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アディントン侯爵家のエドとの初めての顔合わせの日がやってきた。
ヒロは、使用人の女性に着替えさせてもらい、髪形もきれいに整えてもらった。レモンクリーム色のおとなしいデザインのドレスに身をつつんだ自分を一瞬だけ鏡で見た後、本棚に飾られた写真立てを見た。そこには、ジムと2人で撮った1枚きりの写真が飾られている。写真の中のジムと目が合ったとき、ヒロは重いため息をついた。
ドアがノックされ、返事をするとランドルフが入ってきた。ランドルフは、ヒロの姿を見ると一瞬息を呑んで、それから目を伏せて小さく唇を噛んだ。ヒロは、そんな兄には気が付かず、どうしたんですか、と尋ねた。
「…もう出かけるらしい。父さんと母さんが呼んでいる」
「もうそんな時間でしたか。今行きます」
ヒロは椅子から立ち上がる。そのとき、じっとヒロを見つめるランドルフに気が付き、ヒロは首を傾げた。
「どうかいたしましたか?」
「…この縁談も、お前は断るものだと思っていたから」
ランドルフの言葉に、ヒロは目を伏せる。そして、悲しい気持ちを押し殺してランドルフに微笑んでみせる。
「…私ももう20歳になりましたし、いい加減、我がままは辞めようかと思ったんです」
「……本当の家族じゃないって、わかったからか?」
ランドルフの言葉に、ヒロは彼を見上げたまま固まる。図星を突かれたヒロは、ただ黙って目を伏せるしかなかった。ランドルフは腕を組んでため息をついた。
「そんなもの気にするな。父さんたちも言っていただろ」
「……本当の子どものお兄様にはおわかりいただけないことです」
咄嗟に出た言葉だった。ヒロは、そんなことを言ってしまった自分に驚いて口に手を当てた。ランドルフは眉を下げて、ヒロを心配そうに見つめる。ヒロは震える唇を強く噛んで、ごめんなさい…とつぶやくと、逃げるようにランドルフの前から去った。
馬車に乗り込むと、初めて顔合わせを承諾してくれたことに喜ぶ両親の顔があった。ヒロは、そんな2人に合わせて笑顔を見せる。
「(…余所者の私が、我儘なんか言えない。このまま時間だけが過ぎて、嫁の貰い手がなくなってしまったら、2人に今よりももっと迷惑をかけてしまう。そんなことできない)」
ヒロは、両親に笑顔を見せながら、悲しみと焦りで一杯だった。このまま結婚したら、ジムのことを忘れられない自分では結婚相手に申し訳が立たない。かといって、このまま断り続けたら今度は両親に申し訳が立たない。ならばどうしたらいいのか、という答えが見つからないヒロを乗せて、馬車は無情にも縁談相手の待つレストランへ向かっていた。
アディントン侯爵家領は、スミス侯爵家領から馬車で数時間はかかる距離にあった。アディントン侯爵家の街は、スミス侯爵家とはまた違った雰囲気だった。2つの家はどちらも大きな家で、領内の街も栄えているけれど、同じ国でもこんなに変わるのかと、ヒロは不思議な気持ちで窓から景色を眺めていた。
ふと、窓から大きな時計台がたっているのが見えて、ヒロは、わあ…と声を漏らした。たくさんの店が立ち並ぶ大きな通りに、シンボルのように立つ大きな時計にヒロは目を奪われる。
「(あんなに大きい時計が街にあるなんて、なんだか素敵…)」
夢中で景色をのぞくヒロを、微笑ましげに両親は見つめていた。
「ついたみたいだよ」
父の声に、ヒロはびくりとした。馬車は、アディントン侯爵家との待ち合わせのレストランの前で停まった。馬車降りるように父に促され、ヒロは背中に嫌な汗をかきながら立ち上がった。
