23
その後の2人の休日は、思いのほかゆっくりと過ぎていった。2人ともヒロの兄が激怒していたことは触れずに、静かに休日を過ごした。当初考えていた昼寝は兄の登場という衝撃によりできなかったけれど、かわりに本を読んで、花の世話をして、編み物をした。ヒロにとってはいつもと同じことをしていたけれど、それにずっとエドがついてきて、なんとも奇妙な気持ちになった。
昼食も夕食もエドとヒロは一緒にとった。シャワーを浴びるときにヒロは一旦部屋に戻り、ハンナの手伝いで寝間着に着替えた後、エドの部屋に向かった。ハンナは嬉しそうにずっとにこにことしていた。2人が普通の夫婦らしくしていることがそんなにうれしいのかと、ヒロは不思議に思ったけれど、屋敷に仕える者として、夫婦仲睦まじいことに喜ばしいと思うことは普通かとヒロは思い直す。
エドの部屋につくと、ハンナが扉を開けて、ヒロだけが部屋に入った。部屋には、寝る準備の終わったエドが机で本を読んでいた。ヒロの方を見ると、エドは本を閉じた。ヒロはそんなエドに、あの、と話しかけた。
「どうぞ、気にせず読んでください。寝る時間までもう少しありますし」
「いえ、でもせっかく一緒にいますから」
「でも、2人で何をしますか?」
「なにをする…」
「えっ…」
「…」
「…」
2人して気恥ずかしい気持ちで固まってしまった。エドはヒロから視線をそらした後、もう寝ますか、と小さく笑った。ヒロは、はい、と赤面したまま頷いた。
電気を消して、2人でベッドにねころがった。エドは昨日と同じようにヒロト反対側の端に、ヒロから背中を向けて寝た。ヒロも同じように端に寝ると、天井を眺めた。
「今日1日、どうでしたか?」
ヒロはエドに素朴な疑問を投げかけた。エドは、え?と声を漏らすとヒロの方を見た。
「どう…とは?」
「つまらなくなかったかなって、思って」
ヒロは何となく気になっていたことを尋ねる。これまでなら、休日は仕事がなければあの日したようなプランで他の女性と遊びに出かけていたのだろうに、こんな何でもない日では物足りなかったのではないだろうか、と思うとヒロはそわそわしたのだ。
「楽しかったですよ、とても」
「…本当ですか?」
「ええ、本当です」
エドは素直にそう答えた。ヒロは、そうですか、としかし不思議そうに答えた。
「(こんな日々がずっと続くと思ったら、うんざりするだろうな)」
ヒロはそんなことを思う。これまで派手に遊んできた人が、こんな生活続けられるわけがないと、ヒロにはそうとしか思えなかった。
少しの間のあと、エドは、明日、と話し始めた。
「明日、夕飯の時間までには帰ってきます」
エドはそうヒロの方を見て言った。ヒロは少し目を丸くした。そんな日など、これまで数えるほどしかなかったからである。ヒロは少し黙ったあと、はい、と答えた。
「わかりました、待ってます」
ヒロは、こちらを見るエドの方を見てそう返した。エドはそんなヒロを見ると目を細めた。そんなエドの優しい表情に、ヒロは時間が止まったような心持ちになる。
「おやすみなさい」
エドはそう言うと、またヒロに背中を向けた。ヒロは、少しだけ早くなる鼓動を感じながら、今日も眠れなかったらどうしよう、と思った。
翌朝、ヒロは目を覚ますと小さく伸びをした。さすがに、前日ほとんど眠れなかったからか、よく眠ることが出来た。窓から外を見ると、夜の間に雪が降ったようで、庭に雪が積もっていた。通りで冷えるわけだとヒロは心の中で呟く。
横を見ると、エドはまだ寝ていた。窓から差し込む朝日に、エドのきれいな銀髪が照らされてきらきらと光っている。
「(…相変わらず、こどもみたいな寝顔だな)」
ヒロはじっとエドの寝顔を見ていた。結婚したばかりのときは、つっけんどんで、関わりにくい人だと思っていたから、はじめて寝顔を見たときは驚いた。けれど、夫婦になれるか確かめようと言ってからは一転して素直で優しい人になって、もしかしたらこの人の本質はこちらだったのだろうかとヒロは思う。
「(…やたら、自分の裏側を隠したがる人だったから、その部分を知られたくなくて私を遠ざけていたのかな)」
ヒロはぼんやりとエドを見つめる。そのときに、彼が昨日言った言葉を思い出した。
「(…私にかけられた魔法を、この人が解いてくれる。…別れてからもずっとジムを好きになったままでいる私の魔法を…)」
ヒロがそんなことを考えていたとき、エドがゆっくりと瞼を開けた。瞳を開けたエドは、ヒロと目が合うと、あっ、と声を漏らし、ゆっくりと起き上がった。そして、眠そうに自分の髪をかき上げた。
「おはようございます。…どうかしましたか?」
「ああ、いえ、寝顔が可愛かったので」
