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2人で出かける約束をした前日、朝から今日は帰れないと思います、と言っていた通り、エドは夕飯の時間には帰ってこなかった。
ヒロは1人で夕飯を食べて、部屋でシャワーを浴びて寝間着に着替えると、1人で本を読み始めた。ヒロは本を読みながら、ふと顔を上げると、新しいスカートのしまわれたクローゼットに視線がいってしまった。
「(…なんだかそわそわするな…)」
明日エドとあの服を着て出かけると思うと、なんだか心が落ち着かない。ヒロはしばらく本を読み進めたけれど、内容が頭に入らないと感じ、本を閉じた。もう寝てしまおうかと思ったとき、窓からエドが帰ってくるのが見えた。ヒロはしばらくどうしたものかと考えた。このまま自分の部屋で寝てしまうか、いつも通りエドの部屋に行くかどうするか。彼が馬車から降りて家に入る時に、この部屋の明かりがついていることは見えていたとしたら、挨拶もせずに寝てしまうのは彼に失礼だろうか。むしろ、わざわざ顔を出すほうが迷惑だろうか。隣の部屋にもういるであろうエドが、どう思うか察することが出来ずにヒロは困惑する。
「(…もう寝てしまうか)」
ヒロは、考えに考えて、そちらを選んだ。部屋の明かりを消すと、ヒロはベッドに寝転んだ。静かな部屋で、ヒロはゆっくりと目を閉じる。
少しの間目を閉じたあと、ヒロは目を開けた。そして、エドの部屋の方の壁を見た。
「(……顔が見たい)」
ヒロは突発的にそんなことを思う。ヒロはどうしようか迷いつつ起き上がると、そのまま立ち上がり、エドの部屋に繋がる扉の前に立った。
「(…迷惑そうな顔をされるだろうか)」
そんな不安がよぎり、ヒロはドアを開ける手が止まる。ヒロは目を伏せて、少しだけ震える自分の手を見つめる。他者から拒絶されてばかりきたから、そんな想像ばかり容易く出来てしまうようになってしまった。
ヒロはドアを開けようとした手をゆっくり下ろした。もう寝ようと、ヒロはベッドに戻ろうとした。すると、向こう側からノックがされた。ヒロは驚いて、扉の方に向き直る。
「…そこにいるんですか?」
エドの声がした。ヒロは動揺して目が泳いだ。しかし、少しの間の後、はい…、と遠慮がちに答えた。
「開けてもいいですか?」
「は、はい…」
ヒロが了承したあと、扉が開いた。寝間着の格好をしたエドがそこに立っていた。エドはヒロの目を見ると、優しく微笑んだ。
「物音がしたので、もしかしてと思って」
「ご、ごめんなさい、夜中に迷惑を…」
「そんなわけがない。もしあなたの顔が見られたらと思っていたから」
エドの言葉に、ヒロは彼を見て固まってしまう。そんなヒロに、今度はエドが固まる。
「(…これもさむかったのだろうか…)」
「(…私もと、もしも言ったとしても、この人なら拒絶しないだろうか)」
ヒロはそんな希望を抱く。しかしすぐに、そんなわけがないかと思ってしまう。
エドはヒロから目を逸らして、自分の言ったことを反芻して寝転がりたくなっていた。エドは、もう寝ましょうか、とヒロに言って、扉を開けたままヒロが入れるように体をどかした。ヒロは、はい、と言うと、エドの部屋に入った。
2人はいつもの定位置に寝転ぶと、おやすみなさいとお互い言い合って口を閉じた。しかしすぐに、そうだ、とエドがヒロに話しかけた。
「明日、朝食をとったら出かけますか?」
「はい。そうしましょうか…あっ」
気になったことが頭をよぎり、ヒロは咄嗟に起き上がってしまった。エドはそんなヒロに驚いて起き上がる。お互い黙って、電気の消えた暗闇の中見つめ合う。
「どうかしましたか?」
「あの、明日一緒に家を出ますか?」
「え?はい」
エドの言葉に、ヒロは心の中で胸をなでおろす。
「(ああよかった…。こんな目立つ人を待たせていたら、また前みたいに周りが勝手に騒いでしまう…。一体こんな人と待ち合わせている女性は誰だろう…!という期待感の中現れるなんて、私には出来ない…出来ない…っ!あと、運転手さんの負担も考えてしまう…!)」
「…前、待ち合わせて花を渡しても、あんまり喜ばれなかったので。その後もずっと花のことで落ち着かない様子でしたし」
エドは、ものを言いたげに目を伏せる。そんな彼に、ヒロは、うっ、と固まる。
「あ、あの、そういうの、普通の人は喜ぶと思います…」
「…あなたに喜んでもらえないならやめます」
