25
こうして2人の、夫婦としてやっていけるのかを確かめる3ヶ月間が始まった。
エドとヒロは可能な限り食事を一緒にとるようになった。朝は必ず一緒にとれたけれど、夜はエドの仕事の関係で食べられないことがしばしばあった。朝出かける前に、必ず帰ります、とエドが言えばほぼ帰ってきたけれど、今日は無理そうです、と言えばほとんど夕飯の時間に間に合わなかった。
そして、ヒロの部屋はエドの隣に移動することになった。この屋敷は、夫婦の部屋については廊下に出なくても部屋の中から行き来できる作りになっていた。ヒロはその構造に最初は落ち着かなかったけれど、エドが勝手にヒロの部屋に入ることはなく、時間が立てば繋がっていることにヒロが変に緊張することはなくなった。
夜、寝る時も2人はほとんど一緒に寝るようになった。ヒロがシャワーを終えた段階でエドが帰ってきていなければ、ヒロは自分の部屋で寝てしまった。一緒に寝ると言っても、文字通り、同じ部屋の同じベッドでただ眠るだけだった。それでも、帰りが遅くなり、ヒロが自分の部屋で寝てしまった日の朝は、エドは少し残念そうに食堂で座っていた。
休みの日も基本的に2人で静かに過ごしていた。花の世話をするヒロの横にエドがいて、書斎で本を読むエドのそばにヒロがいた。特に会話がなくても重い空気は流れなかったし、ヒロにとっては居心地が良かった。
そんなのんびりした波のない日々が、あっという間に1カ月過ぎ去った。
この日も、ヒロとエドは一緒に朝食をとり、仕事へ向かうエドをヒロは見送った。
「夕飯までには帰ります」
いつも通りヒロの目を見てそう言うエドに、はい、とヒロは頷く。そんなヒロを見て目を細めると、エドは馬車に乗り込んだ。
「なんだか最近、旦那様の雰囲気が柔らかくなりましたよね」
いつも通り使用人たちと洗濯物を干していたとき、そのうちの一人の女性がほほ笑みながらヒロに話しかけた。ヒロは、え?と彼女の方を見た。ハンナが、わかります!と目を輝かせて話題に入ってきた。
「前まではいつも何かに追われているような感じだったのに、それから解放されたっていうか」
「話しかけにくい感じだったのに、棘の部分が取れたと言うか」
「丸くなったっていうか」
ねー、と使用人同士で顔を合わせて笑い合う。ヒロはそんな彼女たちを眺めながら、黙り込む。
「(…やっぱり、そう見えているんだろうか)」
「愛の力ですね」
ハンナが微笑んでヒロを見つめる。ヒロは、えっ、と声が裏返る。そんな様子のヒロを、使用人たちが微笑ましそうに見つめる。ヒロは慌てて目を伏せる。
「睡眠が取れているから、気持ちに余裕ができているんじゃないですか?」
自分が理由だと思いたくなくて、ヒロはそう彼女たちに返す。使用人たちは皆、すいみん?と首を傾げる。
「ほら、前までは毎日帰りが遅くて忙しくしてたから、休めていなくて、だから余裕がなくて刺々しくなってしまったというか」
「…」
「…」
使用人たちの視線がヒロに集まる。ヒロは、彼女たちの視線に言葉を詰まらせる。ハンナが、にこりとヒロに微笑む。
「そんなに照れずに。素直に受け取れば良いんですよ。帰りが早くなったのは、奥様に会うために、仕事を早く終わらせるように頑張ったり、他の方との約束をするのをやめたからなんですから」
ねえ、とハンナが使用人たちに同意を求めれば、笑顔の使用人たちが、ええ、と頷く。ヒロは気恥ずかしい気持ちで彼女たちから視線をそらすしかなかった。
この日は、マーガレットとアリスが家に来る日だった。エドは仕事に出かけており、ヒロは1人で2人が来るのを待っていた。
2人がやってきて、いつものように他愛のない話をしていたら、マーガレットが、で、エドとはどうなの?とヒロに聞いてきた。ヒロは、少し固まった後、実は…、とここしばらくの流れを説明した。
ヒロから話を聞いたマーガレットとアリスは、しばらく黙った後、マーガレットだけが、ええっ?と声を上げた。