ヒロの言葉に、エドはきょとんとする。ヒロは、自分の言ったことに気がつくと、ああ、あの、とどう誤魔化そうか考えた。しかし、誤魔化し方が思いつかず、あ、あはは、と困ったように笑った。エドは、恥ずかしそうにヒロから視線をそらすと、また髪を少しかいた。
「(…もしかして、俺はこの人から子どもだと思われているのか…?)」
「(…こういうことは言わないほうがよかっただろうか…)」
「…」
「…」
「起きましょうか…」
「はい…」
2人はなんとなく気まずい気持ちで起き上がる。ヒロは、一旦部屋に戻るために一度扉の前に来た。そして、エドの方を振り返り、それではまた後で、とお辞儀をした。エドは、はい、とそんなヒロに返す。ヒロは、エドに小さく微笑むと、扉を開けて出ていった。エドは、ヒロの出ていった後をしばらく眺めていた。
ヒロは着替えると、食堂に向かった。そこには仕事用のスーツを着たエドが先に座って待っていた。ヒロはおまたせしました、と言うとエドの向かい側に座った。エドは、いいえ、とヒロの方を見て微笑んだ。
2人で食事を取り終わると、エドは仕事の準備のために一旦部屋に戻った。ヒロも部屋に戻ってコートを着込んだりしたあと、中庭に出て花の世話を始めた。
しばらくすると、仕事へ向かうエドの姿が見えた。ヒロは手を止めて、エドの方を見て行ってらっしゃいませ、と頭をさげた。エドはヒロの前に立ち止まると、ヒロの目を見て、行ってきます、と返した。
「必ず、夕飯までには帰ります」
エドはかしこまった様子でそう宣言した。ヒロはそんなエドに微笑むと、はい、と頷いた。そんなヒロを見て、エドは嬉しそうに口元を緩めると、それでは、と行って馬車の方へ向かった。ヒロはエドの背中を見送った。
「(…なんだか、楽しい…のかな)」
ヒロはそんなことをぽつりと考える。思い上がるなと、自分で自分を制するけれど、油断をすれば浮かれている自分がいる。
「(…浮かれては駄目だ。そうやって勘違いして、傷つくのは自分だ)」
ヒロは冷静になりたくて頭を左右に振る。ジムのことを思い続けたいと思っていたくせに、もう心変わりだなんて、そういうわけにはいかない、とヒロは自分で自分を律した。
「(…だって、私なんか誰にも好かれない、そうでしょう、ジム)」
昔ジムに言われた言葉をヒロは頭の中で繰り返す。ヒロは深呼吸をして、浮かれそうになる心を落ち着かせた。
今日のエドの仕事は、父親と領内での会議に数件出席し、その後は城での事務作業だった。会議のある父と別れると、エドは事務室に向かった。部屋にはウィルしかいなかった。仕事をしていたウィルの隣に腰掛けると、エドは仕事を始めた。ウィルは、そんなエドの横顔をちらりと見た。
「休み前と打って変わって機嫌良さそうだな」
「…それはどうも」
「奥様と上手く行ったようで良かったよ」
「上手く…行ったんだろうか」
エドはウィルの冷やかしに固まる。ウィルは、まってまって、とエドに話しかける。
「闇落ちしないでよ。ごめん、余計なこと言ったみたい」
「闇落ちってなんだよ」
「なんだ、闇落ち案件ではないわけ?なに、なにがあったの?」
「…改めて、夫婦になってほしい、と伝えた」
エドの言葉にウィルが目を丸くする。ウィルは黙ったまま、エドの額に自分の手を当てた。エドはそんなウィルの手を払う。
「やめろよ、なんだよ」
「いや、エドがそんな事言うなんて熱でもあるのかなって」
「…」
エドは、これまでの自分の行いを省みると何も言えずに黙り込む。ウィルは興味深そうに、で、で、とエドに話の続きを急かす。
「ヒロはなんて?」
「…彼女には好きな人がいるんだ。3年前に別れた元恋人で、すでに別の人と結婚してしまったけれど。その人のことがあるから、夫婦にはなれないって」
「えっ、君が一方的に夫婦関係を拒否してたのかと思ったら、ヒロの方もそんな感じだったの?」
「お互い、仮面夫婦が都合のいい関係だったんだよ」
エドの言葉に、へー、とウィルが返す。
「で、振られちゃったと。あれ、振られた割に元気だな」
「…一応、3ヶ月は待ってもらえることになった。3ヶ月で夫婦になれるのかを考えてもらう」
「なにそれ、面白そうじゃん」
ウィルが興味津々にエドの方を見る。エドはそんなウィルに、面白がるな、と苦々しい顔をする。
「で、3ヶ月後に、良ければ名実ともに夫婦になれるとして、だめだったらどうなるの?」
「…仮面夫婦に戻るか、彼女が望めば離婚もする」
「わあお、えらいこっちゃじゃん」
ウィルが面白そうに返す。エドはそんなウィルにまた嫌そうな顔をする。ウィルは、まあまあ、とエドの肩を叩く。
「君のその最強の顔面があれば大丈夫だって。3ヶ月間くらいならその顔で誤魔化せるって」
「…俺の顔は好みではないらしい」