レストランの奥の個室に通されたヒロたちは、まだアディントン侯爵家が来ていない部屋の椅子に座った。ヒロの席は両親の間だった。
ヒロたちがきてすぐ、ウェイターがドアをノックして扉を開けた。すると、アディントン侯爵と夫人が入ってきた。仲の良さげな夫婦が、親しみやすい様子でスミス侯爵夫妻に挨拶を交わす。ヒロは緊張しながら彼らの様子を見ていた。すると、アディントン侯爵が廊下に向かって、こっちだぞ、と誰かを呼んだ。ヒロが扉に視線をやると、一人の青年が入ってきた。ヒロは、入ってきたその人物に目を見開いた。
「はじめまして」
耳にかかるくらいの長さの銀髪に、綺麗な赤い瞳をもつ、美しい男性だった。少し長い前髪の隙間からのぞく瞳は、まるで宝石のように輝いている。鼻筋の通った形のいい鼻に、白い肌、綺麗な顎を持つ彼は、まるで物語に出てくる王子様のようだった。いつもランドルフを見ているヒロからしたら、少し細く華奢な体躯に見えたけれど、こういう体型も女性から人気があるんだろうな、というのはヒロでもわかった。
何度か社交界で彼を見かけているとは言え、こんなにもまじまじと見るのは初めてだったヒロは、彼の美しさと醸し出される華やかさに衝撃を受けた。
エドは、ヒロの方を見た。彼はヒロと目を合わせると、にこりと親しみやすい笑顔を向けた。
「今日はあなたに会えて嬉しいです。この日をずっと心待ちにしていました」
そんな言葉を、ほとんど初対面の自分にも言えてしまうエドに、ヒロは文化の違いを感じた。ヒロは、人見知りの自分ができる最大限の笑顔をなんとか見せた。
そして、顔合わせの食事会が始まった。
アディントン侯爵から、エドの紹介が始まった。彼はアディントン侯爵家の嫡男で、今年で18歳になったのだという。もう嫁に行った姉がいること。学校では常に学年1位の成績だったこと。家の跡取りとして学校を卒業してからはアディントン侯爵と働いており、去年から、城での仕事もある侯爵について城に出入りして一緒に仕事をしていることなどを聞かされた。
ヒロは、噂には聞いていたけれど、具体的に聞くと本当に優秀な人なのだと驚かされた。
次に、スミス侯爵からヒロの紹介が始まった。つい先日20歳になったばかりであることや、跡取り息子である兄がいることなどを話した。エドと違って客観的な長所として紹介できることがなく、ヒロはこの場にいづらくなってしまった。褒めることが他にないのか、スミス侯爵は、ヒロが花の世話をしている所がとても可愛らしいなどと、本気の顔で言い出してしまい、さらにはスミス夫人もうんうんと同調しだしてしまい、ヒロは恥ずかしさから消えてなくなりたくなった。
時折、ヒロがエドの方を見ると、エドもヒロの視線に気が付き、にこりと社交的な笑みを返した。ヒロは、その笑顔に耐えきれずにばっと視線を反らしてしまう。
「(…眩しい…陰の者には眩しすぎる…目が潰れる…)」
ヒロは、自分より2つほど年下だけれど落ち着きと余裕を感じるエドに、人はどれだけ長く生きたかではなく、どんなふうに生きたかが重要なんだな、とそんなことを悟った。
食事が全て終わると、最後に紅茶が出てきた。そのタイミングで、両親達は席を外すことになった。
後はお若い2人で、という状況にされてしまったヒロは、どうすればいいのかわからなくなった。間をもたせるために、喉なんか渇いていないのに何度も紅茶のカップに口をつけた。すると、エドが笑顔で口を開いた。
「ずっと他の縁談を断ってきているとお伺いしていましたが、よく俺との縁談は受けてくれましたね」
また紅茶を飲もうとしていたヒロは、えっ、と声をもらした。
「あなたみたいな真面目そうな方は、俺みたいな男は避けたがるものかと思っていました」