「(す、拗ねている…拗ねているのか…?)ご、ごめんなさい、花が気になって…可愛げのないことで申し訳ない…」
ヒロが謝ると、はたとエドは視線を上げてヒロの目を見た。そして、いえ、と頭を振った。
「そういう演出なんか、いらないってことですよね」
エドはそうヒロに返す。ヒロは、自分なりに色々と考えてくれているエドが可愛くおもえて、小さく微笑む。
「はい。明日は2人で一緒に家から出ましょう。そのほうが、長く話せますから」
そんなことを言ったあと、目を少し大きくして固まるエドを見て、ヒロは自分の言葉の恥ずかしさに頬を染める。
「た、楽しみですね、明日」
ヒロは、その場を取り繕おうと慌ててそんな言葉を発した。エドは素直に、はい、と目を細める。そんなエドに、ヒロは目を丸くする。
「(…なぜだ…なんでこんなに素直なんだこの人は…結婚当初のあの人はどこに行ったんだ…)」
「もう遅いですから、寝ましょうか」
エドにそう促されて、ヒロは、はい、と答えて、再びベッドに寝転がった。
朝食を終えて、ヒロはハンナの手伝いにより新調したスカートのうちの一つに着替えた。深緑色を基調にしたワンピースで、装飾も凝っている。ヒロは着替えた自分を鏡で見られないまま、よくお似合いですよ!と笑顔で褒めてくれるハンナの言葉を苦笑いで流すしかできない。
ハンナに髪型を整えてもらうと、出かける準備ができてしまった。ハンナは、旦那様の様子を見てきますね、と言うと部屋から出ていった。
ヒロは、1人残された部屋で、緊張により縮こまる。昔から着たくても着られなかった服を着られた喜びもあるけれど、それはほんの僅かで、ほとんど不安が胸を占めていた。
部屋の中で固まりつづけるヒロに、ノックの音が聞こえた。はい、と返すと、エドとハンナが部屋に入ってきた。ヒロは、はっとエドの方を見た。エドは、ヒロの方を見つめながらゆっくり近づいてくる。ヒロは、頭の中が嫌な緊張でいっぱいになる。不安から背中に汗が流れる。手が震えて、今にも逃げ出しそうになる。笑われる。変だと言われる。容姿が悪いと言われる。過去の経験から予測される不安ばかりが胸の中で暴れる。
エドはじっとヒロのことを見つめたまましばらく黙っていた。嫌な間に、ヒロはこの部屋から飛び出したくなる。ヒロはエドの方を見られずに視線をそらす。
エドは、ヒロの方を黙って見つめ続ける。
「(……可愛い…)」
エドはそう思いながら、あの日この布を選んだ自分を自分で褒めてやりたいと考える。可愛い、可愛い、と頭の中で考えるエドだけれど、ふと、自分が何も言わずにヒロを見ているだけになっていることに気が付き、エドは慌てて口を開く。
「とても、似合っています」
出てきた言葉が余りにも月並みで、エドは自分のぽんこつさにその場にうずくまりたくなる。
「(…かといって、少し凝ったことを言えば固まられて引かれたみたいになる…)」
「…」
ヒロは、エドの瞳を見つめる。お世辞としても、変だとは思っていなさそうなエドの様子に、とりあえず安堵する。
ヒロは、自分の着ているワンピースの方を見て、ありがとうございました、とエドにお礼を言った。
「素敵な服を選んでいただいて。…こういう服は、避けていたので、着られて、その、嬉しかったです」
「避けていた?」
「はい。似合わないって言われてから、自分には縁遠いものに感じていたので」
ヒロの言葉に、エドは固まる。ヒロはエドの方を見上げて首を傾げる。エドは、むっとした顔をヒロに向けた。
「誰ですか」
「え?」
「誰に言われたんですか」
「誰…」
誰かと言われたらジムである。しかし、夫婦になろうとしてくれている人に、元恋人の名前を出すわけにはと思い、い、いろいろな人です…とヒロは誤魔化す。エドは、眉をひそめて怒った表情のまま口を開く。
「その方々はセンスがありません。そういう人たちには、勝手に言わせておけば良いんです。あなたの格好はとてもよく似合っています。俺が保証します」
エドはヒロにそう断言する、そんなエドに、ヒロはまた胸の奥の何かがとけていくような心地がする。
「(そうか、こういう服を、私でも着てもいいんだ…)」
ヒロは少し呆然としてしまった。エドは、ヒロの手を取ると、彼女の目を見て微笑んだ。
「つまらない過去の話を思い出させてごめんなさい。そんなことは忘れて、出かけましょう」
ヒロはエドに手を引かれて、部屋の外に出た。