「じゃあ無理じゃん」
ウィルの言葉に、エドは固まる。そんなエドを見て、うそうそ、とウィルは軽く返す。
「じゃあ何か作戦はあるの?」
「作戦…。ないな」
「わお、まさかのノープラン?」
「…格好つけても引かれるし、…最近は格好つけようとしても上手く行かないし、もう止めた。もうよくわからん。どうしたらいいか依然不透明。素直に好きだと伝えるくらいしかできることがない」
エドの回答に、ウィルは目を丸くしたあと、目を細める。エドがそんなウィルに怪訝な顔をして、なんだその生暖かい視線は、と言うと、べつに、とウィルは返した。
「でも実際問題、そんなにずっと昔の恋人を思えるのもすごいよね。普通こんな男が好きだって言ってきたらなびくものだと思うけど。その恋人は結婚してるんでしょ?通す義理もないだろうにね」
「…」
エドは、ウィルの言葉に黙る。ウィルは、どうした?とエドに尋ねる。
「…俺の気持ちを、疑っているようだった」
「え?」
「好きだと言っても、いまいち通じないと言うか、はなから拒絶しているような、そんな様子だった。自分なんかが好かれるわけないって」
「…」
ウィルは、エドの方を見て少し考える。そして、ゆっくり口を開いた。
「自分の中で、こうに違いないって、思い込んじゃってるんじゃない?何があったかは知らないけどさ」
「…」
エドが黙ったとき、事務室に他の男性が数人、仕事のために入室してきたので、2人は話を切り上げた。
しばらくエドは事務室で仕事をしていた。このままならヒロと約束した時間に帰れると、そう思ったとき、事務室の扉が開いて、アディントン侯爵が入ってきた。エドは立ち上がると、父のもとに向かった。
「どうかされましたか?」
「会議で議題に上がった点について、調べておいてくれ。明日までだ。できるな」
エドに資料を渡しながら話すアディントン侯爵の言葉に、エドは固まる。明日までに用意はできる。しかし、それを受ければ、城にお泊りコースは確定である。ヒロとの約束が脳裏によぎったものの、ほとんど反射的に、エドは父の命令に、はい、と答えてしまった。アディントン侯爵は、当然だな、とだけ言うと事務室から出ていった。エドは、席に着くと、じっと資料に目を通した。話を聞いていたウィルが、エドの資料を覗き込む。
「相変わらず鬼だねー」
「……」
エドは、資料に目を通しながらため息をつく。いやー、厳しいねー、と茶化すウィルの声を聞きながら、はたと、エドはウィルの方を見た。
「…そう言えば君、少し前に法改正の案をまとめていなかったか?」
「うん、やってたよ」
「時間があれば俺に今から内容を教えてくれないか」
そんなエドの言葉に、ウィルは驚きのあまり固まる。エドはそんなウィルに、え、と言葉を漏らしたとき、他の仕事をしていた貴族の男たちもエドの方を驚いた顔で見ていることに気がつく。
「……なんだ、一体…」
「ま、まさか、君が他人に助けを乞うなんて……!」
ウィルの声を皮切りに、周りの男達もざわつき始める。エドはそんな彼らに固まる。
「そんなに驚くことか…」
「だって君、他人に助けられるくらいなら死ぬって感じだったじゃん。どうしたの?」
「…妻に、夕飯までに帰るって約束したんだ」
エドの言葉に、ウィルを含めた周囲は更に固まる。すると、ばたばたと男達が自分のデスクや、事務室の棚を探し始める。そして、持ってきた資料をエドの机に乗せ始める。エドは驚きながら男たちを見上げる。
「な、なんですか…」
「これ、俺が前に関わった時に使った資料」
「これは俺が会議に出た時に使った資料」
「これは、俺が参考にしてた本」
エドは、親切な周囲に固まった後、素直に、ありがとうございます…、と頭を下げた。すると男たちは、さわやかな笑顔をエドに返す。
「あのエドが人に頼るなんて嬉しいよ」
「次は俺も助けてくれよな」
「奥様と末永く仲良くな」
男たちはそうエドに言うと、それぞれの仕事に戻った。ウィルは男たちに聞こえないようにエドにこそこそと話た。
「素直にエドに頼られて嬉しい人、借りを作って今後エドに助けてもらいたい人、エドがヒロと円満になることで自分が狙ってる女性を取られたくない人、だね。三者三様で面白いね」
エドはウィルの言葉に、なんだそれ、とため息をつく。ウィルはそう言い終わった後、男たちが用意した資料をめぐりながら、へー、すごいいいじゃん、と呟く。
「あとは、最強の頭脳があれば余裕だね」
「…悪いな、手間をかける」
「君の頭脳も強いって。俺には劣ってるってだけで」
「おい」
「さあ、やろうか。夕飯までには間に合わせないとね」
ウィルはそう言うと、作業に取りかかった。エドはまたウィルに礼を言うと、作業を始めた。