「なあに、それじゃあ、このままエドが受け入れられなかったら、一生1人ってこと?」
マーガレットが心配そうにヒロの瞳をまっすぐ見つめる。ヒロは、うん、と苦笑いを浮かべる。マーガレットは少し視線を泳がしたあと、ランドルフお兄様は…と呟いた。ヒロは、え、と声を漏らした。マーガレットは、きっとヒロの方を見つめた。
「ランドルフお兄様は、お、怒っていらっしゃらなかった?」
「お兄様…、そう、お兄様が、怒って家まで押しかけてきたの。心配してくださったのだとは思うけれど、すごく驚いて…」
「そ、そう…」
マーガレットは申し訳なさそうに視線を泳がす。そんなマーガレットを、ヒロは不思議そうに見つめる。アリスはマーガレットを見て小さく微笑んだあと、まあ、と頬に手を当てた。
「でしたら、御実家に帰られたらよろしいのに」
「それは、家に迷惑がかかるし…」
「あーもう!そんなこと言うなら、いっそエドのことを好きになれば良いじゃない!女遊びはしなくなったし、何よりヒロのことが好きだって言うなら良いじゃない」
「でもジムが…」
「だーからあ!いい加減ジムは忘れなさいってば…!」
マーガレットはヒロの方をぎりぎりと睨む。そんなマーガレットを、アリスがまあまあとなだめる。
「ところで、ジムとは連絡は取り合っているんですか?」
アリスがヒロに尋ねる。ヒロは頭を振る。
「もう彼には奥さんがいるのに、そんなことできない」
「それじゃあ、今もジムがヒロのことを本当に思っているのかは不確かですわね」
「それは、思ってくれているはずよ。ジムだもの」
「まあ、ヒロは頭の中でも綺麗なお花畑を育てていらっしゃるのね」
アリスの笑顔から放たれた毒にヒロは硬直する。マーガレットは、アリスの言う通りよ!とアリスの毒に加勢する。
「もうジムのことは忘れなさいってば!」
「でも、」
「それじゃあこの一瞬で良いから、5分でいいから、ジムを忘れてみて?どう、エドのことは好きになれそう?どう?」
「どう…」
ヒロはマーガレットの言葉に困惑する。エドに惹かれていないわけではない。エドに好きだと言われて嬉しくないわけじゃない。
それでも、
「…でも、あの人が私なんかのことを本気で好きになるわけがないもの」
ヒロの目に色が消える。そんなヒロの様子に、2人が口をつぐんだとき、応接室のドアがノックされて、ハンナが入ってきた。
「お話中失礼致します。奥様、先日の仕立て屋からお洋服が届きましたよ」
ハンナの言葉に、ヒロはありがとうございます、と伝えた。ハンナは微笑むと、お部屋にお運びいたしますね、とヒロに伝えた。するとマーガレットが、まって、と止めた。
「どうしたの?お洋服を新調したの?」
「ええ、まあ…」
「あら、体型が変わったわけでもないのに新しいお洋服だなんて、ヒロにしては珍しいですわね」
「私も思った!お洒落なんか興味ないのに、どういう風の吹き回し?」
アリスとマーガレットが興味深そうにヒロの方を見る。ヒロは2人に目を丸くした後、前に…と話し始めた。
「エドと一緒に出かけた時に、その、作ってもらって…」
ヒロがそう話すと、マーガレットは目を輝かせて、見たい!とヒロにせがんだ。ヒロが何か言う前に、笑顔のハンナが、こちらでございます、と2人をヒロの部屋に案内し始めた。ヒロが流れについていけず、え、え、困惑する間に、アリスもマーガレットも席を立ってしまった。
ヒロの部屋に入ると、仕立てた服が3着、クローゼットに掛けてあった。マーガレットが、あら、と楽しそうにその衣装の前に歩いた。アリスも笑顔でその衣装を見に移動する。ヒロは、2人の間から出来上がったワンピースを覗いた。華やかな柄と、きれいなデザインの服に、ヒロはめまいがする。
「(…こんな派手なの、着られない…)」
この服を着た自分を想像したら、ヒロはぞっとした。こんな服、自分には似合わない。似合うはずがない。顔が青くなるヒロとは反対に、マーガレットとアリスは、楽しそうにそのワンピースを眺めていた。
