20
土曜日の夜中、ヒロはなんとなく眠れなくて、暗い部屋の中、ランプの明かりを窓の側のテーブルに置いて、ソファーに両ひざを立ててそこに頬を乗せて、ぼんやり窓の外を見ていた。外はバケツを引っくり返したような雨が降っていた。激しい雨が窓を打ち付けており、雨音が部屋に響く。
エドが出ていって明日で一週間になる。ヒロはそんな事実をぼんやりと考えながら、雨音に耳を傾けていた。
ふと、雨の中屋敷に馬車が1台到着するのが見えた。ヒロは、はっとしてそれを窓から見つめた。使用人が誰かに傘をさしながら雨の中屋敷に入っていく。
「(…とうとう帰ってきたんだ…)」
ヒロはそう心のなかで呟く。あの日もらった花束がいけてある花瓶に視線を移したあとにヒロは膝に顔を埋めると、しばらくずっとそうしていた。雨音と時計の針の音が静かな部屋に響く。長い時間同じ体勢でいたあと、ヒロはゆっくりソファーから立ち上がった。そして、ベッドのそばのテーブルに飾られたジムの写真を見つめる。深呼吸をしたあと、ヒロはソファーから立ち上がり、その写真の前に立った。
「(…ごめんなさい)」
ヒロは心の中でジムに謝ると、写真の中のジムに見られないように写真立てをテーブルに伏せた。ヒロはまた深呼吸をすると、意を決して自分の部屋から出た。
ヒロは、エドの部屋の前に来た。また深呼吸をしたあと、覚悟を決めて、ヒロは扉をノックした。扉の中から、はい、というエドの声がした。ヒロは、私です、ヒロです、と扉の前から声をかけた。すると、えっ、という声のあと、足音が聞こえた。そして、扉が開いた。中から、シャワーを浴びた後らしい、濡れた髪をした、寝間着姿のエドがいた。ヒロを前にして何も言えないエドは驚いた顔をして彼女の方を見ていた。ヒロは真っすぐにエドを見上げた。
「夜分にごめんなさい。今からお話よろしいですか」
ヒロに真剣にそう言われて、一瞬だけエドは動揺した顔を見せた。しかしすぐに、どうぞ、とヒロを部屋に通した。ヒロは、失礼します、と言って部屋に入った。エドは、ソファーの前に歩き、上着や鞄をどけてヒロが座るスペースを作りながら話し始めた
「…ごめんなさい、話は明日、時間を作っていただいて、きちんと話せたらと思っていて…」
こちらへ、とヒロを整頓したソファーに促しながら振り向いたエドは、目を丸くしてヒロを見た。ヒロは、エドのベッドの上にちょこんと座っていた。
「えっ、え…」
その光景に、さすがのエドも取り繕えずにしばらく動揺をみせた。ヒロは両手を膝の上において、姿勢を正して座ったままでいる。
エドは、あの…、と言いながらヒロの前に来た。ヒロは、そんなエドを見上げた。覚悟を決めたヒロは真面目な顔でエドの瞳を見つめる。そんな彼女に、さらにエドは動揺した。ヒロはゆっくり口を開いた。
「…先日は申し訳ありませんでした。私が浅はかでした」
「あ、浅はか…」
「いくらこれがお互いの愛情が不要な結婚とはいえ、アディントン侯爵家に嫁いできた者として、跡取りのことを考えなくてはいけない、というのは当然のこと。言われずとも理解しておかなくてはいけない常識を持っていなかった私の思慮が足りていませんでした」
ヒロは、そういうとベッドに腰掛けた体勢から後ろに倒れてベッドに背中を付けた。そして、両手を胸の前で組んで目を閉じた。
エドは少しの間、そんなヒロを呆然と見ていた。しかしすぐに、違うんです、と言うと、ヒロの横に座って彼女の両肩に手を添えると起き上がらせた。ヒロは、違うと言ったエドの顔を見つめた。ヒロから手を離したエドは、ずいぶん困惑した顔をしていて、自分の予想が外れたヒロも困惑する。
「(えっ、もしかして前のあれは、からかわれていただけ…?)」
そう思うと、ヒロは自分のことが恥ずかしくなってきた。この人にはたくさん相手がいるのだから、わざわざ自分と跡取りのことなんか考えなくてもよかったのか、とヒロの脳裏にそんなことがよぎる。前にアディントン侯爵夫妻と食事をした時、ヒロはいないもののような扱いだった。彼らも、エドの子どもさえいれば、その母親が誰かということは興味がないということだったのだろうか。
