びになられます。奥様の心を少しずつでいいから、開いていきましょう。そうしたら、4月までにきっとお二人が夫婦になれます」
「…」
ヒロは、ハンナの目を見て固まる。
「……夫婦になれるかどうか試している、…って話、私したかしら…?」
「お二人を見ていたらわかります」
「いやっ、なら、4月とかっていうのは…」
「細かいことはいいんです。思っていることを素直にお伝えしたらいいんです!」
ハンナの熱心な様子に押されながら、ヒロはおずおずと頷いた。
2月も中旬になった頃、よく晴れた日に、ヒロは春の花の種をまく準備をしようと思い立った。前にエドと種を買いに行ったまま、いつしようかと考えていたけれど、ようやく思い立ったのである。
エドと2人で朝食を食べ終わり、ヒロはいつも通りエドを見送ろうと思ったけれど、エドは普段と違い、のんびり食後のコーヒーを飲んでいる。
「今朝は随分ゆっくりなんですね」
「え?」
エドがヒロの方を見て、そして、はい、と頷く。
「休みなので、ゆっくりしようかと」
「休み…休み?」
ヒロは目を丸くした。今日は日曜日だったかと頭を回転させるが、ヒロの記憶が正しければ水曜日のはず。エドは、あれ、と呟く。
「伝えていませんでしたか?今日休みになったって」
「たぶん…」
「すいません、伝えた気になっていました」
「あ、いえ、ただ、自分が曜日すらあやふやになったのかと慌てて…」
ヒロが安心したように息をはくと、そんな彼女を見たエドは笑った。
「今日のご予定は何でしたか?」
「えっと、…種をまく準備をしようとしていました」
「ああ、そうなんですか」
「あなたのご予定は?」
ヒロに尋ねられると、エドは少し考えた後、それじゃあ俺もあなたと一緒にします、と返した。
「…さっ…む……」
花壇にやってきたエドは、冷たい風に吹き付けられて体を硬直させた。ヒロはそんなエドを見て小さく笑う。
「やめておきますか?」
「…いいえ、やります」
エドはヒロの隣に立ち、気合いを入れるように小さく息を吐いた。
ヒロは、それじゃあ、と言いながら持ってきたクワを持った。そして、花壇に入ると手慣れた様子でざくざくと耕し始めた。
「こんな感じです」
ヒロは、花壇の外でクワを持って呆然と見ているエドに話し掛けた。
「(種を蒔く準備って、これか…)」
エドは、想像以上の肉体労働に驚きながら、ヒロの見様見真似でクワを使って花壇の土を耕していく。
ヒロは、途中から肥料も土に混ぜ込んで、また耕す。エドは、寒かったはずの体がどんどん熱くなるのを感じながら、はあ、と息をつき、手を止めた。そんなエドを他所に、ヒロは楽しそうにどんどん土を耕していく。
「…元気ですね」
「はい、楽しくって」
ヒロは、この冬空の下で、額に汗をかきながら微笑む。
「それに、筋力不足解消になりますし」
ヒロはそう言って、またクワを動かす。エドは、そんなヒロを見つめて、小さく微笑む。そして、どんどん耕すヒロに比べて、懸命にやっているつもりがあまり進んでいない自分の場所を見て、小さく息をつき、また手を動かし始めた。
花壇の中の土を耕し終えて、ヒロとエドは花壇のそばのガーデンテーブルに腰を掛けた。
エドは、体が痛むのを感じながら、しかし、耕し終えた達成感を感じていた、
「今から種まきですか?」
エドが尋ねると、ヒロはいいえ、と頭を振った。
「これから3週間位寝かせて、3月になってから蒔きます」
「そうなんですか…。なんの花の種を蒔くんですか?」
「ペチュニアにしました。色々な色や形があって、綺麗なんですよ」
「そうですか。楽しみですね」
エドは、そう言って小さく微笑む。ヒロは、花が咲く日を想像して笑みが漏れる。
ふと、エドがヒロの方を見ていることに気がつく。ヒロは隣のエドの方を見て、どうかしましたか、と尋ねた。エドはヒロと目が合うと少し目を丸くした後、いえ…、と濁した。そしてしばらく黙ったあと、あの、と口を開いた。
「前に、食事の話をあなたとしたとき、俺はなんで食事のことを考えないようになったんだろうって、考えたんです」
ヒロは、話すエドの顔を見つめる。
「小さい頃、仕事が忙しい父と顔を合わせるのは食卓くらいで、そこでいつも、勉強や成績の話を詰められて、…いつも食べ物の味がしなかった。自分が、父の望む息子には足りていないと思う度に焦って、頭が真っ白になって…。食べ物の味を感じる習慣が、俺にはついていなかった」
エドは目を伏せて少し息を吐いたあと、でも、と続けた。
「あなたとその話をしてから、食事を気にして食べてみたんです。あなたと向き合って、他愛のないような話をして、笑って、それで食べてみたら、…美味しかったんです」
エドはそう言うと、目を細めた。ヒロは、これまで自分が、スミス家で楽しい団らんの中で食事をしていたことを思い出す。おそらく、ヒロが経験してきた光景が、彼にはなかった。
ヒロは、優しい両親の顔を思い出しながら、でも、自分は彼らの本当の娘ではなかった、と思い出せば、彼らの笑顔すら信じられない。
ヒロは、これ以上考えたくなくて、それはよかったです、とエドに返す。エドはヒロの瞳をみて口元をゆるめる。ヒロはそんなエドに、それじゃあ、と口を開く。
「特に何がおいしかったですか?」
「え?えっと、…オムレツ、ですかね、トマトソースのかかった」
「(オムレツ…小さい子みたいで可愛い…)」
ヒロは内心そう思いつつ、口に出すとエドが機嫌を損ねる気がして笑顔だけ浮かべる。エドはヒロに微笑み返す。エドのその表情を見たとき、ヒロは胸の奥が少し揺らされるのを感じる。
「(……心を開く…か…)」
ヒロは、エドから視線をそらして、庭の方を見た。花壇生えていたローズマリーは、ハンナと一緒にお茶にするために収穫したため、もう残っていない。エドと夫婦になれるかを確かめる期間が始まってから、ジムの写真立ては伏せたまま。
「(…この人は、本当に私のことが好きなんだろうか)」
耕したばかりの花壇を見つめながら、ヒロはそんなことを思う。あの日から1ヶ月半が経つけれど、その間のエドの言動から、ヒロを大切にしようという気持ちが伝わる。
「(…信じてみたら、良いんだろうか。この人のことを好きになれば、そうしたら、良いんだろうか。ジムを忘れて、この人と)」
冬の空を、ヒロは見上げる。透き通るような青い空が、ヒロには眩しい。ヒロは心を落ち着かせるために深呼吸をした。吐いた白い息が冬の空に消えていった。