「えー、やだ、なによー!素敵じゃない!」
「ええ、本当に。着ていくのが楽しみですね」
アリスが、にこりと微笑んでヒロの方を振り向く。ヒロは、えっ、と声を漏らす。麗しい顔立ちのアリスが、きらきらの笑顔をヒロに向ける。マーガレットも、いいわねえ!と楽しそうに花が咲いたような笑顔でヒロに微笑みかける。ヒロは、そのまぶしさに固まる。
「(…それは、この2人みたいな人が着たら似合うだろうけれど…)」
ヒロは、心の中でそんなことを思う。こんな素敵な格好は、私なんかには似合わない。2人みたいなきれいな人が着るべき服だ。私が着たら笑われる。
「(…でも、ずっと着てみたかった服だ)」
ヒロは、そう思いながら目を伏せた。本当は、昔からこういう服に憧れていた。着たかった。でも、着られなかった。周りから他の女性と容姿を比較されて、貶められてきたから。こんな服ヒロには似合わないと、ジムに言われてきたから。
マーガレットが、3着のワンピースを眺めながら、へえ、と感嘆の声を漏らした。
「でも、ヒロがこういうの選ぶのなんて意外ね。いつも大人しいものばっかり着ているから、こういうのは苦手なんだと思っていたわ」
マーガレットが、またワンピースの方に振り向きながらそう言った。ヒロは少し黙ったあと、私が選んだわけじゃないから、と返した。するとマーガレットが、え?と首を傾げた。
「エドが、選んだ柄なんだ…」
「ああ、そういうことね」
マーガレットは納得したあと、なんかセンスよくてムカつく、と軽く悪態をついた。そんなマーガレットに、まあ、とアリスが口元に手を当てて微笑む。
「そんな言い方なさらなくっても」
「だってえ、散々ヒロのことほったらかしにしてた奴だから、素直に褒めたくないんだもの。ヒロに似合いそうな服をさらっと選んじゃうなんて、なんだか癪に障るわ」
「まあいいじゃありませんか。お心を入れ替えなさったようですし」
アリスがそうなだめると、マーガレットは、でもさあ、とまだ少し不服そうな顔をした。ヒロは、マーガレットの言葉に苦笑いを漏らした。
「(…似合わないよ、こんな服、私なんかに)」
ヒロは自分がむなしくて、悲しくて泣きたくなる。マーガレットは、ねえ、とヒロの方を振り向く。
「一度、顔に当てて見せてよ!」
マーガレットが、ほらほら、とヒロの背中を押して服の前まで連れて来る。ヒロは、眼の前のワンピースを見つめる。華やかな服たちに、またヒロはピントが合わない。
「(…嫌だ…笑われる…私がこんな服着たら、勘違いだって……)」
姿見に映るヒロの顔がどんどん青ざめていることに気がついたマーガレットは、はっとして、ヒロの背中を押すことを止めた。
「ご、ごめん、無理言って…」
マーガレットは、心配そうにヒロの顔を覗き込む。ヒロは、マーガレットと目が合うと、はっとして、ご、ごめんなさい、と謝った。そして、苦笑いを浮かべた。
「こ、こんな華やかな服、初めてだから、緊張したみたい、ごめんね、なんでもないんだ」
「…」
マーガレットの大きな瞳が心配そうに揺れる。ヒロは、マーガレットに余計な心配をさせてしまったことに内心焦る。
するとアリスが、これを着るのが楽しみですわね、と微笑む。ヒロは、え、と声を漏らす。
「きっと、エドとお出かけするときに着られるんでしょう?どんな文言で褒めるのか、楽しみですわね」
ふふ、とアリスが口元に手を当てて微笑む。マーガレットが、文言って…、と呟く。するとアリスが、あら、と笑顔のまま頬に手を当てる。
「褒め言葉もセンスが問われますわよ。稀代の色男が、好きになった女性にはどんな台詞を言うのか、なんだか期待してしまいますわ」
「アリスはどういう楽しみ方をしてるのよ…」
マーガレットが呆れる。ヒロはそんな2人の様子に小さく吹き出したあと、でも、と目を伏せた。