エドの言葉に、ヒロは蔓延するエドの数々の浮名を思い出す。ヒロはカップをソーサーに静かに置いた後歯切れの悪い声を出した。
「…いえ、そんな…」
「このまま特に何もなければ、俺たちは結婚することになると思います」
エドの言葉に、ヒロは少し目を丸くする。そして、目を伏せる。ジムの顔がヒロの頭に浮かぶ。彼が自分を愛し続けると誓ってくれた以上、自分も彼を愛したい。けれどそれは、夫となる人に不誠実なことだ。かといって、結婚せずに家に居続けられない。本当の親子ではないのだとわかった瞬間から、ヒロは家に自分の居場所がなくなった感覚に陥っていた。ジムのことを思い続けたい。どこか静かな場所で立ち止まっていたい。それなのに、周囲はそれを許さない。ヒロは息苦しい気持ちで一杯になる。
「(自分がどうしたらいいのか、何もわからない。心の整理がいつまでもつかない私が愚図なんだ…)」
ヒロは、幼い頃からどんくさくて、何度もころんでは泣いていたことを思い出す。するとランドルフが呆れたような顔でヒロを抱き起こして、ぐずだなあ、と笑いながら言うと、ぶっきらぼうな手でヒロの涙を拭いてくれた。
それからしばらくしてから、ヒロはジムと出会った。幼い頃よりはましになったとはいえ、時折こけるヒロのことを、ジムは愚図だなんて言わなかった。ただ優しい笑顔で手を引いて、大丈夫?と優しい声で聞いてくれた。ヒロにケガがないことを確認すると、安心したように笑ってくれた。その笑顔が、ヒロはたまらなく好きだった。いつまでもずっと、その笑顔が自分の前にあるのだと、そう信じて疑わなかった。
「(…私は結局、あの頃のまま。時間だけがただ過ぎていく。それに追いつかなくちゃいけないのに、走る元気がない)」
テーブルの下で、膝の上に置いた手にヒロは力を込める。しかしすぐに緩めた。ヒロが小さく息をついたとき、エドが、俺は、と話し始めた。
「俺は、あなたを妻として愛する気はありません」
「……え?」
ヒロは、まじまじとエドの方を見た。エドは、あの社交的な笑顔を浮かべたままだ。
「俺はあなたと結婚してからも、他の女性とお会いするのをやめる気はありません。家が決めた結婚と恋愛は、別に考えていただけませんか?だって俺は、あなたのような控えめな方が、そんなに好みではないんです」
すらすらと紡がれるエドの言葉に、ヒロはぽかんと口を開ける。エドは、不敵な笑みを浮かべてヒロの方を見ている。自分以上の縁談などほとんどないことに加えて、20歳という貴族の令嬢が結婚するには少し年が過ぎかけているヒロを下に見ているからか、こんなとんでもない条件を随分余裕な表情でエドは提示した。
エドは余裕の表情を浮かべて、ヒロの出方をうかがっている。下手の態度で条件をのむか、それともさすがに怒りだすか、とエドは楽しみにすら感じているようだった。
ヒロは、じっとエドの方を見ていた。テーブルの下の手が震えるのを感じた。怒りからではない。お腹の底から沸き上がる喜びからだ。
「私も…私もそう思っていたんです!!」
ヒロは、目を輝かせてエドにそう告げた。喜びから来る興奮で頬がぱっと赤く染まる。エドは、えっ、とさすがに予想外だったのか目を丸くした。ヒロはそんなエドには気が付かず、嬉しさを全身から発するような表情で話し続ける。
「私もあなたのこと、全然愛せそうにないなって、そう思っていたんです!でも、お嫁に行きそびれたら両親に申し訳ないし、どうしたらいいのかずっと悩んでいたんです…。でも、そちらがそういうスタンスでいてくださるのなら、お互い様になれて何の罪悪感もなくあなたと結婚ができます!」
「えっ」