ヒロは、自分で自分の価値を高く見すぎていたことに羞恥心が沸く。自分と真反対の、綺麗に整った目の前の人の顔がどんどんと困惑していくのを見て、ヒロは溶けてなくなりたくなる。お前なんか誰もお呼びじゃないんだ、という幻聴すらヒロに聞こえる。
「…すいません、違うんです」
エドは眉をひそめて、何かを訴えかけるような顔でヒロを見た。自分で作りだした恥ずかしさの海に溺れるヒロは、エドの方を見られない。
「あなたがジムの話をするのを聞いて、今でも好きでたまらないんだという顔をするのを見て、耐えられなくなったんです。夫婦という関係を傘にして、あのままあなたを自分の物にしたら、彼からあなたを奪えると思った。…浅はかだったのは俺の方です。あなたにあんな顔をさせてしまった。彼から奪うどころかあんな顔をさせるなんて、最低だって、そう思ったら、ここに帰ってこられなかった」
エドは、そう言うと小さく息をついた。ヒロは、エドの言葉の意味がわからずに混乱する。
ヒロに自分の言わんとすることが伝わっていないことを、彼女の顔から察したエドは、少しだけ黙って考えた。何か洒落た言い回しはないか。物語の登場人物の台詞のような言い方はないのか。エドは考えるけれど、さっぱり浮かばない。ヒロを前にすると、エドはなぜか頭が上手く働かなくなるのだ。
「…あなたが好きなんです。自分から言い出したことだろうと思われるかもしれません。でも俺は、…それでも俺は、あなたと夫婦になりたいんです」
エドは、まどろっこしいことを考えるのを止めて、ただシンプルにそうヒロに告げた。エドは真っすぐに、そして真剣にヒロの瞳を見つめる。ヒロは、エドの言葉に目を丸くして固まる。
ヒロは、エドに好きだと言われたことをゆっくり頭の中で繰り返す。
「私が、好き…」
そして、エドが言ったことをヒロは口でも繰り返した。エドは、ただずっと真剣な眼差しでヒロの方を見つめている。人から好きだと言われて、ましてや人生でそういった経験が乏しいヒロは、新鮮な気持ちで喜ぶべき場面のはずなのに、そんなエドに困惑の感情しか浮かばなかった。
「(…どうして、私なんかを)」
こんなに見た目が美しくて、努力家で、聡明で、他にもたくさんこの人を好いている人がいる、そんな人がなぜわざわざ自分なんかを好きになるのか、ヒロには全く理解が出来なかった。エドから視線をそらした時、ヒロの瞳に窓ガラスに反射した自分が映っているのが見えて、咄嗟にまたヒロは視線をそらす。
ーーこんなヒロを好きになる人なんて、僕くらいだよ。
そう言って笑うジムの声が蘇る。ヒロはその言葉に全面的に同意だった。自分なんか、他の誰にも好かれるわけがない。
ヒロは目を伏せる。浮かない表情のヒロに、断られると察したエドは落胆の表情を浮かべる。ヒロは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……私は、あなたとは夫婦になれません」
ヒロの言葉に、エドは息を呑む。しかし、エドは引き下がらずにヒロの方を見つめて口を開く。
「…ジムがいるから、ですか?」
「…はい。それに私、あなたのことをそういう意味で好きになれそうにないんです」
ヒロは頭を数回横に振りながらそう伝える。ヒロはエドのことをどうこう思うことが、なぜこの人が私なんかを、という信じられない気持ちがあまりにも大きすぎてできなかった。
エドは、ヒロの言葉に少し目を伏せる。ヒロはそんなエドに言葉を続ける。
「そもそも、あなたの私を好きだという気持ちは、何かの間違いだと思います。あなたがわざわざ私なんかを好きになるわけがない」
ヒロは頑なに認めない。いや、認められない。彼女は、恋の芽生えに浮足立つ人間になるには、周りからぞんざいに扱われすぎた。そのために二言目には、私なんか、私なんて、という言葉が彼女から出てしまう。
エドは、ヒロの言葉に自分の言葉を失う。ヒロの自分に諦めきった瞳を、エドは見つめる。