「褒めるとこ、ないよ。周りから笑われそう、私がこんな服を着たら…」
仲の良い2人を前にして、ヒロはついそんな本音を吐いてしまった。しまった、変なことを言ってしまった、と焦るヒロの背中を、マーガレットが優しく撫でた。
「あのねえ、この可愛い私だって、そうでもないって言ってくる男がいるのよ?…振り向いてくれない人もいる。全員から良いなんて、思われるわけがないの」
「…マーガレット、」
「出かけた日、その服を着たあなたを、エドは絶対、ぜーったいに褒める。そしたらその日、あなたはその服がよく似合う素敵な女性なんだっていう顔でいたら良いの。万が一あなたを笑う人がいたとしても、似合うって言う人が横に1人いたら、それで良いの」
マーガレットは、ヒロと目を合わせるとにこりと微笑んだ。
「大丈夫よ。楽しんできて」
ヒロは、マーガレットの瞳を見たまま、自分の目を見開く。そして、うん、と目を細めて頷く。
「…ありがとう、今度、着てみるね」
ヒロの言葉に、マーガレットとアリスは微笑む。
ふと、マーガレットがクローゼットにあったストールに目をつけた。
「あれ、これは?」
「ああ、それもエドが贈ってくれたものだよ」
ヒロがそう言うと、マーガレットとアリスは、じっとそのストールを見つめた。マーガレットは、うーん、と小さく唸った。
「…これは、ヒロではないかな」
「そうですわねえ」
「えっ」
マーガレットは、センス良いって言ったのは取り消そうかな…と呟く。アリスは、まあ、合わせ方次第ですわね、と微笑む。ヒロは、そんな2人を見つめて小さく笑った。
その日の夜、エドは夕飯の時間には帰れず、寝る準備を終えたヒロが自室で寝ようかと思っていた時に、慌てたハンナが部屋へやってきて、旦那様お帰りです!寝ちゃだめです!と伝えに来た。
ヒロは、そんなハンナに苦笑いをしつつ、エドの部屋に向かった。仕事帰りのスーツ姿のエドが、ヒロに気がつくと、嬉しそうに目を細めた。帰宅後の片付けを手伝っていた使用人は、ヒロが入ってくると部屋から出ていった。
ヒロは、エドを見ると、おかえりなさいませ、と伝えた。エドは、ただいま帰りました、とヒロに返した。
「今から夕食ですか?」
「いえ、今日は昼食が遅かったので、夕飯は食べないでおこうかと思っていました」
エドの言葉に、三食必ず食べるタイプのヒロは衝撃を受けた。
「(…朝はコーヒーだけとかの時もあるなこの人…)」
「そういえば、今日はご友人が来られたんですよね」
「あ、はい。マーガレットとアリスが来ました。アリスとは前からのお知り合いなんですよね?」
「知り合い…、まあ、友人の妹なので、たまに顔を合わせた程度ですけど…」
エドは、じっとヒロの方を見た。ヒロは、そんなエドに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いえ、…あなたとアリスの気が合うのが不思議で…」
「え?」
「いや、…アリスって、おとなしそうに見えて、けっこう物言いがはっきりしていると言うか…」
前も縁談相手の隣国の王子を泣かせてたし…、とエドが呟く。ヒロは、衝撃の事実に目を丸くする。
「(…アリス、隣国の王子を言い負かしちゃったんだ…)」
「お2人とも、元気そうでしたか?」
「ああ、はい、とっても」
それは良かった、とエドは返しながら、スーツの上着を脱ぐ。ヒロは少し黙ってから、それと、と続けた。エドは鞄の中身を探る手を止めて、はい、とヒロの方を見た。
「前にお出かけした時に選んでいただいた服が、今日届きました」
そんな事実を伝えることが、ヒロにはとても勇気がいった。エドの反応が怖くて目を伏せそうになる。エドはヒロの目を見て、そうですか、と微笑んだ。
「なら、今週の日曜日に出かけましょうか。種苗店に行きたかったんですよね。行けていませんでしたから、そこへ行きましょう」
エドの提案に、はい、とヒロは少し意気込んで答えた。