「それに、私もあなたみたいな派手な人全然タイプじゃないんです!」
「え」
「私たち所謂、ウィンウィン、っていうやつですね!」
ヒロは、嬉しくて熱くなる頬を両手で包んだ。こんなに自分に合った結婚がこの世にあったなんて、と、ヒロは叫びたくなる気持ちを必死で抑えた。
「変な人だった」
エドは、彼の姉であるリサの嫁いだ家、オーサー子爵邸のリビングのソファーで腕を組んで座っていた。リサの飼い猫のミィがエドの膝の上に座って喉を鳴らしている。エドは今日のヒロとのことを思い出しながらイライラとした顔でミィの頭を撫でる。
自分の子どもである双子の男女、ダンとリンに絵本を読んでいたリサは、呆れたようにため息をついた。
「あなたねえ、友だちがいないからって私のところに愚痴を言いに来ないでっていつも言っているでしょう」
「…いなくはない。1人はいる」
「それは失礼、訂正するわ。友だちが少ないからって、姉の家に来ないで。私も忙しいのよ」
「そうよ、おじちゃま。わたしたちはおかあさまにえほんをよんでもらいたいのに、おじゃまをしないでくださるかしら?」
5歳になる娘のリンが、リサと同じ顔をしてエドの方を見上げる。エドは苦々しい顔で、おじちゃまじゃないお兄様だ、と返す。
すると、息子のダンが、だめだよリン、とエドを睨みつけるリンの頭を優しく撫でる。
「おじちゃまにそんなひどいこといったらいけないよ。おじちゃまはかわいそうなひとなんだから、そんなひとにはことばをえらんであげなくちゃ」
「…君のほうが幾分ひどいぞ。あとお兄様と呼べ」
「なんだなんだ?エドがなんかあったのか?」
仕事から帰ってきたらしいリサの夫ダグが、興味津々な様子でエドの隣に座った。リサが、あらおかえりなさい、とダグに言う。ダグはエドの話を聞きたそうにワクワクした顔をエドに向ける。
「何があったか教えてくれ。俺はイケメンが痛い目にあった話が大好きなんだ」
「…姉さん、なんでこんな奴と結婚したんだ?」
「あなたは人のこと言えないでしょ。だいたい何よ、自分は相手を愛せないって言っておいて、相手にも同じことを言われたから変な人、だなんて、そんな馬鹿な話あるかしら?なにを自分だけ許してもらおうとしているのよ。そもそも、これから結婚しようって相手に喧嘩売るようなこといって、破談にでもなったらどうしていたの?」
「別に、破談になっても縁談なら他にいくらでもある。俺に干渉しない相手でなければ結婚なんてできない。この条件を飲む相手でなければ話にならないからだ」
「で、干渉しないどころか喜ばれて動揺しちゃってるわけね」
リサに図星をつかれて黙るエド。リサは、そんなエドに呆れたようなため息をついた後、口を開いた。
「でもいいじゃない。本気で人を好きになれない性分なんでしょう?理解がある結婚相手だなんて有難いじゃない」
「…」
エドは、リサの言葉に目を伏せる。ミィかエドの口元に頭を擦り付ける。エドは静かにミィの頭を撫でる。
「俺が本気で好きになれないんじゃない。相手に本気で好きになってもらえないんだ。…俺は外側だけが立派で、中身はなんにもないんだ」
エドの言葉に、リサは心配そうに弟を見つめる。すると、なんだ、自虐風自慢か、そういうのつまんねえぞ!とダグがつっかかったので、リサが、はいはい、と夫をなだめた。
そんな2人を置いて、エドは頬杖をつきながら、今日のヒロのことを思い出していた。私もあなたを愛することはない、とエドに言い返したヒロのあの笑顔。
「(…向こうが俺に興味を持つ気がないなら、俺のことを深く知られることもない。…俺の結婚相手としたら最適なのか…)」
静かに考え込むエドの頬に、ミィがにゃあと鳴きながら頬ずりをした。