「(どうしてこの人はいつも、自分のことをそんなに卑下するのだろうか)」
花の話には素直な表情を見せるのに、ヒロは自分のことになると突然心を閉ざしたような様子になる。エドにはヒロの心の底なんてわかるわけがなく、それでも、ここで食い下がれないほど、エドはヒロに惹かれている自分がいることに気がついていた。
エドは、それなら、と続けた。
「本当に俺の気持ちが勘違いなのか、本当にあなたが俺とは夫婦になれないのか、それを確かめませんか」
「…確かめる…」
ヒロは、エドの言葉を繰り返す。エドは、はい、と頷く。
「3ヶ月、俺に時間をください。3ヶ月経って、それでも今と変わらず俺とは夫婦になれないという考えなら、俺はもうあなたに妻でいることを強いません。別居用の家も用意しますし、あなたが望むなら離縁にも応じます」
「……」
怒涛の展開に、ヒロは何度もまばたきを繰り返す。エドは、ずっと真剣な瞳でヒロを見つめ続ける。ヒロは、そんなエドにただただ困惑していた。どう答えるのが正解かわからず、かといって、エドの提案を断るわけにもいかず、ヒロはただ頷くしかなかった。
エドは、一応ヒロの了承を得たことに安堵のため息をついた。ヒロの顔が終始浮かないところがエドにとっては絶望的ではあるけれど、とりあえず首の皮一枚つながったことにだけでも感謝しようとエドは心の中で考える。
エドはヒロの方を見た。そして、困惑するヒロの瞳を見つめると、優しく目を細めた。
「これから、一緒に食事を取りましょう。話もしましょう。2人で向かい合う時間をください」
エドはそう言ってヒロに微笑む。
ヒロはエドにそう言われて、確かにこの人ときちんと話したことがないことに気がつく。しかし、結婚前にお互いを意識しなくていいのだという共通認識があったし、そこが自分には好ましかったのに、という気持ちがヒロに湧き上がる。けれど、こんなに懸命に自分に伝えるこの人の気持ちを無下にすることはヒロにはできなかった。
「…わかりました」
ヒロがそう言って頷くと、エドは安心したように笑った。その表情が普段見ている人とは思えないくらいに幼くて、ヒロは少し目を丸くする。
「(…普段は、色々抱えているから、ああいう険しい顔になるのかな)」
ヒロはエドの顔を見ながらそんなことを考える。
エドは、それでは、また明日からお願いします、とヒロに告げた。ヒロはそんなエドをじっと見つめると、あの、とエドに話しかけた。
「寝室はどうするんですか?」
ヒロの質問にエドは少しずつ頬を染めながら固まる。そんなエドの反応に、ヒロは自分で聞いておいてどんどん顔が赤くなるのを感じた。
「(だって、だって前に、食事も寝室も一緒だとか言ってたから…!)」
「……あなたさえよければ、一緒にしましょう」
エドはそうヒロに返した。もちろん、変なことは一切しません、とエドは断言する。ヒロはそんなエドを見つめる。
「(…もしかしたら、この人と本当の夫婦になれる未来が来るのだろうか)」
エドの瞳を見つめながら、ヒロはそんなことを考える。ただ肩身の狭い思いでとまり続けることが正しいのだろうか。周りの言う通り、歩き出すことも必要なのではないのだろうか。そのためにはまず一歩、この人に歩み寄るべきなのではないだろうか。
「わかりました、そうします」
ヒロの回答に、エドはまた目を丸くして固まってしまった。
夜もすっかり更けていたので、ヒロとエドは話が終わると眠ることにした。
エドは、ヒロと座って話していたところと反対の側のベッドに腰掛けると、なるべく端に体を横たえた。そして、ヒロの方を見て、どうぞ、と彼女に寝るように促した。
ヒロは一瞬緊張したあと、はい、と言うと自分もエドから反対側の一番端に体を横にした。
「おやすみなさい」
隣からエドの声がして、ヒロは、また緊張した。ヒロは、はい、おやすみなさい、と返す。するとエドは、体の向きをヒロに背中を向けるように寝てしまった。シーツの擦れる音が聞こえてヒロはまたまた緊張した。
しばらく目を閉じていたけれど、眠りに落ちられる気配がなかった。もう日付は次の日になっているというのに、ヒロは全く眠くなかった。あんな話をしたから目が覚めてしまったのだろうと思いながら、ヒロは目を開けて月明りにほんのり照らされた天井を見る。
ヒロはふと、隣のエドに視線を移した。広いベッドのため、一緒に寝ているとはいえ距離がそこそこある。ヒロは少しだけ離れたところにいるエドの背中を見つめる。自分の兄と比べて細いと思っていたエドの背中が、自分とは違う男の人の造りであることが見えて、ヒロはどきりとした。あの日、義両親の家に行ったときに知った、エドのちゃんと男の人らしい体の大きさと力を思い出す。そして、先ほど自分を好きだと言った彼の真剣な顔のことも。
「(…もし今襲い掛かられても私は勝てないのか…)」
そう思うと、深く考えずに一緒に寝ると言ってしまった自分にヒロは後悔する。しかしすぐに、いや、自分なんかにどうとも思わないだろう、ましてや綺麗な人とたくさん付き合ってきたこの人が、と思い直す。
そのとき、あの夜の日のエドのことが脳裏をよぎった。ヒロはまた瞳を開けて、隣のエドに視線を移す。
「(そうか、あの日のことも、私のことが好きだったから…)」
エドの手や唇の感触、体温を思い出すとヒロは息が止まるくらい緊張した。
しかしすぐに、いや、この人が私を好きだなんて何かの間違いだ、と思い直す。
「(それに、この人が何もしないと言ったらそうなんだろう)」
エドに対してそんな信頼を置いて、ヒロはまた固く目を閉じた。しんと静かな夜が過ぎていく。ヒロは固く目を閉じたまま、眠れそうにない自分に焦る。
「(………眠れない)」
エドは体を壁側に向けて目を閉じていた。先ほどヒロと話していたことを頭の中で繰り返しながら。明日は仕事が休みとはいえ早く眠りたい。そうは頭では思っても、心が眠れそうにないほど早く鼓動を打っていた。
「(…好きだって言うだけで、こんなに疲れるとは…)」
エドは心の中で小さくため息をつく。これまで散々好きだの愛しているだの吐いているから自分は慣れているのかと思っていたけれど、こんなにも不格好にしか言えないとは、とエドは自分で自分に落胆する。
「(…それに、これから2人の時間を作ったら、もっとこの不格好が露呈して、好きになってもらうどころか呆れられる…)」
エドの中でそんな不安がよぎる。これまで遊んできた女性たちにずっと抱いてきた気持ちだった。エドは、自分の見た目にだけは自信があった。だから、そこで相手に好きになってもらっても、そこからもっと深く自分のことを知られたら嫌われるだろうと予知していた。自分の深い所を見られることが、しょうもないと呆れられることが恐ろしくて、だからずっと、遊びという浅い付き合いしかできなかった。
しかしエドは、そもそもこの人は自分のことが好きじゃないのか、と思い出す。何もないところからのスタートかと思うと、幾分か気楽に思えたけれど、悲しくもあった。
「(…それに、一緒に眠ることを了承するなんて、…俺には何かする度胸がないと思われているのか…)」
エドは、背中の向こうで寝ているヒロのことを思う。あの夜、エドが逃げ出したから、意気地がないヤツだと思ってヒロは了承したのだと思うとエドは顔を伏せたくなる。自分が女性の前でこんなにも格好のつかない状況に置かれることがなかったエドは、感じたことのない敗北感に打ちひしがれる。
「(俺はこんなに格好悪かったのか……)」
今まで人によく見せようと取り繕ってきたけれど、仮面が剥がれたらこんな物体になってしまうのかと気が付き、エドはまた自分に落胆する。彼女の前でも格好をつけたいのに、取り繕いたいのに、なぜかそれが出来なくなる。自分が作り上げた自分で彼女に話そうとしても、何も言葉が浮かばなくなるのだ。
そのとき、背中の向こうのヒロが動いてシーツがこすれる音がした。エドは内心びくりとする。寝ているであろう彼女の呼吸の音が聞こえる。エドは一点を見つめながら固まる。
「(……眠れない)」




